生命(いのち)の流れというのは、この世のながれもあれば、
霊界、神界の流れもあるわけです。
霊界神界の流れは、微風水動(みふうすいどう)という言葉が
あるように、流れるという意識もなにもないところで悠々と流れて
いるわけです。つまり、生命の本体というのは、極めてさりげなく、
悠々としたもので、こういう悠々とした生命を、肉にまとっている
人間は、本来は、感謝感激の筈なんだけれど、肉の波動は
荒いから、中々、微風水動というわけにはいかないわけです。
夫婦げんかも兄弟げんかもあるわけ。
全く人の想いというのはやっかいなもので、中々、微風水動─
つまり、風は動くともなく動き、水はそれに従って流れると
いうような神界天界の流れにはなってゆきにくいわけ。ここに、
すこうしずつでも近付いてゆくには、肉の身をまとってあらわれて
くるさまざまな怒りや、ねたみや、腹立ちといったものを、セミが
カラを脱ぐように一つずつ脱いでゆくということが必要なんですね。
日本に四季があって、衣がえというものをやりましょう、夏に、
冬の重い服を着ている人はいないですね、夏は軽やかな
服装になって、重たいものは脱いでしまう。というのは、
重たいものが必要じゃない、これだけの軽さのものでいいという
ことを体がしっているわけよ、だから、余分なものを着ない。
人間の、我々のおもいもね。こう動いたらあの人がこう想うんじゃ
ないかとか、出しゃばりだとおもわれるんじゃないかとか、余計な
心配が入ると、決して、素直に動けない。心配にしばられて
しまってね。本来、生命というものは、明るい、のびのびとした、
太陽のような、宇宙のような拡がりをもったものなんです。
ところが、人間関係、社会という中で生きていますと、中々、
そこまではゆけない。たまにそこまで行けたと思う瞬間があっても、
又、逆もどりしてしまう。それはそういう風に生きてきたから、
クセづけられているんです。このクセが曲者なんですよ。
いいですか、我々が少しでも神様に近づこうと思ったら、たとえ、
一生の中で、何億回、何兆回、そのクセが出てもね、出ても
いいから、ああ又神様、クセが出ました習慣がでました、といって、
そのまま神様に預けちゃうんです。
神様は、想いの銀行なんだから、神様にどんどん余分なものは
預けて、本来の自分に帰れるように、世界平和の祈りのなかに、
私の名前をよぶ中に、毎日を生活してください。
いいですか、はい、それでは今日の話はこれでおわります。
どうもありがとうございました。
五井 昌久