業を浄める | 光のエレベーター

光のエレベーター

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光にそっと乗るだけであとは輝きながら
昇ってゆくだけ・・・大丈夫!
五井先生、ありがとうございます。

 業を浄めるという題を出しましたけれども

業というものは非常にやっかいな

ものでしてね、本当に次から次から

湧いてくる。

 この間も質問があって、五井先生、

なくなる時に業を全部持っていくといって、

後カスみたいなものだと言ったけど、

あれは嘘だったのかというね、そういう

質問がくる位、肉体の人間というものは

業を湧かせますでしょ。業といったら

ちょっと言葉がきついけれども、

こうして欲しいああして欲しい、こう

なりたいああなりたい、ね、そういう

ものもやっぱり度が過ぎると業に

なっていく。それだけならいいけど、

念になってね、そうして、その想い

というものはいつも申しますように

飛びますでしょ、飛んで色んな所へ

行きますよ。


 例えば、皆さん気がつかないけれど、

眠ってる間に、自分の友達が死にそう

だとか、何か心配事がある、離れてる人が

いるなんていうと、あなた方の霊体のね、

一番動きやすいところへさあっと飛んで

行って、そして、その人の枕辺に行って

慰めたり手を握ったり光を与えたりして、

さあっと帰って来る。そういうことは皆

やっているんです。ただそれを

気がつかないだけの話でね。浄めてるん

ですね。


 だけど、実際に業というものはやっぱり

生きている証かと思う位湧いてくるね。

 業というものに把われても、もう

把われたら最後いっぱいになるでしょ。


 生きてる時も死んでからも本当にまあ

ずっと浄め続けていますけれどね、ただ、

業を浄める時にね、皆さん浄める立場の

方だから申し上げますけれど、業という

ものに対して、やっぱり恐れるとかね。

 例えばですよ、どこかお家を浄めて

ください。すごい病人がおります、浄めて

下さい。想いがくっついて来ますよ。

 だから、〇〇さんなんて、いつか病気に

なったんじゃなかったかな。出すぎてね、

印をもらっちゃった時にね、あれだって、

病気になるというのはね、こっちから

見ていると大変なことだけれども、あれで、

体の中の余分な、〇〇さんの業なら業

というかなあ、そういうものに対する抵抗力

ですよね。それをつける為に病気にさせて、

病気が治ったとたんにというか、病気を

とり去った時に、光がうーんと中へ入って、

そして浄める力というのがうんとアップ

するように、病気をするということは

そういう事です。病気をするということは、

熱を出すということでも何でも、浄化作用

なんですね。だからその時に、ああ

病気になってありがとうございます

と言えたら一番いいんだけれども、

苦しいのが先にくるね。だけども、

煎じ詰めて言えばそういうことですね。


 業を浄める時にね、一番大事なのは

恐怖心をなくすことね。それから、私が

いつも言ってますように、私がやるんじゃ

ないということ、神様がさせて下さる。

 守護霊さん守護神さんがついてて

下さる。お浄めする相手にもね、どんな

人にでも守護霊守護神というものが

ついてましょ。だから、その人たちから

頼まれて私は代理人でやるんだから。

 私がやるんじゃなくて、私の後ろの

神霊が動くんですね。あるいは

五井先生が動くんです。あるいは、

五井先生を通しての神様の愛情が

動くんですね。そこをちゃんと

見てますとね、私の体を使って私の

祈りを用いて私の言葉を用いて、実は、

そういう大愛というものが動くから、

だから、スーッと色んなものが上に

昇っていくんですよ。


 この間、ほら、五井先生がどうのこうの

というの大変だったでしょう。あれだって

もうちょっとね、君がさ、きっちり信仰

してればといったらあなたを責めることに

なるかもしれないけれども。君だって

皆そうだけれども私に出来るだろうか

というのがあるから、ある間はやっぱり

昇り切らないんだよ。


 印をきる時だって、私がやるんじゃ

ないんです。任せてしまって、向こうから

力がきてエネルギーがきて、いつの

間にか消えるんですよね。そういう

もんなんです。


 浄めるということは祈るということと

いっしょなの。祈るということは自分を

なくすことですと先程言いましたよね。

 なくする練習をすることです。浄める

ということはもっとすごいでしょ。もっと

色んな想いとか病気とかいうものをねえ、

浄めて下さいとか、浄めることによって

窮地から脱却させて下さいとか、そういう

色んな人の想いを受けますでしょ。

 受けて受け取ったまんま、苦しいまんま

印をきったってしょうがない。仕方がない。

 それじゃあ駄目なのね。それは、業

というものは消えるんだから。色んな

意味でです。神様すいませんお願い

しますと言ったとたんに神様が

受けとって下さってるんですよ。目には

見えなくてもね。そこをちゃんと信じて、

そこをおもいながら祈って統一して、

印なら印をきらないと。僕みたいなのが

やって出来るかなあとかね、私みたい

なのがやって出来るかしらとかね。

 それがやる間ってのはあれは

大変ですよ。上に昇らない。昇り

きらない。もうちょっとなんだよね。
 
 又別の課題を出しますから、

その時にはちゃんと今度は切るんだよ。


 結局ね、自分がさせていただいている

というのをもう少し進めていくと、私が

するんじゃないになるでしょ。そして、

私がするんじゃないというのをもっと

進めていくと、神様の愛がこの業を

消して下さるんだでしょ。業というものは

なくなって、光になっていくということに

なりますね。


 闇というものはないんです。本質的に

言えば。本来の世界から言えばね。

 だけど、闇と見えるものはいっぱい

あるんですよ。その闇と見えるものを闇

だとおもい間違えてね、とらえ間違えて、

そこへ引っかかっちゃうと、苦しくって

苦しくってしょうがなくなる。例えば、

痛みがくる、痛みが辛い、もう本当に

痛みが辛いという時に、その辛い辛い

つらいで辛いにひっかかってるとね、その

痛みそのものがずっと続いていきますよ。

 頭の中から心の中から離れないから、

あるいは、体から離れないように自分で

ぐっとおもっちゃってるから。ところが、

痛みの最中でも、誰かから電話が

かかってくるとか、何かしなきゃなんない

ことがあるとか、何かそういうことがあると、

何分間かでもその痛みを忘れている

ということがありましょう。あら痛みが

消えてる、何故か。その時に、そういう

仕事を通して守護の神霊がね、後ろで、

痛みどころじゃない、何かそういうものが

あるんだよということを皆さんに

知らせるんですよ。皆さんだって、

そういう意味で、祈りじゃなくったって

ちゃんと統一できるんですよ。そういう

体を持っているんです。肉体という

ものは業がとっつきやすいかもしれない

けれども、本来の皆さんの心だって

本心だって体だってね、痛みとか業とか

把われとか、そういうものが寄りつきっこ

ない体になってるんです。人間の体

というものはそういうもんなんですね。

 本当の自分自身に返す為にお浄め

するんだということですよね。


 五井先生なんかは、もう私もあなたも

ないし。私はね、本にも書いたけれど、

色んな人が来ますよ。そして、ひどい

のになると、先生、受験を受からして

下さいとかね、色々ありますって。

 そういう人の色んな想いをお浄め

する時に、何とお浄めするか、一つしか

ない。この人の天命が完うされます

ようにしかないんです。それによって

そりゃあ運命修正してゆきますよ。それ

によって叶えられることがある。


 斉藤さんだってさ、巡講した時に、

斉藤さんの話を聞いただけで足の

痛みが治りました、入院してたのに

退院できました、とでてくる。それで

斉藤さんは、何かあの先生が来ると

奇跡が来るとか言われて困ってさ、私に

こぼしたことがあるけれども、そういう

ことじゃないんです。本当はね。それは、

ちゃんと喜びを分け与えるんだけれども、

そういうことじゃなくって、斉藤さんなら

斉藤さんが、村田さんなら村田さんが、

高橋君なら高橋君がね、無になって、

そうして神様の言葉をしゃべってる時に、

本当に自分というものを忘れて、神様

だけのおもいで一杯になって言葉を

しゃべっている時に、やっぱり、その人は

その人なりに皆光になるんですね。

 誰一人として、この人の光が高い、この

人の光が低いというものはないんですよ。

 だから、その時斉藤さんの話を聞いて、

村田さんの話を聞いて、ね、病気が治った

とか痛みが少なくなったとかということ

になれば、それはその二人を通して、その

一人一人を通して、神様の光がパーッと

行ったんですよ。そこまで。そういう

ことなんです。


 例えば、ここから北海道の誰それの

為に祈るといっても、離れているからなあー

とか想いながらお浄めしたら駄目ですよ。

 想いが入っちゃあ駄目なんです。

 そういう人間の想いが湧いてくるのは

当然だけれども。


 しかし、神様ってものは、どんなことでも

出来る。何でも出来る。癒し方は我々の

都合とは違うかもわからないけれども、

決して我々を悪くなさらない方でしょ。

 だから、神様の中に想いを投げ込ん

でね、そして、お願いしますといって、

叩いたり印を切ったりしちゃえば、その光

というのはすごい光がいきますからね。

 そこを信じることですね。色んな業が

ありますよ。もう間断なく来ますね。

 だけども、その業の数よりも量よりも

神様の愛の方が、何十倍何百倍何千倍

深いか分からない。そうでなかったら、

地球だけでなく宇宙ってものはとっくの

昔に潰れちゃってね、人間なんてものも

とっくの昔に死んでますよ。死滅している。

 それがこうやって生きてられる

というのは、神様の愛というものが何物

にもまして優っているからです。ただ物

だけの世界だったら、ただ科学だけの

世界だったら、祈りのない世界だったら、

もうとっくの昔に色んな所で戦争が

始まって滅んでますよ。


 我々は滅びのない生命へ向かう為に

祈りをやっている。その滅びのない生命

というのは、ただ我々だけが助かろう

とか、我々だけの神様であって欲しい

とか、愛念であって欲しいとか、そういう

利己を求めての祈りではないわけです。

 我々の本来心というもの、本心の座

というものね、そこへ深く信頼して、

それが皆の生命の中に平等にあるという

ことを思って、そして、その光のおもいを

世界中にまくんだ結ぶんだという信仰

でもって、この祈りをずっと続けていった

時に、私達のこの祈りというものは、

ただ本当に光になって光明になって

かけ巡るんです。


 だから、私よりもあの人の方が経験が

あるからとかね、そんなことは、神様から

見たら問題じゃありません。あなた方の

魂というのはだいたい古いんだからね。皆

それ相応に古いんですよ。誰が特別古い

とかいうんじゃなくって皆古いんです。

 古い魂をもった人たちが、何十代何百代

と生きてきて、五井昌久に会ったんです。

 だから、あなた方に印をきれとか、何とか

という。私に出来るだろうかという様なことを

いう時というのは、あなた方がやるんじゃ

ないの。あなた方を通して神様が働くん

ですよ。私に出来っこないとかね。そんな

こといってたらいつまでたっても地上の

光明化というのは、狭い範囲でしか

出来ていかないんですね。そんなことでは

駄目なんです。


 世界平和の祈りというのは、人間本来の

生命に根ざしたエネルギーというものをね、

それぞれの立場の人達の心の中に植えて、

そうして、それを引き出して広がらせる。

 そういうものすごい力を持っている。

 だから、ピースポールが一本しか

立たないとか何とか、そんな小っぽけな

こと考えるなということですよ。

 ピースポールが一本立つか立たないか

というのは、それはその時の時期の

問題ね。色んなことがからまってるんです。

 で、その色んなことがからまる上に、

皆の想いとか思惑(わく)とか、そういう

ものが邪魔をしちゃあ駄目なんです。何事も

神様がいいようにして下さる。だから、

そこへ向かって、想いを明るく切り変えてね、

そうして精進してゆく。するだけのことは

しました。後はお任せしますってね、

ということばがありますよ、あれなんですね。


 イエスの十字架だってそうです。釈迦

だってそうですよ。大涅槃に入ってね、

後は、あれはお任せしますなんです。

 任せるということがないことには宗教

というものは本当には根づいてゆかない。

 我々を導く生命の根元の神様の大愛

というものがあるということを信頼しない

ことには、我々の信仰というものは

深まってゆかないんです。


 何も無理なこととか、あなた方の分相応

以上のことを突然やらせようなんてことは

誰も思わない。だけども、あなた方が

これが私の分相応だとか、これ以上私は

出来ないとか思ってるその枠というものを、

神様というのは守護の神霊というのは

取っぱらってね、本当の人間というものは

そんな小っぽけなもんじゃないよ、

あなた方の中にも本当の人間が息づいて

いるんだよということを知らせよう知らせよう

としている。だから一番いいのは、私は

何も出来ないけれど、神様がさせて

下さるんだったら私はやりましょうという、

そういう心ですよ。そういう心でもって、皆で

和顔愛語でやってかないと。神様の言葉

だからといって、しかめっ面でやって

いっちゃあ駄目。和顔愛語なんです。色んな

人がいるんですから。色んな人の悲しみが

あり悩みがあり苦しみがあるでしょう。
 
 それをね、溶かしてゆくのは柔らげて

いくのは笑顔なんです。何をどう難しい

ことを真理の言葉を言えるか言えないか、

そうじゃない。やっぱり笑顔なんです。

 笑顔というものはね、色んなものを

とかしますよ。色んな立場の人、たとえ

宗教の人であっても何であっても、笑顔

というものを見た時に、人間というものは

やっぱり慰められるね。笑顔にはぬくもりが

ある。笑顔とぬくもりというものでもって

人間は息づいていくんです。ほっとするん

です。何故かというと、その笑顔と

ぬくもりの中に神様の愛の源というものは

あるんだから。


 だから、難しいことを言おうとかね、

これはこう言わなきゃいけないとかね。

 ねばならぬからは何も生まれてこない。

 ねばならぬと思わないで神様に任せて

しまえばね、そこから言葉も出てくる、

想いも出てくる、ね。真理の言葉だって、

自分がこんなことを言おうと思わなくっ

たって、色んないい深い言葉が出てくる。

 口をついて出てくる。それは神様が

しゃべらせて下さる。語らして下さる。

 あるいは、そこへおもむかせて下さる

訳ですから。


 だから、人間への他力本願ではなくて、

本当の意味で神様に任せて、他力に

なって、そうしてその他力になった上での

自力をね、自分の努力をね。自分の癖は

自分がよく知ってましょ。だからその癖を

よくとらえて、自分が息をしやすいように、

決して自分に無理がいかないようにね、

自力と他力を融合させて明るい生命の

宗教というものを作っていかないと

いけない。それが、私が大神様から

命じられたことなんだから。


 今、もう人類が、人間がね、分かれて、

ああだこうだ、こっちだあっちだと言ってる。

 そういう時代じゃないんです。どんな人

でも、とに角、結び合って寄り合って生きて

いける、そういう世界をつくってゆく。それが

神様の本来の願いなんだから、祈り

なんだから、その心で人間が皆ここへ

来ているんですからね。その為に皆が

生きてる訳だから。そこへ目指しての

祈りをやっていかなきゃいけません。ね、

だから、私は出来ないというのだけは

やめて、私にさせて下さい、何が来ても、

私は出来ないと思うかもしれないけれども、

次の瞬間には、神様、あなたの中に全部

放り込みます、というそういう信仰を養って

いただきたいと思います。


              昭和63年8月26日