今まで何度か説いてきましたように、人間の
生命の流れというものは、本来、宇宙神のずっと
深いところまで繋がっているんだというところまで
お話ししたかと思います。
それでこの間、直線的に昌美が宇宙神と皆さん
とは同格であると、そういうことを言ったかと
思います。それで今聞いていると、諸説紛々だ
というので、じゃあちょっとこちらからのメッセージを
言ってみようかと思うんですけれど。
同格というと、同格という言葉に又把われるのが
人間なんですね。じゃあ同格というと宇宙神と
まるで同じということになると、じゃあ宇宙神
というのは何かというと、すべてのすべて
なんですね。生命の元の元。人間の生命だけじゃ
なくって、この宇宙全体を造った、もう造ったも何も
造る前からいた。それと同じかということになると
仰天しちゃう訳なんです。
何故かというと、人間というのは、この肉体という
不自由なものを持ってまして、一日の内でも、
何度も何度も言うように、気分が変わる喜怒哀楽が
出てくる。
そういうものと宇宙神が同じだと言われてしまうと、
とんでもないという気持ちがまず出て来る。
それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといってずっと
説いて来て、そして皆さんも祈っている。
そういう中で、そういう風に言われてしまうと
わあ─と思う。思うけれども、昌美が言ったのはね、
その生命の現われとしての宇宙神と一緒なんだ
という風に捉えてしまうと、つまり、全体の存在と
同格だという風に捉えてしまうと、皆困るんですね。
そうじゃない。 じゃあ昌美は嘘を言ったのか、
そうじゃあないですね。
同格だというのは、何において同格かというと、
皆さんの奥の奥の悟ってる本体、神体ね、肉体
じゃないですよ。神体、本来心というものがね、
何によってできているかというと、宇宙神からの
光明と(光と)ですね、愛と、そういうものによって
生きてる訳なんです。
宇宙神の愛というのは、これはもう極まりのない
愛なんですね。
すべてのものを生かそう、すべてのものを
より良くもって行こう、敵も無いんです。味方も
無いんです。あるがままなんですね。
そういうものが、我々のこの肉体、我の強い
肉体を通して光になって、そして、我々は肉体の
生命を養ってもらってる訳なんですね。そして、
自分の内の奥の奥にもそれと同じものがある。
そういうことを考えますとね、つまり、我々
というのは意識するしないに関わらず、愛したい
と思う、仲良くやりたいと思う、平和にやりたいと
思う、喧嘩をしたくないと思う、砕いて言えばですね、
そういう気持ちね。
つまり、世界人類が平和でありますようにという
気持ち。何処にも戦争がなくって無事に平穏に、
皆がそれぞれに、それぞれの家庭で生きて
いけたらと思う。その祈りの気持ち。
それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、
宇宙神があるがままの生命を認めて、そのままに
ありのままに生かしていく。それが自分の望み
であり願いであり祈りであるんだと。
その本来心の祈りを受けて、世界人類が平和で
ありますようにというあの文句が出来た訳ですから。
ということは、自分の中にも、ものすごく素朴
だけれども、そういう風に祈る、自分の家族のこと
自分のことまわりのこと、そこからずっといって
世界人類のこと、本当に平和であればいいなと祈る。
そういう何ともしれない思いが湧き起こる。湧き
起こる時には、人間というのは、その時には我には
満たされてないんですね。やっぱりその時には
光になってるわけ。その光というのは、祈る時に
もちろん強められるし深められるし、こっちから
見ていると光明そのものになるけれども、祈る時
だけが光明かというとそうじゃない。
普段は、自分が光明体であるということを皆
忘れて生きているんです。何故かというと、この
世の中というのは、忙しいんですね。仕事しなきゃ
なんない、連絡しなきゃなんない、子供の面倒は
みなきゃなんない、夫婦の中で解決しなきゃ
いけない問題がある、親子の中で解決しなきゃ
いけない問題がある、家庭はある・・・。そんな事で、
自分が光明身だとか、そういう体を持ってるとか
ということは、なかなか肉体のこの意識からは
のぼって来ない訳なんです。
で、心を鎮めて、皆で統一してさあ祈りましょう
という時には、それはスーッと出て来やすい訳ね。
それは、何も祈ったと同時に自分自身が変わるん
じゃないんです。自分自身というものは、本人が
意識するしない、あなた自身が意識するしないに
関わらず、光なんです。
何故かというと、神様から分かれて来ている
生命だから、分生命(わけいのち)だから光
なんです。それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その光明が
出たがってる。そして、その人本人のその余分な
ものを取っ払っていったら、その人自身も光になる。
で、その光は愛とゆるしと平和である。という
ことにおいて皆平等なんです。同じなんです。
その愛とゆるしと平等の元の元、平和の元、
それが宇宙神なんですね。
だから、あなた方は宇宙神と同格である
というのは、そういうもともとあなた方の中の生命を
生かしめている、思いだけじゃなくて、肉体も全部
含めてね、我々からすると煩わしいものも全部
含めて、この世の中に生かしめられて働かしめ
られてる、その元の元が愛とゆるしと平和だから、
その大元を辿って行けば、何度も言うけれども、
つまり宇宙神だから、それは本人が意識するしない
じゃないんですね。
昌美があの時あれを言ったというのは、もともと
宇宙神と同格であるというのは、そういう分かれて
きた生命の末、元と末ですから、で、その末
というのは萎びるんじゃなくて、これからもずっと
続いていく末だから、ずっと連らなってるものだから、
もうそろそろあなた方が光明なんですよということを、
あそこであの子は言いたかった筈なんですね。
そうして、それぞれに分けられている光明身
というものをずっと繋いでいって、祈りにしていって、
そうして、世界人類がーとやっていけばね、
そうしたらつまり、それは宇宙神のみ心になる訳。
宇宙神のみ心と一つになる訳です。そこに
入っちゃう訳ね。
今は、魂というか、そういう本来心がどんどん
どんどん磨かれていって、どんな時にもみ心の
中へ入るようにやっていかないと、この地球の汚れ
というものは、なかなか大変なんですね。今随分
掃除が出来てるけれども、でも根っこの所も
まだまだ一杯大変なものがあるから。
それで宇宙神と同格だというのは、それも本来
本当の意味だけれども、あなた方を励ます、ね。
萎縮(いしゅく)するんじゃなくって、縮むんじゃ
なくって、そうだそうだ生命の本当の本当の底の
ところで我々はそうなんだと宇宙神のみ心の中を
見てみると、自分がまわりを平和にしたい、ゆるして
いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間一人一人を
本当に愛してゆきたい、ゆるしていきたい
というのと、一緒なんですからね。何にも
変わるところがないんですよ。
ただこの世の中では色んな煩いがあるから、
そういう気持ちになるところが少ないけれども。
しかし、先程申しました様に、神様が生かして
いる間というのは、悟ってる本体、あなた方の神体、
霊体というのは、常に祈りを捧げている訳、
宇宙神と一緒になって捧げている訳、共に捧げて
いる訳なんです。
目には見えないけれどもね。ですから、分かれるも
分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。
そういう意味で同格なんです。
ですから生命のすべてを造った創造主としての
宇宙神というものをへんに想像してしまうと、そこで
おかしなことになるけれども、そうではなくて、つまり
本当の心の底のところで、現われも何も超越した
ところで、我々は一本につながっているんだ。そこで
我々は抱きとられてるんだ。愛されてるんだ。ゆる
されているんだ。だから我々もささやかでも、
ゆるして愛してできるだけ平和にという風に努力を
してやっていったら、その時に自分の中の霊性が
目覚めて、喜んで高まっていってね、自分の愛の
光がゆるしの光がまわりに飛び交って、そうして、
皆の中にその光の輪が広がっていくというかね。
祈りというものはそういうものなんですね。
だから、祈ってる時だけがただ光明心が出てくる
訳じゃない。その時だけが同格というのも、それも
正確じゃない。
常に常に自分の中で自分の知らないところで、
自分の本体は本心は宇宙神と同じような働きを
しているんです。
父子御霊とキリスト教でいいますよね、三位一体。
あれは、父子御霊という風に分けることが
出来ないんです。あれは本当に一体なんです。
たとえば、愛とゆるしと平和というものがそれぞれ
違うもんですかといったら、これはみんな
一つらなりに連らなってるというのと一緒なんです。
我々は神から分かれてきた生命であるというのは、
じゃあ神様と人間の生命とはどんな風に違うん
ですかというのは、それは正解じゃないんです。
一緒なんです。一緒なんだけれども、ただ今の
この世の中の色々な現われでもって、自分の状況
でもって、その言葉なりを測ってしまうと、自分の
想像でもって測ってしまうと、とてつも無くおかしな
事になるわけね。
そうではない。本体において神体において本来心
において、我々は一時(とき)も神様から離れた
ことはない。宇宙神から離れたことはないし、
宇宙神も離したことは無い。そういう意味において、
不即不離なんだということね。
これが、我々は宇宙神と同格なんだということの
本当の意味なんです。
昭和63年6月13日
五井昌久