真理とは、あなたが沈黙しているときに
どこかに見出せるような
<対象>ではない。
真理とはあなたの
<主体性>そのものだ。
次のことを理解してごらん。
あなたがそこに在り、
そして世界がそこに在る。
あなたが見るのすべては
<対象>だが、
それを見ているものは
<主体>だ。
沈黙の中で、
すべての<対象>は消滅する。
あなたはすべての無限性を
掌中におさめ、
そして、ただ沈黙だけが・・・。
その沈黙は意識に満たされている、
現存にあふれている、
あなたの実存にあふれている。
だが,
<真理>としての
何かを発見するわけではない。
それでは、
ひとつの<対象>になってしまう。
そして、真理は決して
<対象>ではない。
真理とは<主体性>だ。
何ものにも妨げらず、
何ものにも拒絶されず、
その全き無限性と永遠性の中で、
自らの<主体性>を
発見することが
真理だ。
観照、Witnessingとは
自らの内なる鏡を
見出すことだ。
そして、
一度その鏡を見出せば、
奇跡が起こり始める。
自らの思考を
ただ観照していると
思考が消滅する。
そして、
今まで一度も知らなかった
途方もない沈黙が突然、現れる。
怒り、悲しみ、幸福感などの
感情を観照していると
それらが突然消え去り、
さらに大きな
沈黙が体験される。
そして何ひとつ観照する
<対象>が
なくなったとき、
そのときこそ
変革だ。
そのとき、
観照するエネルギーは
自らに向かう。
なぜなら、
そこには妨げられるものが
何もなく、
対象は何ひとつ
残されていないからだ。
対象、objectという言葉は
素晴らしい。
それは単にあなたを妨げるもの
― 妨害する、objectを意味する。
あなたの観照に
<対象>が存在しないとき、
その観照は
まさにあなた自身
― その源泉に
巡り戻ってくる。
そして、それこそが
人が光明に
到達する
地点だ。
OSHO