アセンション出来ない、自分がエゴにまみれており、隠し持ったエゴに気が付かない人々 | 【ガイヤのえがお】 必要なものが、必要な時、必要なだけ、の社会をめざす。    神聖政府、神官光の絵師

4月26日更新はありません

エゴの影響に関係なく、アセンションんするひとは1~2割のひとたち

 

他の人たちは、自分でも気が付かないエゴの影響で

エゴの低い波動の影響で引っ張られ、アセンションの高い波動に届かず

 

アセンションできません

人ごとではなく、真摯に受け取ってください

 

大なり小なり経験しているはずです

それに気が付き卒業していますか?

 

エゴは完全に無くなりません、肉体精神の自己保存ですから

まずエゴを認識すること、そして、うまく付き合う事、少しでも精進することです

笑スター照れドキドキドキドキドキドキ

 

 

 

 

 

永久保存版

 

善我とは、ハイヤーセルフに天・神に繋がる心、他に奉仕する心

偽我とは、エゴにまみれており、アセンション出来ない人たち。こら~気が付いてほしい笑

 

5次元(第五密度)へアセンションするなら、

存在している密度を楽しみ、51%以上、善我に偏る必要がありますが、

 

自分が偽我(エゴ)に捕らわれていることを理解していない人が、

余りに多いので、紹介します。

 

私が、地上に降りた天使に助力者、秘書として過ごしたとお伝えしましたが、

本当は、一時期日本に降りた地球評議会であり、紹介する【善我と偽我について】の話は、高貴な魂からのお話です。

 

善我と偽我について

 

まず、善我というのは、善なるものについて深く追求し、いつわざる善の心を披露することを理想とする生活態度を言います。

 

それはいろいろな意味を含み、いろいろな表現方法がありますが、善我の定義が、自然であるがままの気取らぬ自己を感じとるということに始まり、いつわざる自己であり、また他との全面的に協調すし調和する心に終わるということ。

 

これは、名人達人といわれる人の虚心担懐の心情と相通ずるものがあるのです。

訳注:虚心担懐(きょしんたんかい)。心になんのわだかまりもなく,平静な態度で事にのぞむ・こと(さま)。

 

すなわち善なる心という安定した曇りない良心に支えられ、何ら心を乱すものはなく、流動的でいかなる人にもその心情を等しく合わせてゆく事が出来る水の流れに似た心であり、少しも片寄ることも、ゆがむこともない。真理を常に求めて真髄を学ぶ事に喜びを、見い出す心の余裕を持つことのできる精神のあり方なのです。

 

正しきを喜び、自己の過ちを認め、悪びれず、素直に正していく事の出来る柔軟な心構えなのです。

 

ところが、善人であろうと欲し、そのごとくふるまい語りながら、己の非を問われたらたちまちにして、プライドと虚栄心がとってかわり、出来うるかぎり己を隠して、欠点を見せまい、弱点をさとれまい、過ちをしられまいと自己保存に専念する。

 

そうなれば事の正否ではなく、ただ言い張り拒否し続けることによって、相手があきらめるのを待つ、相手の追求が終われば、それで自分は安全であるという、このような善人もおります。

 

これは何と呼びましょうか、善人は善人でしょうが愚か者であり小人なのです。

 

そして、これは善我と呼ぶにはあまりに人間としての欠点を持ち過ぎた人です。これは偽我と呼ばねばなりません。自己保存という偽我です。

 

霊界の意識です。(大別すれば、第3密度上前後の波動)

 

また、いかにも善意に満ちておりながら、何においても善行を人より以上に励み、つくすことが生きがいといった人も居ります。人にもまた大きく宣伝します。自信を持って自分は悪いことをしたことがない、良い事のみをなしてきたと、その善事を数えあげます。

 

いわゆる大変積極的な性格です。このような人に頼むと物事が大変はかどると思わせる人です。

 

ところが、このような人に何かを頼めば、いつもそれを過大に評価し、感謝を繰り返し言わねばならず、心の重荷となるような場合さえあります。あますさえこの人の行為はいつも、感謝して受けねばならず、少しでもそれを迷惑がったり否定したりすると、大変気分を害するのです。

 

このような人は善人でしょうか?

 

善人どころかその反対で、大変おしつけがましい、他人の心や思いが目に入らぬ人であり、自分の考えしか胸中にないのです。これこそ偽善者の代表といわねばなりません。これは自己顕示欲という偽我なのです。

 

これも霊界ですね。(大別すれば、第3密度中前後の波動)

 

また穏やかでいかにも、やさしく善意そのものといった印象を与えるにもかからわず、人からの真の愛情や友情を得られない人もいます。

 

こういった人は、えてして完全主義者であり、いかに人に良い印象を与えるか善人であるといわれる為には、どのように振舞えば良いかといったことにまで、神経を使い計算して行動します。スターがファンに対して注意深く振舞うのに似ていますね。

 

このような人は、外見に注意をは払うあまり、肝心の人の心を見抜き人が何をしてほしいと、願っているかを悟ることが出来ないのです。

 

つまり、表面は神経が細やかで言葉にも注意して完全な人格者としての印象を与えようと望んでいるのですが、自己をつくろう余り、愛情に欠けてはならない他への思いやり、どうすれば他の人を喜ばすことが出来るのか、幸せな思いを与えることが出来るのか等については悟り得ないのです。

 

これも善人とはいえません、暖かい思いやりに欠けるからです。それにふさわしく他からの愛も友情もうることは出来ないのです。

 

これは偽我であって善我ではありません。エゴイストという偽我です。

 

わがまま勝手というのは、エゴイストの派手な現れ方ですが、冷たい性格で他人の気持ちが解らないのはエゴイストの陰性のあらわれかたです。

 

幽界(第三密度の下)か知識階級であれば神界(第四密度の中)の域を出ません

 

また善人であると自称し、他にも強制的に認めさせるひともいます。おおよそ徳と名付けられる事は全て行い、いかなる法にも反せず細かいところまで正しいと思われ語ることは全て為している。

 

完全な徳の、持ち主で非難すべき所は少しもない、自分が正しく徳にかなうことをなしており、言葉においても、行いにおいても、非のうちどころがなにゆえに、他人の欠点やいたらない所が気になり、叱らずにはいられない、文句を言わずにはいられない、このような人も勿論善人とはいえません。

 

聖書では律法学者と呼び、一人で社会の掟と道徳を作っているような人で、それがこの人の生きがいでもあるのです。

 

しかし、これとて裏面から見れば、自分の納得のいく形での自己の完全主義的傾向を満たす為に行うのであって、他人の思慮や感情などどうでもよいのです。

 

つまり、自分が他からなじられる非がなければ良い、欠点や弱点がなければよいといった自己中心的な自己保存的な気持ちを一歩も出ていない偽我なのです。

 

少しでも過ちをなすと不安になる。机が少し曲がって置いてあっても真直ぐに直さないと気になる。ほこりが少したまっていても気になる。全てが完全な状態でないと気に入らない脅迫的な偽我なのです。

 

神界(第四密度中)の意識です。もう二つあります。

 

それは人間としてありとあらゆる欲と灰汁(あく)を持ち、不道徳なこと人に嫌われるようなことも、社会で成功するため名誉をうるため平気でやって来た人が、成功と名誉を勝ち得た時に、世評が急に気になり出し、その醜い人間的な過去を世人に忘れさる為にやたらに善行を施す人がいます。何々に寄付、何々の擁護をいった事に必ず名を連ね目立つことをします。

 

これはうしろめたい自分の良心をごまかす自己欺瞞的なやり方で、明らかに偽善者的な性格を持ちます。偽善者に共通の嘘をつくことが平気で、それがのちに本当であるかのように錯覚してしますような人です。自己欺瞞という偽我です。

 

霊界の次元です。(第三密度上)

 

おわりに、これは善もなさず悪もなさずという人で、大変気が小さく他人の評判が気になるのに、非常識的で爪に火を灯してなりふりかまわす倹約的な生活を送る人。

 

つまり、吝箇家(りんしょくか)どの過ぎた倹約家であってこういったひとには善も悪もなく、従って徳とはなにか、自由な魂とは何かと知ることに永久に無縁であり、ただ気がすみように倹約し大金をためることに生きがいとする。

 

これは、善我ではなく偽我のかたまりなのです。

こういった人はには平和もユートピアも無縁です。

 

勿論幽界の次元です。(第三密度の下)

 

つまり、自己の現れかたにおいて、そこに自然な感情・愛情の流れを感じさせないものぎくしゃくと不自然な感情が本人をおおっているもの、真理や真実を受け入れずに背を向けるもの、これは偽我なのです。

 

善我とは

 

半面、自然で暖かく飾り気なく、よそおったものもなく開けっぴろげで、心から素直に笑うことの出来る、信頼して間違いない人に確信を与える、これを善我といい、また良心の曇りなきにより、自由な魂ともいえるのです。

 

ギリシャの自然哲学者に共通する心であり禅僧の悟りにも似たこころでしょう。大自然の法則・成り立ちというのも、これに似ていて、環境を形造る上に理想的なもののみが良しとされ、理想の条件に合わないものはどんどん形を変え姿を消してしまう。

 

調和というまろやかな流動する様相、そこにはバランスという大切な要素があります。自らの内なる生命のバランス・他とのバランス。己れを生かし他を生かす、その気律のうちになければたちまち一つの環境を形造っていたもの全てが破壊され、その中にあった生物は植物を含めて、生存不能となってしまう。

 

つまり、大自然そのものが歪みや不自然なバランスを好まずに、自己調整をするがごとくに見えるのです。調和のとれた、永続性を持つ自然環境は決してその中に余分な片寄り過ぎた要素を含みません。

 

過度の過ぎず過少に過ぎず、自然の中に含まれる動植物の数のバランスさえ一定の数を保ち、多く増えすぎたものには天敵という自然の与えた自己調整法があります。

 

つまり、過度にすぎるものは調和のバランスを崩すものであり、地ならしをされねば常に流動する地球という惑星上に生息出来ずに存在できないのです。

 

恒星と惑星上の引力のバランスが崩れれば惑星の様相は一変します。その時、惑星上のあらゆる有機物・無機物はそのつり合いの数が変化します。

 

したがってそれは生態に変化を及ぼし、現在地球という惑星上に保たれている自然の法則と数のつり合いは一度に変化し、環境は破壊され均衡を失うでしょう。

 

このように全てにおいて、調和と過度に過ぎぬこと、つまり善に偏る中庸が自然と宇宙に法則であり、ひいてはその宇宙に含まれる有機物・無機物、そして生態の法則でなければならず、またそうすることを与儀無くされて来たのです。

 

これを広義における善といい、人間にあてはめると同じような自然の法則に心身を従わせることになります。

 

己の節制を図り、心のあり方を律すること。それが大自然の中の一環である人類の為すべき務めでありまた責任でもあるのです。

 

その自然と同じ心の有り方を狭義における、善我の解釈に用いて、善我は自然の成り行き、すなわち自然の法則と同じようなものなのです。