短 信(38) | 光のエレベーター

光のエレベーター

光のエレベーターに乗ってみませんか。
光にそっと乗るだけであとは輝きながら
昇ってゆくだけ・・・大丈夫!
五井先生、ありがとうございます。

 何よりも大事なことは愛する
ということ
であります。自分を愛し
人を愛するという
ことであります。


 この愛のなかに神のすがたがあり、
神の本質があるのであります。
 私どもは、
神から分けられてきた
いのちでありまして、
神の光、
ながれ(いのちのながれ)を
受けて
生きているのでありますが、その

ながれの大元は、この愛であり、
愛する
という行為であります。


 ところで、愛と申しますと、先ず、
うかびますのは、父母の子どもに
対する
愛でありましょう。


 私なども、母の深い愛念のなか、
こうして
生きて参ることができたので
あります。全く
父母の子に対する愛
というものは理くつ
ではありません。
 それは、見守り、育て、
抱く無償の
愛であります。


 ところが、近頃の世の中をみて
おりますと、
しばしば、この父母の愛
というものが伝わり
にくくなっている。
 それだけ、せち辛く
なっているという
こともありましょう。

 けれども、実は、父親なり母親
である
人達が、子どもにそそぐ愛の、
その
そそぎ方といったものを勘ちがい
している
ことが多いのであります。
 しばしば、
盲目の愛になって
しまっている。


 盲目の愛と、自然、無償の愛という
ものを
とりちがえているのであります。
 勿論、親の
愛というものは、りくつ
ではありません。
りくつといったものを
超えた愛である。
流露されてくる愛
であります。


 けれども、申しましたように、親の愛
というものは、そういう自然に流露
されて
くる愛ばかりでは親の愛になって
参りません。


 子どもを、見守り、育て、抱く
という
この三つの相(すがた)が、
自然な愛情の
なかにあってこそ、親の
愛なのであります。


 子どもの何をみるのか、育てるのか、
抱く
のか、それは、その子が、どんな
性質の子
であるのか、ようくみて、
叱るべき時には
叱り、ほめるべき時には
ほめてやる、
そうして、助走してやる
ということなので
あります。そうして、
私はお前のことを
愛している、だから
心配するなという心
でもって、いつも
子どもをみてやるという
ことなので
あります。これが抱くという
こと
なのであります。

 抱き放しの親がいたり、育てること
ばかりに夢中になっている親が
いたりして、
私のところになんかにも、
守護霊守護神が、
五井先生お手上げですと、
相談にきたり
しますけれども、ここの
バランスが、とれて
いないことが
多いんです。


 愛するということは、盲目では
ありません。
盲目ではつとまって
まいりません。


 見守り、育て、抱く、この三つの
相が、
溶け合った愛こそ、神様の愛
なのであります。
 
私どもは、この
神様の愛によって
はぐくまれてきた
子どもなので
あります。


 私は神様じゃない。だからそんな
上等な
愛を、子どもにもまわりにも
抱けない、
なんていう人があったら、
それは、つねに
私の申します卑下高慢
なのであります。


 なぜなら、私どもは、神から分かれて
きた
いのちなのですから、この神の愛は、
ずっと
ずっと、天命を果たしおえるまで、
私どもの
なかにふりそそがれているもの
なので
ありますから。私どもが愛する
のではない。

 先ず、神が、私どもを愛して下さって
いる
のであります。この身の何もかもを、
一度、
神にお返しして、任せて、
そうして祈りつつ、
わが子への、また、
まわりの人々への愛と
やさしさを、
たくわえてゆくべきなので
あります。


 もう一度申します。私どもは無一物
なのです。凡夫なのです。
 その凡夫(肉体
我)である私たちは、
大元の神の愛へと
回帰してゆく時、
いのちあらたに
生きてゆくことができる
のであります。


 世界人類が平和でありますように

         合 掌
           昌 久