光の絵師のひとり言
自分を見つめるには、見たくない自分を見る強い心、善なる心、善我
見たくない自分を見ないように避け、ごまかすのは、偽なる心、偽我
地球・ガイヤ評議会の
高貴な魂からのお話です。
自分の波動を上げることに
役立ててください
アセンションの五次元(第五密度)の波動に届き
素晴らしき世界への移行を祈ります
愛と慈悲について
愛が献身の姿をとってあらわれる時、あわれみは、慈悲の衣をまといます。
愛は、その現れにおいて、両極端な形を示します。執着ななきものがアガペーの愛、無償の権化がエロスの愛です。
アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛は奪うのみなのか、考えたことがありますか。
与えるとは如何なる意味か、奪うのみとは如何なるものか。
与えるというのは、文字通り具体的に何かを与えるということではなく、その中には待つこと、見ること、守ること、足らぬことを補(おぎなう)こと、を含みます。
それらをなした上で、相手の中から、良所を引き出し、長所を伸ばすことが出来るのです。
そのような愛は、留まることを知らず、必然性と適切さをもって働き影響し続けます。
自らも、また同時に成長を続けるのです。ちょうど宇宙の法則が、破れることなく一定の方向に向かって運行しているように。
奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
自己に安定した支柱なき故に、他に対して安心できるものを求める結果なのです。
アガペーの愛は、与える者にも受ける者にも、何らかの支柱があった場合に、調和と均衡をもたらします。
その支柱とは何でしょうか。
神―――、
すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理を求め信じる心。
少なくとも、醜さのない美しい交流や行為を信じることのできる心です。
そして、行おうとする意志があることです。
安定した支柱なき者は、ザルに水を注ぐがごとし。
慈悲は、憐(あられみ)の心から来るものですが、それは、重さや、暗い涙を伴うものであってはなりません。
慈悲魔と呼ばれている執着は、人を愚かにします。
奪うのみの愛が不安定な心から来るなら、無差別な慈悲は、やさしい心からというよりも、弱い心から来るものです。
心弱さもまた、自らに支柱なき故にそうなるのでしょう。
慈悲をかけすぎるのは、貪欲(どんよく)に人の愛情をむさぼる姿の裏の形にすぎません。
出所は同じなのです
あなたは、心に支柱がありますか。
人を信じることが出来ますか。