被災地ボランティア ② DAY1 南三陸町にて | ひかりものJP

被災地ボランティア ② DAY1 南三陸町にて

ゴールデンウィーク中 復興支援のボランティアに参加するため被災地に滞在していました。


宮城県の被災地を見た後、岩手県陸前高田市で活動。 作業日程は2日間でしたが参加することの意義や被災地の様子を実体験で見れたことなど、行ってきてとてもよかったと思っています。



本来の店長ブログの記事と別にボランティア活動記をアップしていきますので、これからボランティア活動に参加されたい方など、ご参考いただければと思います。






DAY1


ゴールデンウィークも突入し、仙台市内はかなりの渋滞が予想されることから、翌朝は早朝から行動を開始しました。


朝5時には南三陸町に向けて2時間のドライブ。通常は1時間程度で到着する道のりですが、

地震で道路が破損している箇所もあり、ゆっくり安全に走行です。


宮城県は震度も大きく、倒壊した家々も多いと聞いていたが、国道4号線を北上して、周りの景色や街の様子を見ても、倒れた自動販売機や、崩れたブロックは見えたが、外見ではそれほど大きく倒壊している家などは見受けられなかった印象。


コンビニやファーストフード店なども普通に営業されていた。聞いたところによると連休前くらいにようやくインフラがほぼ回復したようです。


ただ、災害支援のサインをつけた車や、自衛隊の車両が多く走っているのを見ると、東北地方全体が被災地なのだと改めて感じました。



南三陸町に近づくにつれ、テレビで見るような瓦礫の山があるのかと思ったが、なかなか見受けられなかった。


至って普通の田舎町を、レジャーでドライブしている気分で、同乗の人達とも雑談をしながら走っていたが、

ある山道を降りた瞬間に、街の景色が一変した。



家の後ろに倒木が見え、一瞬廃棄場かな?と思ったが、その先からは瓦礫の山、山、山


建物は全く無くまさに瓦礫の山が目の前の飛び込んできた。


今までの会話も全くなくなり、無言のまま車を走らせた。



テレビやネットである程度予想はしていたが、こんな惨状・・・ いまでも適切な言葉が見つかりません。



あとでGOOGLEマップで確認したが、南三陸町の中心部は道路の両脇に迫るように頂点などが並んていました。

それが背丈の倍以上の瓦礫山となり、重機車両が忙しく処理をしていました。





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道路標識も流されてしまったので、ベニア板に手書きで、避難所の学校などを表記する立て看板が置いてあり、

それを頼りに、ボランティアセンターに向かいました。



ボランティアセンターには地元のボランティアのスタッフでしょうか、大勢の人々が忙しそうに駆けまわってます。

大きな体育館には避難所で生活している大勢の方々がガラス越しに見え、その隣りの建物にはご遺体を安置しているところでしょう、身元確認所の記載の案内が見えました。



初めて被災地の現実を目の当たりにした瞬間でした。 瓦礫の山と共に、人々の生活も破壊された現実を理解しました。




事前情報で南三陸町のボランティアは県外からの受け入れも可能との情報があったのですが、

5月2日 連休中日の平日、すでに全国からボランティアが集まり、車中連泊で沢山の方が活動をされていました。


新規登録の列に並び、申し込みを待っていたのですが、並びだしてすぐにスタッフの方が、予想以上のボランティア希望者が集中したため、これから新規で登録をされても、依頼する仕事が無い可能性が高いとのことでした。


一瞬どうしようと思いましたが、これだけ全国の方が何とかしたいという想いで集まったので、悪い気もせず致し方がないところです。



それから車中で作戦会議を行い、ツイッターの情報から岩手県のボランティアセンターが県外受け入れ可能の情報が入りました。


すぐに電話で確認したところ、宿泊場所さえ各自で手配できるなら、猫の手でも借りたいとのお返事。


「大丈夫です! 車中でも どこでも寝れるよう準備はしてきましたから!」


そこで予定を変更して、宮城県から岩手県へ向かうことに決定。




すぐに出発したかったが、まずは南三陸の惨状をよく見ておこうと思い、街中から海岸へ車を走らせた。


南三陸町はコの字型の入江になり、真東に海を見渡す地形になっています。

今回の地震ではその地理的条件で津波の力を、直接受け止めることとのあり、

他の街ではないような高い津波が押し寄せたのです。




海近くの平地と斜面沿いに家々が立ち並び、流された家と、流れなかった家が本の数メートルの差であったのがすぐに分かった。


土手一つ分高いか低いかで、全く状況が異なっていました。





街中に特徴的な鉄骨だけになった建物があった。



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役場の防災対策庁舎で津波が来るとき、この建物上に設置されたスピーカーで街中に津波が来ることをアナウンスし続けた女性職員がいました。


第一波の津波が街を飲み込んでも、なお「津波が着ています、高台へ非難してください」町の人々に訴え続けていました。


さらに高い津波が押しよせ、結果その女性職員もい津波に飲み込まれたのでした。


南三陸に入った5月2日は丁度その女性職員の死亡が確認された日だったのです。



生き残った職員は、屋上のスピーカーが設置している鉄塔にしがみついて、津波に流されずに助かったようです。


実際にその建物を見ると、こんなところまで波が来るのかと衝撃を受けました。




被災地に入り、初日から重々しい気持ちに打ちのめされそうになった。


岩手へ向けての道のり、高台から見える海の青さがあまりにも美しく感動的だったが、

そのすぐ脇の街が瓦礫になっている惨状、なんとも複雑な心境で、車を走らせるのでした。