【帰依者】
私は、眠っているかのような状態のままで、同時に注意深くしなければならないのでしょうか?
【マハルシ】
はい。
注意深さは、目覚めの状態です。
従って、その状態は、眠りの一つではなく、眠りのない眠りでしょう。
*粗雑な身体は眠っているが、心は眠っていない
もし、あなたが、あなたの思考と同じ方向へ行くならば、あなたは、それらによって、別の方向に導かれるでしょう。そして、あなたは、終わりのない迷路の中にいるあなた自身に気付くでしょう。
*思考は、外に向かって拡散するため、終わりのない迷路に迷い込む。思考の先に向かうのではなく、
その反対方向、思考が生じる源に向かうべき
【帰依者】
それだから、私は、思考の源にさかのぼり、引き返さなければなりません。
【マハルシ】
まったくその通りです。そして、その道では、思考は消滅し、真我だけが、残存するでしょう。
*思考が消滅しないと真我はあらわにならない。真我を覆い隠している思考を消滅させる必要がある
実際には、真我にとって、内も外もありません。
それらもまた、自我の投影です。
真我は、純粋で、そして、絶対的です。
【帰依者】
それは、ただ単に知的に理解されます。
知性は、実現への積極的な助けではないのでしょうか?
【マハルシ】
はい。ある程度の段階に達するまで。
*知性は、ある程度の段階まで積極的な助けになるが、それ以降は、むしろ障害になる
それでも、真我は知性を超越するということを本当に理解しなさい。つまり、後者は、真我に達するため、それ自身突然消滅しなければなりません。
*後者:知性
【帰依者】
私の実現は、他の人びとを積極的に助けるでしょうか?
【マハルシ】
はい、その通りです。
それは、実行できる最善の積極的な助けです。
しかし、助けられる他の人びとは、いません。
実現された存在が、真我を見るについては、さまざまな宝石の中で金を評価する金細工職人と同様。
あなたが、身体とあなた自身を同一視するとき、次に、ただ形と姿だけが、そこにあります。
しかし、あなたが、あなたの身体を超越するとき、他の人びとは、あなたの身体意識とともに消滅します。
【帰依者】
それは、草、木などと一緒に、そのようになるのでしょうか?
【マハルシ】
それらは、そもそも、真我から離れて存在するのでしょうか?
見いだしなさい。
あなたは、あなたがそれらを見るということ考えます。
思考は、あなたの真我から外へ投影されます。
それは、どこから生じるか見いだしなさい。
*それ:思考
思考は、生じることをやめ、そして、真我のみが残存するでしょう。
*「私」という思考がどこから生じるのか見いだすと、真我を覆い隠していた思考が生じなくなり真我があらわになる。
真我は、どこか遠くにあるのではなく、すぐそこにあり続けていて、思考が、それを覆い隠し見えなくしている
【帰依者】
私は、理論的にはわかります。
しかし、それらは、まだそこにあります。
*それら:草、木など
【マハルシ】
はい。
それは、映画の上映のようです。
スクリーンに光があり、そして、横切って動き回る影は、いくらかの短い作品の上演として観客に印象付けます。
もし、光と影が、同じ上映の中で、一人の観客もまた上映されると、同様にまた、いくらかの短い作品の上演として観客に印象付けるでしょう。
見るもの、見られるものは、そのとき、スクリーンのみになるでしょう。
あなた自身のこととしてそれを当てはめなさい。
あなたは、スクリーンです。真我は、自我を生み出しています。自我は、あなたが尋ねているところの世界、木、草などとしてはっきり見せる思考を成長させます。
実際には、これらすべては、真我にほかならないです。
もし、あなたが、真我を見るのであれば、同じことが、いついかなる場所においても、真我がすべてであることを見いだされるでしょう。
真我の他は、何も存在しません。
【帰依者】
はい。私は、それでもなお、ただ理論的に理解します。
しかしそれでも、その答えは、簡潔で、美しく、説得力のあるものです。
【マハルシ】
「私は実現していない」という思考でさえも障害です。
実際には、真我だけがあります。
Talks ラマナ・マハルシとの対話