結婚相手なんかを選ぶ時に、よく昔から冗談で、
心より顔とかですね、何がなくとも美人がいい
とか、色んなことを申しますけれど、私は、
やっぱり人間として何が一番大事かと言えば、
これは何がなくとも優しさだと。
優しさがなくなったら、人間というものは
優しさに伴う潤いがなくなっていって、そして
遂には、人間が人間らしさを失なっていく
という風に常々考えています。
ところで、優しさというものですけれども、
これはただ単に誰に対しても優しいとか、何に
対しても優柔不断な位(ぐらい)優しいとか、
そういうものが本当の優しさではない。優しさ
というのは何かというと、これはまずは、自分を
愛する心、そうして人を愛する心、それから人を
容れる心であります。
この三つがなかなか難しいのでありまして、
特に人を容れるということ、寛容な心になる
ということ、これはなかなか出来ることでは
ありません。
虫の好かない相手というものはありますし、
あるいは一緒の同僚でも、この人とは仕事が
しやすいけれども、この人はもう一言居士で
なかなか文句屋で、この人とは勤務は一緒に
組みたくないとかですね、虫が好かんとか色々
出てきます。で、そういう相手になかなかじゃあ
優しい気持ちをもつということも、非常に難しい
ことなんでありますね。そういう事で色々
悩んでる人もある。
又、家庭の中では、姑とうまくいかない、舅と
うまくいかない、嫁とうまくいかない、兄弟が
どうのこうの、色々なことがあります。社会
ばかりじゃない、自分の家の中に向けたって、
色んな気持ちが人間はぶつかり合って出て来る
もんなのであります。そういう中で優しさ
ということを極めていくのは、これは本当に
考えていけば、本当に見つめていけば、
ものすごく本当は難しいことなのであります。
人を容れるとか、人に優しくするとか、自分に
対して優しくする、自分を愛するとかいうことは、
これはなかなか自分の想いだけでは出来ること
ではなくて、これは祈りの中で、ずっとこの命題
というものは宿題にして考えていかないと
いけない。あるいは、我々人間が向かって
いかなきゃいけない問題だと、私は考えます。
我々の会の、世界人類が平和でありますように
というのは、個人も人類も共に真実の救いを体得
できるものであるという風に、私は教義の中で
申しましたけれども。
世界人類がというこの世界人類の中には、
自分自身も入ると同時に、普段は固有名詞で
考えますと虫の好かない誰々さんであるとか
ですね、あるいは隣のおっさんであるとか、
色んなものが浮かんで邪魔をしますけれども、
世界人類というもののその言葉の中へ
入れてしまうと、そういう余分な余計なものが
一切消えてしまいまして、ああ世界人類がー
と想えてしまう。そこで祈れてしまう訳
であります。それでもって、自分も祈っている
時に、自分の心がずーっと優しくなっていって、
そうしてその優しさというものが回りにどんどん
溢れていく。
その溢れていくというのは、ただ観念で私は
申し上げてる訳ではなくて、皆さんが世界人類が
平和でありますようにと、私と一緒に祈って
下さる、あるいは、祈りのテープで倶に祈って
下さる時に、統一会の時でも来て祈って下さる
時に、こちらから見ておりますと、世界人類がー
と統一すればする程、光の波というものが
皆さんの心の中から、あるいは体からずーっと
出てまいりまして、そこへ優しいという気持ちが
広がっていく。それがこちらからは見えるわけ
であります。そういうものが見えたら、先生
一遍に信じるんですけどという人に
随分(ずいぶん)会いますけれども。
人間というものは、見える世界だけで生きてる
訳じゃない、見えない世界で生きてる。実は、
見えない世界からそういう働きなり祈りなり
エネルギーなり貰って生きているわけ。なんで
それを見えさせないかというと、見えたら邪魔に
なってしようがないんですね。あの人の方が光の
波の色がいいとかね。この人の方が真白に近い
とか、自分はオレンジだとか、何か紫色だなんて、
見え始めたらもう色に迷っちゃって何にも
出来ない、けれども、見えたって見えなくたって、
とに角、世界平和の祈りの中で一念になって
祈っている時に、皆の光の色というのは本当に
きれいな色なんですね。そして、そのきれいな
色になっている瞬間というのは、皆菩薩なんです。
一分キリスト一分釈迦ということを、私は
前にも申しましたけれども、その時には本当に
皆がもう透き通った生命そのもの、本来の
さながらの生命そのものになって祈っている。
だから、神様の想いと一致して祈っている。
その時には、本人も気づかないけれども、
本当に“やさしい”という言葉も追いつかない程、
やさしい波動がスーッと出て、そうしてそこへ
溶け込んで祈っている。
だから、優しくなるとか優しくしようとかいう
ものは、本当は、それはまずきっかけなんで
ありまして。愛情というものも、例えば、
抱かれた経験がないと抱かれるということが
どれ程気持ちがいいか、赤ちゃんでも
そうですよね。今、抱きぐせがつくから
抱かれない子供が増えてる。そうすると
何が起こるかというと、お母さんの暖かみ
というのを知らないで育つ子供が多くなるから、
後になって学校に行きたくないとかいう子供が
増えてくる。
愛情というものは、やっぱり抱かれた記憶
というものがないと育っていかない。だから、
愛情というものはもちろん本能的なものでもある
けれども、一面、習慣でもある訳です。その愛情
というもの、どんどんどんどん高めていった愛情
というものはどこで発揮されるかというと、
祈りの中で発揮されるから、その祈りを高めて
いく為には、こういう世界人類が平和であります
ようにという、こういう高い祈り、この高い
祈りの中で、自分も気がつかないうちに、
自分自身がやさしくなる。やさしくなってる。
いつの間にかしら優しくなって気持ちが良く
なって、そうして、祈りの場所から日常生活の
中へ帰ってきた時に、何かしら前とはちょっと
違って、人に接する時に、少し何かやわらかく
接することが出来るようになるとかね。
あるいは、ちょっと腹立たしかったのが前より
ましになったとかね。
そんなところからだんだん気がつかない内に、
やさしさというものが芽ばえてきて、あるいは
深まっていって、本当のやさしさへ、神さまの方
から持っていって下さる訳です。
先程申しましたが、やさしいということの中に
三つあると申しました。つまり、人を容れる
ということと、自分を愛するということ、人を
愛すること。人を愛するのと人を容れる
というのは、だいたい同じと、まあいまのところ
しておきますが。
自分を愛するということはどういうことか。
それは自分を大事にすること。自分を大事に
出来ないということは、本当に自分を愛せない
ということです。つまり、自分を大事にすると
いうことは、自分の今の有りのままの姿を
見つめて、ああ自分は今ここに居るんだな、
自分は今こういう気持ちでいるんだな、その
自分を確認して、そうしてその自分を抱きしめて
やる。そして、自分の守護霊さんなり守護神さん
なりに、今自分はこんな状態ですけれども宜敷く
お願い致します、とこう渡してしまう。あるいは
祈ってしまう。
それが自分を大事にするということです。
(後半に続く)