宗教というものの極意は何かというと、神の愛を
知って、祈り心で生活するということであります。
どんな時にも、神様が、守護霊守護神が、我々を
愛している、愛してみちびいて下さっているという
事実に気付き、ここに深く心を留める時、私どもは
本当に深い大きな安心のなかに抱かれるので
ありますが、しかし、いわゆる宗教三昧になって、
この社会から、人間からはなれた生活をする
ことは、これは間違っているのであります。
三昧ということを、世の中の人は、わき目も
ふらずに一つのことに没頭する、没頭して、一種
こうこつとした状態になり、まわりのものは何も
みえてこないという風にとっているようであります。
いわゆるこうした意味での宗教三昧を、私は
厳しくいましめているのです。
神様とともにあるよろこび、神様を愛する
よろこび、神様から愛されるよろこび、これらは、
神をしたう私どもにあたえられた至福では
ありますが、しかし、これがどんなに至福だから
といって、家族を無視し、仕事を放り出して、
世捨て人のように、ただ神様だけにひたり切ると
いう生活は、特殊も特殊というべきなので
あります。
それは全くある限られた人にのみ神様が
あたえることでありまして、人は、人を離れて
生きることはしてはならないし、また出来ない
のであります。
この人生と申しますものは、いつもいいます
ように、我々の修行場でありまして、人生の
さまざまな場面に出会って、我々は、人間が
誤って身につけてしまった業想念のおそろしさ、
人にやさしくし、やさしくされることの嬉しさ、
愛することのすばらしさなどを学んでゆくので
あります。
そして、このみちびきは、あなた方の守護霊、
守護神の愛によるのでありますが、現実生活の
なかで、泥まみれになりながら、それでも、誠実で
ありたい、やさしくありたい、愛したいという心が
自然に湧き上がってくる、まさにその時を、三昧と
よんでさしつかえないのであります。
三昧とは、法の世界、宇宙の大法である神の
愛とゆるしのこころにしっかりととらえられた
人間の本体、いいかえますなら、真実の人間の
よろこびを指しているのであります。
神の愛と人の愛とがピッタリと一致した時、
その時、人に三昧境にあるということができる
のであります。ここには、ちっぽけな肉体人間の
小知才覚など、入り込むすきはありません。
我というものが消えて、一切無、一切空となり、
光ばかりという世界なのであります。
滝に打たれ、参禅をなし、食を断って、
いのちがけの修行の末に、人は、この法悦境を
えたものでした。
けれども、現代の現実生活のなかで、これを
求めることが(いのちをすててかかることが)
どれ程むずかしく、実現不可能なことかを、
我々はよく知っておりますし、そうしたことを
祈り求めた末に、私に与えられたものが、
世界平和の祈りだったのであります。
世界人類が平和でありますようにという祈りは、
救世の大光明霊団の光を受けて、修行者が
容易にのぼることの出来なかった光一元の
世界へと、私どもをみちびいてくれるので
あります。
なお申しますならば、法の世界、三昧の世界
というものは、ゆらぐことなく、確かに
そこにある不動のものでありまして、私どもが、
誠実に、素直に、神を求めて、祈り心で毎日を
生きて参ります時、この三昧の光、神人一体と
なった無礙の光は、私どもをとらえ、覆い尽くす
のであります。
世界平和の祈りを行じつつ、毎日を神への
感謝に生きて参りましょう。