趣味人倶楽部のコミュ「スピリチュアル雑談室」に、よしひろさんがトピ「禅についての和尚の見方」を立てられている。
http://smcb.jp/_bt01?topic_id=1355262

『伝統的な禅は厳しい。それには、すべてをなげうち全エネルギーを瞑想だけに捧げて、絶えざる瞑想を続けてもなお 2~30年はかかる。』

~中略~

『禅は、ごくささやかな遊び心に満ちたものにならなければならない。

目覚めること、悟りとは、ごく普通の、あたりまえの、素朴で人間的なことだ。』
―と書いている。

 ◇

それについて僕もコメントした。
<コメント>
5 光の使徒(念無僧) 2012年02月04日 20時53分

>>よしひろさん  禅についての和尚の見方

指摘の禅寺のあり方、厳しい修行や指導は、禅の本来の意味、有り様とは違う―は、ある意味当たってます。

ですが、その指摘は誤解されてる面もあります。
禅の世界は家風があり、それは「拳、棒、喝」など激烈な臨済宗は「臨済将軍」と呼ばれるのに対し、曹洞宗は庶民的で「曹洞土民」と呼ばれ、黄檗宗は中国風です。

あるいは曹洞宗でも、出家主義の道元の永平寺派に対し、女人救済、在家主義に重きを置いた瑩山禅師の総持寺派があります。

修行道場では修行僧は、もちろん厳しい修行を毎日積んでいるわけです。

ですが、日曜坐禅会や緑陰禅の集いなどは、一般参禅者向けで強制もありませんし、和やかななかにも凛とした、清々しい、正に求めている本物が得られる場だと、長年の体験から僕は是非お薦めです。

ただ、僕は曹洞宗の伝統的な古刹である、修行道場の金沢の大乗寺、羽咋の永光寺での体験などだけです。

ところで、禅では「格から入れ」ともいい、そういった面では、僕の参禅した寺は、文句なしだといえると思います。^^

正しい坐禅の仕方については、道元禅師の「普勧坐禅儀」や瑩山禅師の「坐禅用心記」に詳しく書かれております。
それにも禅の本質の「大安心」、「安楽の法門」、「仏心に目覚める」ことなどが挙げられております。
また「生活禅」といった本も以前から何冊か出てます。
それらでも、世間の<厳しい修行>などといった見方は、まったく誤った考えです。

ただ、ここ大乗寺でも30年ほど前から、世界から外国人が、厳しい修行道場の本物の禅を求めて修行に来る僧が、段々に増えております。