マイナスの心というものは、仏教の理論では、六大煩悩(ろくだいぼんのう)、すなわち、「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(とん・じん・ち・まん・ぎ・あくけん)」が中心になります。

 「貪(とん)」は貪欲(とんよく)です。欲が過ぎることです。欲は誰もが持っていますが、欲が過ぎると、周りから見ても嫌なものです。「あの人は欲が過ぎるな。この程度の仕事で、こんなに報酬をもらおうとしている」「この程度で、こんなに儲けようとしている」などということです。
 時代劇では、「悪代官を正義の味方がやっつける」という話がよくありますが、このときの悪人は、たいてい、欲が過ぎる人で、不当な金を儲けようとしたり、ルールを曲げて何かを手に入れようとしたりするような人ばかりです。こういう人には貪欲があるわけです。

 「瞋(じん)」は怒りの心です。前述した、カーッと来る怒りの心です。これは、動物霊、特に蛇(へび)の霊などの憑依を受けやすいのです。

 「癡(ち)」は愚かであることです。自分で、へまをたくさんして、苦しみをつくっている人たちがそうです。
 特に、宗教的真理に対して愚かであることです。宗教的真理とは正反対のことを言っている人、私が説いていることと正反対のことを信条にして生きている人がたくさんいます。「この世の楽しみがすべてだ」と考えて、快楽に耽(ふけ)り、何ら精神的なるものを求めず、物質的、肉体的なものにだけ喜びを求めるような人は、愚かな人です。これは「癡」です。
 知能指数は高くても、学校の勉強はできても、愚かな人はたくさんいます。この「癡」による苦しみが地獄霊を呼んでくるのです。

 「慢(まん)」は慢心です。天狗の心、うぬぼれの心です。天狗は必ずしも地獄界のものではないのですが、やはり、「慢心し、その後、地べたに落ちて苦しむ。苦しみから地獄への道ができる」ということが多いのです。うぬぼれも失敗の近道です。うぬぼれて失敗する人はたくさんいるのです。

 「疑(ぎ)」は疑いです。これは、主として仏法真理への疑いが多いのですが、疑い、猜疑心、人を疑う気持ち、素直でない気持ちです。

 「悪見(あくけん)」は、思想的に間違っていること、見解が間違っていることです。
 間違った見解がたくさんあります。それを学校で教わることもあります。それが政治思想や経済思想になっていたりもします。あるいは、いろいろな団体や宗教等で、間違った考えを教えているところもあります。
 間違った考えに取りつかれてしまい、それが頭に入っていたら、すべてが違って見えてきます。そのため、間違った宗教団体のなかにいて、間違った思想を持った人は、悟りを開くのは、かなり難しいと思います。やはり、足を洗わないかぎりは無理でしょう。強盗の仲間のなかにいて悟りを開くのは難しいように、間違った思想の人たちの群れのなかにいて真理に到達するのは難しいのです。
 悪見は現在もたくさんあります。知識人のなかにも、悪見は、たいへん多いのです。特に悪見を広げているのはジャーナリズムです。新聞やテレビ、週刊誌等の報道によって、間違った考えが洪水のごとく押し寄せています。これによる混乱、地獄界の拡大再生産が多いわけです。
 このようなことが数多くあります。

 「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」は、マイナスの心の基本的なものとして考えたらよいでしょう。そのほかに、感情的なレベルで言えば、前述したように、カーッと怒(いか)ったり、愚痴を言ったり、人のせいにしたりすることもマイナスの心ですし、「とにかく口が悪い」「行いが悪い」「生活が乱れている」ということも、マイナスの心の表れです。

    以上、「神秘の法」――次元の壁を越えて 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋

「神秘の法」――次元の壁を越えて 大川隆法著(幸福の科学出版刊)