しかしその後で「空もまた色なり」と言う。
これは法外な言葉ではないか。
私たちは何とかすべてを整理したところだ。
先入観さえ取り除けば、すべてが〈同じ〉であることをいま理解したばかりだ。
そして鮮やかなイメージができあがった。
私たちが目にする善も悪も同じく善いのだというイメージ。
見事だ。
とてもすっきりしている。
ところが次に「空もまた色なり」と言うのでは、もう一度調べなおす必要がある。
楓の葉が空であることもまた色なのだ。
本当に空なのではない。
ゴミだめが空であることもまた色だ。
これらのものを空として見ようとする試みもまたそれに概念の衣を着せることになる。
色が戻ってくる。
あらゆる概念を取り去り、すべてはただ〈あるがまま〉だと結論するのは
あまりに安易すぎたのだ。
それは逃避にもなれば自分を安心させるもうひとうの道になる可能性もある。
私たちはものごとを本当にありのままに感じなければなたない。
ゴミだめのゴミであるという本質、楓の葉の楓の葉であるという本質、
ものごとがそこに在るという本質を感じなければならない。
ものごとにだた空というヴェールをかけようとするのでなく、
それらを正確に感じることが必要だ。
ヴェールは何の役にも立たない。
私たちはそこに在るものが〈在る〉こと、
そしてものごとの生の荒削りな性質を精密にありのままに見なければならない。
これは非常に正確な、世界の見方だ。
そこで私たちはまず自分の重苦しい先入観をぬぐい去り、
次に〈空〉というような言葉の神秘なとらえにくさもぬぐい去る。
そして自分をまったくあるがままにどこにでもないところに置き去るのだ。
****「タントラへの道」P243-244****