私は柏手と口笛と印でずっと浄めて
きました。口笛というものは、これは
特殊なんでね。なかなか皆に
こうなんですって言ってあげられない。
ただ、柏手とか印とかというのは、
これは時に応じて必要に応じて、皆
それぞれに出るように、器としては
今なってます。
せっかくの機会ですから、実習を
兼ねてやろうと思いますが。人に
よってね、柏手も印もこれはどういう
違いがあるのかという、まずそういう
初歩的な質問があると思うけれども。
どっちも違いはありません。柏手とか
印とかそういうものを使って大事な
ことは、神界からのね、高いところからの
神様の愛というか祈りというか、非常に
深い流れをあなた方の柏手や印を通して
流す。あるいは私の柏手や印を通して流す。
とそれだけですね。だから、中継地点に
なる訳です。
皆がこう組む如来印があるでしょ。如来
というのは、要するに、仏様の中に私は
一体になって仏様の慈悲を現わします
という、そういう存在でしょう。その
如来印を組むことによって我々は、神様の
光と一体になってあなたのお役に立ちます
ということですよね。印形を組むという
ことはそういうことです。
印というのは色んな形がある。皆泊り
込んで色んなことをやらされたから覚えて
いるでしょうけれども。本当に色んな形が
あって、どれとどれを組み合わせて
どうのこうのと皆やるけれどもね。確かに
それは必要に応じて出てきますけどね。
本当はそういうものじゃなく、柏手
にしろ印にしろ、そこで無になって打ち、
無になって切ればね、神様という方が
そこで立ち現われて、目には見えなくても、
浄めて下さるわけ。
その上にね、統一というものがある。
柏手と印を使って、あるいは口笛を使って、
私が何で統一のテープうんぬんとか、
統一会をやったかというとね、ああいうもの
というのは人間の意識を呼びさまされ
やすいんですよ。
例えば、ふっと眠くなる。パァーンと
叩く。眠ったままでもいいんです。
そのままでふっと叩くということはですね、
自分の中の肉体の奥の奥の体が目覚まされて、
つまり、霊性というものが目覚まされて、
そうして、それによって、あなた方の
行くべき世界というか、帰って行くべき
世界というか、そういう世界が色々ある
けれども、その中でも、一段二段三段無に
なってそれをきけばきく程、ずっと高い
ところへふっとつれていって下さる。守護の
神霊が。あなた方が意識するしないに
関わりません。そうして、色んな想いの掃除
をして下さる訳です。で、きれいになって、
地上で又たたかえる様に還ってくる。その時
空になれる訳です。
空というのもね、これも本当に面倒な
言葉でね。空というのが悟りの最後の境地
とか何とかいうけれども、本当は空にも
把われちゃあいけない。無にも
把われちゃあいけない。難しいですよね。
ただそういう風に言葉で言っちゃうと、
もうその言葉に把われてしまうでしょ、
人間というものは。だから、私がいつか
言ったみたいに、テープにいつも吹き込ま
れているけれども、ただふんわりとして、
そのひびきにのって、流れにのってゆけば
いいんだといいますけれどもね。というのは、
皆おもいで世界を作っちゃう、人間は。
だけども、本当はね、世界というものは
何で造られているかというと、神様の
ひびきで造られているんです。だから、
その霊妙なひびきに統一する時に、その
肉体の波動ではなくて、本来のあなた方の
奥の奥の奥にある霊妙な響きにつながらせて、
連結させて、そうして、私たちがもっと
細かな霊妙な働きが出来るような体に
いつの間にかさせて下さる。それが、柏手
とか印とか口笛とかということです。
やっぱり、耳で聴いてね、ああ、お浄めを
していただいている、五井先生が今口笛を
吹いて下すってる。あるいは、印をきって
下すってるとか。
人間というのは、やっぱりしるしを
求めましょ。それは仕方のないことです。
だから、しるしというものを通して、実は、
しるしの奥にある神様の愛というものを
こちらから光で降ろすンです。
なげるんですね。いつも言いますけど、
柏手というのもね色々あって、長く叩けば
いいというものじゃない。長く叩けば叩く
ほど、その人のもっている宿題とかね、
辛いこととか、多いんですよね。だから
柏手というものはそんなに長く続くと、ああ
大変だなと思ってくれればいいんですけど。
とに角、柏手というものは叩こうと思って
叩けるもんじゃないんですね。ひびきだから。
人によって、真っすぐ叩けばいい人と、
いい音というと又そのいい音に把われるかも
しれないけれども、そうじゃなくって、
神様のひびきというものが出やすい人とね、
ななめに叩けばいい人と色々あるんですよ。
例えば叩いて見ましょうか。例えばね、
パンパンパン・・・こういう音とね、パンパン
パン・・・こういう音とね、色々あるんです。
それは種類によって色々あるけれども、
ただこの人は、今しゃべってるこの人はね、
パンパンパン・・・こう叩かせた方が高い音が
出るし、人によってはね、こういう叩き方
じゃなくって、パンパンパン・・・この方が
高い音が出る人もある。又、こういう風に、
パンパンパン・・・もっと力を入れてパンパン
パン・・・はいよろしいです。これはね、
こうやるとだいたい高い。これは何の時の
ものかというとね、癒しをする時に、
パンパンパン・・・この後の方にひびいてくる
音ではなく、最初に出てくる音がありますね、
高ーい、その高いひびきというものが、
この世の中でいえば、薬師如来さんの働きを
する訳です。
だから、病気を治して下さい、祈って
下さい、お浄めをして下さいとかいう時には、
会の方では色々制約があるでしょうから、
その辺うまくしてもらわないと今大変だろう
けれども。一人でここでやる場合にはね、
こういう風にして、パンパンパン・・・、
そうしてパンパンパン・・・こう叩くパンパン
パン・・・こういう風に。要するにここには
かからないですね。ここで叩かないと。
親指はよけといて四本の指で、この人が
やっているように、左手でも右手でも
いいけど、手のひらを叩く。叩ききって
ゆくとね、高ーい澄んだ音が出る。
そうすると、それは癒しになっていく。
癒しの光になっていく。
それからね、人の想いとかね、そういう
ものが邪魔をしてくっついてきた時にはね、
これはたてにパンパンパン・・・こういう
風に。そうすると想いが散るんですね、
光で。又、両方がある時には、それはもう
向こうに任せてしまって、パンパン
パン・・・、役割分担じゃないけれど、両方
浄まってゆくんですね。これは何かというと、
キリストの十字架なんですよ。たてよこ
十文字の。キリストというのは癒し
ましたからね。手当をしたのは彼ですね。
手を当てて病人を癒したでしょう。だから、
これをこうして十文字にやる時に、
世界平和の、平和の光、そういうものが
ポーンとここへくるわけ。こうやって、
パンパンパン・・・、高い音を出した時に、
癒しの光がスーッといくんです。
これは一つの方法的なことですけれどね、
そういう形で浄めていったら、いつの間にか、
自分が叩き叩かせてもらってるんだけれども、
そのひびきの中へスーッと入っていく自分と
いうのがある訳ですね。出てくる。お浄めを
するかされるかどっちでもいいけれども、
そこで自分も浄まっているんです。人を
浄めるだけじゃない、自分も浄まって
いるんです。だから、人も自分もなんです。
世界平和の祈りの教義の中にあります
でしょ、つまり、個人も人類も救われる祈り
だというのはそれなんですよね。仏教的に
いえば自分にとってもおかげの深い祈り
である。で、他の人にとってもそうなんだ。
自己の為にもなり他己の為にもなる。
そういう祈りを基盤にして、我々は
お浄めをしているし、業を光に変えている。
そこの祈りに対しては本当に自信をもって
いい。そして、このキリストのね、まあ
キリストにこだわることはないけれども、
そういう十字架に現わされた愛、たてよこ
十文字の世界全体をつなぐような愛と、
その愛に対して合掌するおもいですね、
それが両方交差したこの相手というもの。
そこから出てくるひびきというものは、
これは浄めずにはおかないんです。
それから、印にしたってね、例えば、
この人にやらせているのは、色んな人が今
来ていますよ、ここへ。それでやらせて
いるのはね、ずっとくっついている霊体
なんかがある、そういう時には、
こうするんですね。(実演)そして、
こっちもこうして。そして、背中というのは
皆くっつく。だから、ちょうどお掃除を
するように、この三本でかき出すんです。
おもいをね。自分が出来ているか出来て
いないか別としましてね、はき出す。
そういう時に、こっちは受け皿にならなきゃ
ならない。これは、仏教で言えば、大乗の心
ですよね。誰をも救わずにはおかないという
神様の御心ですね。そこへ皆入れるんです。
お浄めをする時に一番大事なことは、その
色々な現象、とっついてきたもの、それに
対して、向こうへ行けあっちへ行けと
いうんじゃなくてね、神様というのは、
本当はあなた達を愛しているんですよ、
あなた達を本当に大事に思っているんですよ、
だから、その大事におもって導いて下さる
世界へ一緒に帰りましょう。五井先生に
連れて帰ってもらいましょう、神様の大愛
によって愛念によって連れて帰って
もらいましょう。そうやってね、愛情を
もって呼びかけることなんです。
困ったことだなあ、私に出来るかなあ、
やらせてもらえるかなあ、と思いながら
自信なく柏手を打ったり、印をきったり。
フェロー印でも何でもそうですよ。
私なんかがもったいないとか思ってやったり
したらね、せっかく上からこうやろうと思って
いるのに、光がとどかない。そうじゃ
ないんです。そういうものを全部含めてね、
自分も浄まり相手も浄まり、全体の為になる。
一つの修行なんですから。
印にしろ柏手にしろ、五井先生の柏手に
しても印にしても口笛にしても、統一全体に
しろ何にしろ、皆が朗らかになってゆく、
そのことの大本なんですよ。そのひびきを
伝えるのが、印形であったり柏手であったり、
色々な形である訳です。だから、そこを
信頼して信仰をしてやっていったらね、自分に
対して真実の信頼が出てくるし、信仰も
出てくる。そういうことですね。
昭和63年8月26日㈮