真理は
神は愛であり
やさしさにみちている
ということです
神の愛と
やさしさは
そんじょそこらの
やさしさではありません
何しろ
今
この地球上にいる
すべての人類を
全部
救おうと
いうんですからね
肉体人間の世界ですと
自分とこの人は
ウマが合うけど
あの人はどうも
とか
いろいろ
えり好みをするでしょ
選んじゃうんですよね
だけど
神様は選ばない
なぜかといえば
みんな
一人のこらず
自分のこどもだから
みんな
自分の生命から
霊から分かれていったんですから
好きとか
嫌いとかじゃない
世界人類すべての
いのちの親ですからね
神様は
私どもは
つねに呼ばれてるんです
神というふるさとに
世界平和の祈りをすると
それが
本当によくわかる
勿論
自分の魂は本心は
とっくに知ってるんですよ
だけど
日常の雑事に追われている我々が
世界平和の祈りのなかで
統一してゆくと
自分の居場所
もともと
自分の生命がながれてきた場所ってものが
わかってくる
そして
ホッとして
本当に魂がやすまるっていうか
心がやすまるっていいますかね
そういうことになるんです
なぜそういうことになるかといえば
世界平和の祈りそのものが
神様のところへかえる
エレベーターだからです
この祈りには
神の愛が
やさしさが
大円光
光明体が
柱になって
立ってるんです
で
もともと
人間は神からわかれてきた
分生命(わけいのち)であり
分霊(神の智慧の光)ですから
この祈りを唱えるときに
あなた方一人一人が
自分自身にかえってゆくわけ
なんです
とらわれとか
こだわりとか
業想念というものは
今迄
いのちの親である
神から離れていた
その間の誤った想い
というものが
あらわれて
きえるときに
出てくるものなんです
ですから
とらわれてる自分を
これが自分だ
と思って
つかまえちゃったら
業想念の
消えてゆこうとする
自分にすがることになって
グルグルと堂々巡りに
なっちゃうんです
もうこのことは
何万回説いてきたか
わからないけれど
自分自身じゃないものを
必死になって
みなさんが
掴まないように
とおもって
あらためて
ここで言っておきます
(つづく)