◆1992年「ロシアツアー」「スリランカツアー」「キーレーン」

 92年3月頃「死と転生」のロシアツアー、5月にはスリランカツアーがあり、その後歌の編曲や「26曲集」という、オウムの歌の楽譜本の制作をしました。その頃私は無言の行をしていたのですが、それにはいきさつがありました。

 その頃にはすでに、例の担当の大師(以下U師)に愛着していて、そのせいで腹が立つことが増え、ある日ちょっとムシャクシャしていた時に、その師と2人で新しい曲を聞いてもらうために麻原の部屋に行った時のことです。

 私が部屋に入るなり「なんだその心の働きは!」と麻原に怒られてしまい、「おまえは無言の行だ!」と言われたのです。

 このとき、私は「また見抜かれてしまった!でもグルは本当に私のことわかってくれてるんだなあ。」と思いこんで、U師よりも麻原の方を好きになろうと努力しました。

 冷静に考えてみれば、麻原が目が見えないのに私が怒っているのがなぜわかったんだろうと考えてみると、時々電話で話したりして日々の大体の状態を話していたので、特にその日は怒っていたにしても、私がU師に対して普段から良くない感情を持っているのはそもそも知っていたわけです。

 しかし、いつものことながら、私は麻原に見抜かれたと思い込み、そして、麻原に対して、「グルだけは私の味方なのよ」という、「王様の近くにいる女性」のような思い込み方をしていきました。この頃には、「グルは閻魔大王であり悪業を積むと罰を与えるんだ」というような恐怖は出なくなっていたと思います。

 7月、ブータンに国賓として招かれた時、音楽班もいっしょに行き、私はブータン国王と会談したり、有名な寺であるタクツァンテンプルで瞑想する麻原を見たりして、ますます神としての認識を確たるものにして行きました。

 地球上で、どこにも比類なきグルである麻原と、その弟子の集団であるオウム真理教の地位は、私にとっては不動のものであり、地球のトップどころか、宇宙のトップ、神の集団として地球にやって来た人類を救う一族として、一般の人や他宗教とは全く別ものであり一線を画した存在であると思っていました。

 つまり、地球人を下に見ていました。私はここまでバカげたおかしな状態にはまっていたのですが、そこまでになった人がどれくらいいたか、おそらく、成就者とか、ステージが高いと言われた人に、当然その傾向が強い人が多かっただろうと思います。

 92年の後半になると、ロシアのオーケストラ「キーレーン」のコンサートのための作曲が始まり、音楽のワークはより専門化して来ました。このオーケストラは、麻原の作った音楽を専属で演奏するために100人以上のメンバーがいて、当時のロシアでは高い給料を払っていました。オーディションには多くの人が詰めかけ、演奏技術の高いメンバーが集まりました。

 「交響曲キリスト1楽章」という曲ができた時(これは私が編曲したのではなく別のメンバーの編曲です)麻原に呼ばれて聞かせてもらい、感想を聞かれました。私が「ドラマチックですね。」と言うと、麻原は、「そりゃあキリストだからね。キリストはドラマチックなんだよ。」と嬉しそうに言いました。

 「ドラマチックっていうことは、これからいろいろあるんだろうなあ。」と、想像しましたが、何か悲壮感が漂うものなんだろうと感じました。こういった私の妄想の傾向は、事件後の展開さえも、しばらくはドラマチックな演出のように感じさせることになりました。


◆1993年、「救えオウムヤマトのように」

 この頃「救えオウムヤマトのように」という歌を編曲する指示が来ました。「リズムが同じでメロディーが違うという試みだ。ヤマトの曲と同じ編曲の仕方でやってくれ。」と言われ、宇宙戦艦ヤマトの曲を何回も聴きながらまねをして作りました。

 出来上がって第2サティアンに持って行くと、麻原はとても嬉しそうに、その時第2サティアンにいた師の人を集め、感想を聞いていました。「どうだこれは」「なんかヤマトに似ているような...」「そうだろう、フッフッフッ。」という具合でした。

 麻原はいろいろなアニメを研究していた時があり、「このアニメはオウムに似ている」と言っていたアニメがありました。それは「イデオン」というものでした。それは、何かと戦う話でしたが、最後には仲間がみな死んで、違う世界に生まれ変わるというものでした。

 また、麻原は「私はジョミー・マーキス・シンに似てるんだよ。」と言っていたことがあり、それは「地球(テラ)へ」というアニメの、超能力を持った少年で、のちに地球のために大きな活躍をする主人公でした。

 そういったことを話したり、時々子供っぽいことを言ったりする麻原を目にすると、私は、「尊師って、わりとお茶目なんだな」と思っていましたが、神格化が崩れることはありませんでした。わざと、私たちに合わせてくれていると思っていたのです。

 「地球(テラ)へ」というアニメでは、どこか身体に欠陥のある人間が、その代わりになんらかの超能力を持っていて、そういった人たちが集まって、地球の間違いを正して悪を滅ぼすというような話だったと思いますが、麻原は生まれつき目が悪かったし自分にそういったイメージを重ねていたのかもしれないと思います。

 それは、私も同じで、自分も身体が弱かったりノイローゼだったりしましたが、感受性が強くて敏感で、普通の生活がしにくい代わりに、超能力を磨いて地球を救うような大きな活躍をしたいと思っていたからです。なまじ小さい頃頭が良いと言われて、自分を特別視してしまったのかもしれません。

 よく、オウムに入る人はみな頭が良いのだと一般的に言われていたようですが、全くそういうことはないと思います。でも「自分は本当は頭が良いのだ」と思っていた人は、わりといたのかもしれません。私は親から「小さい頃は神童だったのにね」とか言われて、「20歳過ぎればただの人」どころか、ノイローゼで頭も働かない罪人のようになり、人生終わったと思い、オウムに夢を賭けたのだと思います。

 でも、今思うと、大きな活躍なんかしなくてもよかったなと、そう思います。普通に、できることをして、周りの人に奉仕をして尽くしていれば良かったんじゃないかなと思うのです。

 多分、心が未熟で若かったために、平凡な生活では満足できず、「戦争をなくすこと」という大きな夢を持ち、そのために地道な努力をすることがとてつもなく遠く難しく感じられ、超能力で一気に世界を変えられたらいいなと思っていたところへオウムが現われ、これしかないと、その世界の中にはまり込んで行ったのです。

 そういうことを考えている時、「あすなろのうた」という歌が頭の中に流れました。小学校の時先生が、「あすなろという木はね、明日はヒノキになろうと思っていつも努力している木なんだよ。でもね、いい意味だけじゃないとも言われてるけどね。」と言っていたのを思い出し、それについては意味がわかっていなかったので、井上靖の「あすなろ物語」をあらためて読んでみました。

 主人公は、いつか何ものか大きな活躍をしたいと思いながら、結局平凡な新聞記者になるのですが、登場する友人たちも、いろんな夢を持ち、ある者は戦死してヒノキになったと言われたりしながら、それぞれの人生を生きて行くのです。でも、どんな平凡な人も、多感な時代を過ごし、夢が破れたりしながら大人になって行くのだと思います。

 私もまた、夢を持ち、家を捨てて出家して、解脱して地球のために悪と戦う勇者になりたかったからこそ、厳しい修行に耐えて来たと思っていたのだけれども、それは夢でしかなかったのだろうと思います。

 夢を見るのは勝手ですが、人に迷惑をかけること、それも、巧妙な善の名のもとに人を苦しめることだけは、自分の良心に対する裏切りとなって、その報いとして自らの精神を分裂させ痛めつけるのではないかと思います。今となっては、若気の至りだったというか、子供だったというか、おろかだなと思います。

 あすなろの木は、ヒノキよりも劣っているとされていますが、実は決してそうではなく、成長は遅いけれども立派な建築材料になるそうです。あすなろは、無理してヒノキになろうなどと考えずに、生まれたまま、ありのままにあすなろとしての天命を全うすればよいのではないかなと、そういうことを、先生は言いたかったのかなと、今思いました。私は、自分が人間であって、もともと神にはなれないことをやっと知ったのか、と思います。

 93年4月頃から、富士総本部道場の隣に新しく建った、第4サティアンと呼ばれる、メディア専用のビルに住むようになりました。ここにはかなり専門的なスタジオがあり、撮影や録音、編集などができるようになっていました。

 5月、キーレーンの日本公演ツアーがあり、日本各地の5ヶ所でコンサートが行なわれました。11月頃にはロシアのオリンピックスタジアムでコンサートを行なったり、ボリショイ劇場で「死と転生」を行なったりして、ロシアの信徒が3万人にもなったという話も聞き、私はまたまた「オウムは世界の宗教だ」という確信を深めていくのと同時に、「自分は大きなことをやっているんだ」と思うようになっていました。今考えると、優越感に拍車をかけていたと思います。

 あとで聞いた話ですが、ロシアのキーレーンコンサートは、かなり、ヴァジラヤーナ活動のカムフラージュだった部分があったようです。つまり、音楽班は表向きの部分を担当し、華やかなコンサートを演出していて、その裏でロシアでいろいろ動いていた人がいたということです。

 まったく私は能天気だったなと、何も知らず、他の人が何をしているのか、どういった状況下で人が苦しんでいるのかということに対する想像力がまったくなかったなと思います。「救済だ!」と思っているのですが、それが全く軽薄で見当違いだったと思います。

 キーレーンの曲は、麻原が作曲したメロディーを数人で編曲していました。音楽班のメンバーは次々と第6サティアンに呼ばれ、麻原のそばでワークをするようになったのですが、私だけが富士に残されていました。これはやはりグルに対する愛着が足りないのかなと思い、麻原のことだけを考えるように努力しました。

 麻原が音楽班の女性メンバーに見せる態度は、いつも柔らかく、優しい感じでした。女性のサマナに対してはそうだったのだと思いますが、その優しさに惹かれ、「グルだけは私をわかってくれる」と、自分を保護してくれる存在として愛着していた女性サマナは多かったと思います。

 私ははじめはあまり愛着という感じではなく、とにかく信頼してついて行くという感じだったのですが、説法でも「女性はグルだけに愛着することで修行が進む」という話があって「そうか、解脱のためには愛着しなければ」と努力したことが大きく、あとは何度か優しい言葉をかけられるうちに、「やはり自分のことをよくわかってくれる、それも、神秘的な力で自分よりもよくわかってくれている」、と思いこんでいき、愛着していった、というのがあったと思います。U師のことも、この頃はだんだんと気にならないようになっていました。

 第4サティアンの建物の周りには、いつしかぐるりと加湿器が置かれ、白い水蒸気が出ていて、まるでお香を焚いているように見えました。中の液体は毒ガスを中和させる薬品だと言われていて、交代で補充することになっていました。

 メディア班では、気功やヨーガのアーサナなどのビデオに、サブリミナルといってわずかに麻原のマントラを混ぜたり、「尊師大好き」といったような文字を、見えないように刷り込んだりしていました。

 また、「戦いか破滅か」というビデオが作られ、私はそれを見てほんとうに危機感を感じました。アメリカは悪い国で、300人委員会とか、フリーメーソンが人間を家畜化するという話もあり、ほんとうに怖いなと思っていたのです。


◆1994年、「麻原がいなければ生きていけない」という構造

 94年になり、パーフェクトサーベーションイニシエーションの帽子が配られました。これは「完全他力のイニシエーション」といわれ、寝ていても、この帽子を被っていれば解脱するといわれていました。この頃から、「自分を空っぽにして麻原のデータを入れることが、解脱する早道なのだ」ということを大々的に宣伝するようになり、サマナの認識もそうなっていました。

 薬物によるイニシエーションというのも春頃から始まりました。私自身も6月にキリストのイニシエーション(LSD)を受けて超常的な体験をして、その体験が麻原によるものだと思っていたので、また神秘的な世界に没入し、現実を否定することになりました。

 7月には、「進軍」という、相当に危機感を持った歌詞がついた歌を編曲することになり、例えば「毒ガス噴霧に耐えかねて真理の法刀抜き放つ」「いざ戦いの勝利の旗をたなびかせながらいま進軍だ」という歌詞に、「これはただごとではないな...」と感じ、編曲も、悲壮感が漂い危機感の迫るような、仰々しく士気を煽るようなものに仕上げました。

 そして、まったくアニメの戦いの曲のようなものが出来上がり、自分では気に入っていました。この曲ができた時、麻原から電話があり、「私は感激しましたよ」と言われ、たいそう嬉しかったことを覚えています。

 しかし、あとで聞いた話ですが、この曲は、ヴァジラヤーナ活動をしていたサマナを鼓舞するためのものだったようで、これを聞いてヤル気を出していたのだということで、そんな所で自分の誇大妄想がヴァジラヤーナ活動に加担していたのだと思うと、言いようのない責任を感じました。

 私はもともと、人の迷惑というものを考えずに生きて来たのではないかなと、最近はつくづく思います。なにか「これが正しい」と思ったら、そのために周りの人にどのような影響があるのかを、正しく分析することはできなかったし、そうしようとも思わなかったのです。

 「もしかして自分が間違っているのではないか」という可能性を考えることがない思考パターンだったのです。これが、スムーズな人間関係を作れない原因だったと思うし、自然に感情表現ができない原因でもあったのではないかと思います。

 さて、その頃はとにかく「グルの意志の実践」「グルの救済活動が成功するように」ということを言われていたので、特に歌詞がついている歌の場合、その世界に没入して麻原の考えている世界を音楽にあらわすことが帰依でありグルとの合一であると思っていました。

 音楽は合一の修行であるとも言われていたので、ひたすら、麻原の心に合わせていくことを考えていたのです。そうすると、やはりその頃は戦いの説法が多かったので、戦いのことを考えることが多くなっていました。

 自分でも、もともとアニメ的宇宙戦争や、世界規模の戦いなどの夢をよく見ていたので、「いよいよ私の見た夢が現実となる時が来たのだ...。」と思い、「できればそうなってほしくない」という思いとともに、「地球の機構は、いったん壊れた方がいいんだ、人間はいろんな欲望を捨てて原始人的生活からやり直したらいいんだ。」という、地球をリセットする願望も持っていました。

 たしか麻原が第4サティアンに歌の録音に来た時、「みんながパーフェクトをつけているからカルマ交換が激しい。自分もパーフェクトを被っていなければ気が狂いそうになるんだよ。」と言っていて、「そうなんだ、申しわけないなあ、でも、自分たちもこれを被ることでしか救済されないし、グルもそれを望んでいるのだ。私たちは、へその緒でグルの命を吸い取って生きているようなものだ、ほんとうに有り難いことだなあ。」と思っていました。そのように、この頃はそれぞれの意識の中で、「麻原がいなければ自分は生きていけないのだ」という構造が確定されていったと思います。

 9月、私は富士の第4サティアンから第6サティアンに移動し、3畳の部屋をもらいました。毒ガス対策のために、部屋には小型の空気清浄機「コスモクリーナー」が設置されました。だんだんと、ヴァジラヤーナ的な説法が増え、フリーメーソンの陰謀というような具体的な話が出てきて、ヘリコプターが飛んでいると、「あ、毒ガスを撒いている」と言ったり、「黄色い煙が出ていた、そのあと気分が悪くなった」という人がたくさんいて、私もだんだんと「本当にいよいよ社会が真理を潰そうとしているのだな。」という被害妄想を確定させていました。

 また、第6サティアンの2階フロアが、1日にして点滴をつけた信徒さんでいっぱいになった日には驚きました。これは薬物によるイニシエーションだったようですが、こんなにたくさんの信徒さんがこういったイニシエーションを受けに来るということ自体、「ああもう時間がないんだなあ、きっとハルマゲドンが近いから、あらゆる手段を使って救済しているのだなあ。」と思っていました。

 このように、オウム内の雰囲気は「ハルマゲドンまで時間がない」ということで、個人が厳しい修行をするのではなく、とにかくグルに頼るということになり、だんだんと人を弱くさせ、依存心を強める実践になって行きました。

 その頃にはその価値観が普通だと思っていたし、周りのみんながそうでした...アメリカに攻撃されていることを知らずに生活している一般の人は、だまされていて可哀想だと思い、「みんなに本当のことを伝えなきゃ。みんながオウムに入らなきゃ。」と思っていました。ノアの方舟に乗せる、そういう感じでした。

 「みんなが尊師のもとに集まれば尊師が救ってくれる。だから、みんなを尊師に縁をつけさせなくちゃ!」と、本気で思っていたし、それはだんだん切羽詰った感じになっていきました。麻原の説法もだんだん不思議な雰囲気のものが多くなり、いっそう危機感が強く感じられました。この不思議な雰囲気というのが、いわゆる「魔境」であったのだと気づいたのは、ごく最近になってからのことです。

 私はその頃完全に「オウムは全宇宙で唯一正しい神の意思に沿った、完全な真理の団体だ」と信じ込んでいて、言ってみれば、帰依があるという状態でした。それに、第6サティアンという、麻原のお膝元にいるということで、サマナの中でも麻原に近い存在であって、この地位は変わることはないというプライドを持っていました。

 しかし、今客観的に見ると、自分はどこにでもある妄信の宗教の精神構造と同じ状態だったのでした。結局は、「私は地球を救済するために、天から降りて来たに違いない!!全ての人が救済されてほしい、私は命がけで救済するぞっ!」と思う背景に「なんてカッコイイ救済者の私なんだ。」というような、コンプレックスから裏返った強烈な自己陶酔がありました。

 しかしその時にはオウム全体の価値観の方向性が誇大妄想という共同幻想だったので、そういった煩悩に気づくこともなかったのです。出家して共同生活をしているので、それがごく当たり前の日常になっていました。集団というものは一つの価値観を持ったら恐ろしいものだなと思います。

 キーレーンの曲の編曲は94年後半も続いていて、編曲のメンバーは第6サティアンに一人一部屋が与えられていました。ある程度編曲できると、麻原の部屋に行って、チェックを受けるということで、6時間ごとに部屋に行っていたこともありました。この頃の麻原は、部屋にいる時はいつも、折りたたみ式のビーチベッドに横になった状態で話をしていました。

 音楽班のメンバーは、麻原に近いところにいて、麻原が身体が弱っているように見えることもあり、「グルを守らなければ」という意識を強くしていったように思います。ヴァジラヤーナ活動については何も知らず、「フリーメーソンが真理を潰そうとしてグルも狙われている」、と思っていたのです。

 その頃、同じ師である友だちが私の部屋に「ねえ聞いた?この第6サティアンが、世界のコントロールセンターになるんだって~!」と言いに来たことがありました。私は「へええ、すごいじゃん!」と素直に喜びました。「そうかあ、今やラジオ放送もしているし、いよいよオウムも世界に広がっていくんだなあ~、、、」と、世界がオウム一色になる未来を、近い未来の現実として夢見ていました。

 約3畳の部屋には窓はなく、第6サティアンは宇宙船の中にでもいるような雰囲気でした。麻原やその家族が毒ガスの影響で体調が悪くなったという話もあり、サマナに対しても体調のアンケートなどがあり、私も、抗生物質を飲んだりヨーグルト療法というのをしたり、また、温熱修行を毎日行なっていました。

 思えばほとんど外に出ることはなく、時計を見ても午前か午後かわからなかったし、顔色も青白く不健康になっていたことは確かです。

 第6サティアンの3階には医療省というのがあって、喉の吸入をしたり、いろいろ治療を受けている人や、記憶を消すというイニシエーションを受けている人がいたりして、少しあやしい雰囲気ではありましたが、それも、「救済のためいろいろ研究しているのだな」と、「やっぱりオウムはすごい」、と、私はどこまでもオウムを肯定して疑うことを知らなかったのでした。

 このように、この頃には、かなり狂気な状態になっていたと思います。ここまでマインドコントロール、というより自分ではまり込んでしまった人が、一体どうやってノーマルに戻る、あるいは変わることができるのか、とても大変なことに思えて来ます。

 今この頃のことを思い起こしてみても頭が痛くなってくるし、やはり抜けるまでに10年かかっても仕方がないくらいのものだったのだなと思います。

 それは私がもともと我が強く、自分が正しいと思い続けることによって作り上げた世界であったと今では納得しています。そのために人に迷惑をかけ、苦しみを与えるようになってしまったというのは、表層意識では気づかなくても、潜在的には自分の価値を高めることに価値を置いていたためだったのだと思います。

 ほんとうに宗教的高慢さ、神の名を語る独善というものは恐ろしいことであり、謝罪してすむというレベルのものではないと思います。これから、長年自分も他人も騙し続けてきたこの性格の傾向を直し、それを世間に対して謝罪し、今後謙虚に、贖罪としての生き方をする、その生き様を見てもらうよりほかに、私の生きる道はないと思っています。

 

 

◆1995年、警察は敵

 95年になり、第6サティアン内はいよいよ不穏な雰囲気になってきました。毒ガス攻撃が激しくなっているという話だったし、健康調査やヨーグルト療法も続けていました。酸素吸入器も自由に使えるようになっていました。そのうち法律担当のサマナが、「もしも警察が来たら」という話をしに来て、いよいよ弾圧が激しくなって何かが起こるのかなと思いました。私は、部屋にこもってひたすら新しい歌の編曲をしていましたが、有事の事態にはいつでも戦いに出て行くぞという気持ちになっていました。

 また、この頃「アジテーション」というのがあり、部署ごとにサマナを集めて、その前で、なにか「世界がもはや大変な事態になっていて、もう時間がないのだ。」といった内容の文章が読まれました。詳しい内容は覚えていませんが、これはかなりインパクトがあったと思います。

 3月、強制捜査が入った時、いよいよ弾圧がはじまったと思いました。でもオウムは絶対に正しいと思っていたので、「警察は悪に取り込まれて真理を弾圧し、悪業を犯して地獄に落ちる哀れな人たちなのだ、かわいそうだなあ」と本気で思っていました。ものものしいガスマスクをして押し寄せる警察官を見て「悪い人」だと思い、「真理を守るために戦うぞ!」と思って、その時警察に向かって言うように指示されていた「裁きによって地獄に落ちるぞ!」といったようなことを叫んでいました。

 その後私は自分から志願して、東京世田谷道場に行ってビラ配りをすることにしました。この有事に、音楽を作っている暇はないと思い、少しでも悪と戦いたかったのです。ビラにはひたすら「オウムは無実である」ということが書いてあり、私もその通り無実だと思っていました。



4.麻原の逮捕後

◆「サマナフォロー」というワーク

 5月に麻原が逮捕されてからは、亀戸の財施部という部署の担当になりました。そこには約120人のサマナがいて、外で働いて経済を支えるというものでした。私も含め4~5名の師がいて、毎日の夜礼では師が説法をして、サマナが麻原に対する信と帰依を失わないように指導していました。サマナに対してはひたすら「事件はやっていない」、ということを言っていたように思います。

 そして、師の間では、「もしも事件をやったとしても、麻原の救済計画であって、深いお考えのもとに行なわれたんだろう。」と話していたし、「麻原がその人にとって一番幸福な方法を取ったのだろう、これによってその人は来世地獄に行かないで済むんだ、これは愛なんだ。」と思っていました。

 理由も確証もなく、ただグルがそう言うから、そして周りの人がみなそう言うから信じていたのです。あえて理由を言えば、ひたすら自分の特殊性、優位性を保てるような、自己中心的な妄想を肯定できるからに過ぎなかったと思います。

 まったく独りよがりの世界を正しいと思い込み、たくさんの人に苦しみを与えてしまってもそれを肯定するという、傲慢による冷淡になっていたことをほんとうに申しわけないと思います。しかもそれが慈愛なのだと自己陶酔的に思い込んでいたことは、まさに狂気であり恐ろしい事だったと思います。

 麻原の逮捕に関しては、もともとノストラダムスの予言の解釈に、「教祖の逮捕」という示唆があったという話があったので、「ああ、これも救済のプログラムの一つなんだ、今後グルはどういった救済活動を展開するのだろう。」と考え、ほとんど不安になることはありませんでした。

 亀戸に警察の強制捜査があった時も、警察はフリーメーソンに洗脳されていると本気で思っていたので、「あなたたちは人間の心を持っているのですか!?」などと大声で言ったりして、もうほとんど会話は成り立ちませんでした。

 警察の方はきっとそういう私を見て、「あーもうこりゃダメだ、狂ってる」と思われたことと思います。でもその頃の私は、狂っているのは社会であり警察は敵だと思っていました。この状態では誰も救われず、精神病になって行くだけだと今では思います。まったく「グル幻想地獄」ともいえるものを、私はみずからの心の中で作ってしまっていました。

 その頃の価値観は、救済のため、あるいはグルを守るため、弾圧を受けてもそれと戦い、今生では自己を犠牲にしてでもできるだけ苦しむことが良いことであり、それによって来世は高い世界に生まれ変わることができる、というものでした。

 そのうちに、上祐代表が逮捕され、師レベルの意識としては「グルから預かっているサマナを落としてはならない。」ということにワークの重点を置くようになりました。「落とす」というのは、オウムをやめて現世に戻るということです。

 そのワークは、「サマナフォロー」と呼ばれました。そして、よりグルに意識を向け、グルにすがることが大事なのだという説法をすることが多くなりました。しかし、サマナは急激にやめていき、数ヶ月の間に亀戸財施部は約80人くらいになりました。

 そういった指導をしていくうちに、私の中ではさらに「グル幻想」を自分のイメージでエスカレートさせていくことになります。サマナに対する説法でも、自分の見た夢に意味合いをつけたり、勝手な理論を構築して話したりしていました。それによって、サマナの「グル幻想」を増大させてしまったと思います。その頃「グルがテレポーテーションして拘置所から出て来る」といった噂が流れて、サマナにもそういった話をしたりもしました。

 また、サマナにグルを意識させるために、「戦え復活の日のために」「キリストの哀れみ」と題した歌を作り、毎日夜礼で歌ったりして、洗脳してしまったと思います。「グルのために死ねるか」と考えさせたりもしていました。ですから、95年以降、長い間賠償もせず閉鎖的な体質だったのは、指導層にいた私たちに多くの責任があると思います。

 秋ごろから、「観念崩壊セミナー」というのが始まり、私はその第1回目の師だけのグループで、試行錯誤しながら進めていきました。そこで合格しなければ延長されるということで、必死で気合を入れて頑張りました。またしても、「気合」でした。第2回目、第3回目と厳しくなり、中には気を失ったり病院に担ぎ込まれ、その後、一生残る障害を負ってしまった人もいました。

 また、この頃から、「女性はカルマが悪い」ということがよく言われだし、極限蓮華座をさせて女性のカルマを切るのだという修行をさせたり、なにかと女性を蔑視するような風潮が強くなったような気がします。麻原がいなくなってから、担当の男性の師に愛着する女性が増え、男性の師も困っていました。師の間での会話では、「女性はすぐ男性に愛着する」「甘えが強い」と、どこかバカにしたような雰囲気もありました。



◆「CMP」「メディア」を経て

 97年3月、CMPというコンピューター事業部に配属になりました。ここでは、自分は事業のことはわからないので、もっぱら、精神面でのサマナのフォローをすることになりました。CMPのサマナは、パワーがあり、仕事も、行法などの修行もガンガンやるような人が多く、その頃は売上を上げて、麻原の家族に布施をすることに燃えていました。

 私は各住居を回ったり、修行の指導、面談などをしていましたが、やはり「重要なことは、グルを意識することである」という指導でした。CMPは足立区の北千住にあったので、女性サマナが悩んでいたりすると、よく、東京拘置所の周りを回りにいっしょに行ったりしていました。特に女性サマナに対しては、男性に愛着させないようにという意味もあって「グルだけに愛着するように」という指導をして、グル依存を深めさせていました。

 98年、吉祥寺の「メディア」という部署になりました。ここでは、ビデオや機関誌の制作をしていましたが、やはり、課題は、「サマナにいかにグルを意識させるか」でした。そこで私は、麻原がサマナのために指導している映像や、イニシエーションで疲れてぐったりしている映像などを選んで、「グルはこんなに身を犠牲にしてまでサマナみんなのことを愛してくれていたんだ。」と思わせるようなビデオを企画して作ったりしました。

 この頃は、麻原が目の前からいなくなったためか、サマナの中には身近な「師」「正悟師」に頼ってどっぷりと甘えてしまうようになった人も多くいました。


◆99年、住民の方とのふれ合い

 99年になり私は、埼玉県の第4サマディと呼ばれる施設で長期の修行に入りました。私自身、「救済しなければ」と思っていろんな人に近づくうちに、愛着など心のとらわれが出て来て調子を崩してしまったのです。U師の件で懲り、女性サマナにさんざん「愛着はしないように」と指導して来たのに、自分がまたそうなったことで、堕落したと落ち込んでもいました。

 ここで考えなければいけなかったことは、人が人を救済できるのかということです。「自分が誰かを救済できる」という意識は傲慢だったと思います。その頃は「地球上でクンダリニーヨーガを成就しているのはオウムの百何十人しかいない。私は地球上で重要な役割を担っているのだ!」と、今考えると気が抜けそうな発想で、気合を入れて生きていました。でもその「気合」が、この99年の一件からは、なかなか入らなくなり、気力が失せていきました。

 その頃は「寂しい」という感情が出て苦しかったので、ひたすら「グルグルグル」と意識して、グルに対する愛着をよみがえらせようとしましたが、心から愛着することができなかったので、「なにか、本当に納得できるものがなければ...」そう考えるようになりました。それには瞑想が必要だと思い、オウムで伝授された瞑想をあらためてやってみたりしました。また、麻原の説法テープをずっとかけ続けていました。そうすると少しは落ち着くのですが、深い部分は変わりませんでした。

 それまで私は、女性サマナに、「寂しさはグルと合一することで消える」と指導してきました。しかし自分自身、麻原の近くにいた時はプライドも満たされ、幸福感があったのかもしれませんが、会えなくなると、いくらグルに愛着しようと思ってもできないし、自分が指導していたことが正しかったのかどうかわからなくなりました。

 これについては、のちに自分なりに「グル」という言葉を麻原という特定個人ではなく「グルのダルマカーヤ」=「法則」であるとして法則と合一するという観点に立って瞑想することで解決させることができましたが、それに至るためには3年くらいの月日を要しました。

 しかしその頃は、予言では99年の9月に何かが起こるということだったので、「こんな状態で、もしかして本当に死んでしまったらどうなるのだろうか、グルの近くに行けなかったら救済されないのではないか。」と考えたこともありました。でも何となく、何も起こらないような気もしていました。

 9月の後半、第4サマディでは住民運動が起こりました。その頃東京の綾瀬にあった法務部が、第4サマディに移動してくるという情報が流れ、翌日の早朝、あたりが騒がしいと思ったら、テントが建てられ消防車が来て、人がたくさん集まっていました。門のところに出て行くと数十人の人がいて「出て行けー!」「消防車で水かけるぞー!」「一発ぶち込んだるぞー!」と、すごい剣幕でした。

 私は、出家してから一般の人と接するのは、その時がおそらく始めてだったので、「聖者らしく振る舞わなければ」と思い「みなさんがこのように罵声を浴びせてくださることで、私は過去の罪を落とすことができます。ほんとうに有り難うございます。」と深々と頭を下げました。

 すると「何言ってんだよ」「バカかお前ー!」「なに強いわねえ~」「おかしいんじゃない?」と、余計に怒ったり気持ち悪そうにしていました。私は、「慈愛だ慈愛だ」と思いながらも、身体が震えるのを止めることができず、部屋に戻って「おかしいな、なぜ震えているのだろう、私は慈愛があるはずなのに。。」「凡夫に対して哀れみが足りないのだ、真理を知らず、悪業を積んでいる人々、可哀相だなあ。。」と一生懸命心を静めようとしていました。

 しかし、その時はただ住民のあまりの剣幕が怖かっただけなのです。今考えれば滑稽でもありますが、そのときは真剣でした。住民の方々には、まさにマインドコントロールされた、おかしな人に見えたことでしょう。

 私は倉庫の2階に住んでいて、トイレに行くにも外に出て母屋に行かなければならなかったのですが、その度に見張りの住民の人から声が上がりました。「あっ!髪の長い女が出て来たぞーっ!」などという具合です。毎日の監視の目はつらいものがありました。私は「凡夫はフリーメーソンの価値観でおかしくなっているのだ。」と思っていましたが、あれだけの事件を起こした団体ですから、このくらい怖がられて当然です。一般の人はごく普通の反応をしていただけだったのです。

 それから約2週間の間、住民の方が見張っていて、一歩も外へ出してもらえませんでした。食べ物の便やプロパンガスの交換が来ても入れてもらえなかったり、「兵糧攻めにしてやる」と言われたり、消防車が出動していたり、今思うと、連合赤軍のように見られていたのかもしれません。事件から4年経っても、そのくらいのインパクトを住民の方々に与えていたのだと思います。

 ただその中でも、積極的に対話を求めてくる方もいらっしゃいました。その町の議員さんや、町役場の方、あるいはテレビ局の方、人権運動の方などです。そういった方々との交流の中で、私のかたくなな心は少しずつほぐれていきました。

その後、私ももっと一般の人と交流しなければお互いに理解できないと思い、冒頭に書いたように住民の方宛てに手紙を書いたり、簡単なマンガを書いて住民のテントに置いたりしているうちに、会話が生まれ、互いに安心感が生まれてきました。私もテントによく行って、時には人を笑わせたりするようにもなっていました。

 また、こういうこともありました。やはり住民の主婦の方が「あなたたちは、まだやり直せるわ」と言って、涙を流されたのです。その時私は一瞬、「あれっ?」と、どう考えたらいいのかわかりませんでした。でも、心の深い部分が何かを感じていました。それが何なのか、その時はわからなかったし、自分やオウムが正しいと思う以上、「これは情だ。心を弱くさせるものだ。」と、その時感じたものを否定してしまったような気がします。

 それが何だったのかを心の中で認めることができたのは、2003~2004年以降になってからでした。それは、誰もが持っている心の仏性の発現であり、感謝であったと思います。それまでは、オウム以外の人に感謝すると、自分が弱くなってしまうような気がしていたのです。

 その99年頃はオウム以外の人は哀れだと思っていたし、「人々は煩悩の奴隷となり、真理であるオウムを潰そうとしている」という妄想に取り憑かれていました。でも、「もしかして、人は捨てたもんじゃないのかもしれない」と思い始めたのがその頃でした。世紀末幻想の中で私は、「人類はもうダメだ」と諦め、捨てていたのかもしれません。

 確かにその頃は、「オウムを理解する人だけで神の国を作るしかない、理解できない人は、可哀相だけれどもカルマが悪いので救われないのだ。」と思い、悲壮感に浸っていました。しかしそうではなかったのだということに本当に気づいたのは、2003年ごろになってからでした。

 99年以降、徐々に私は世の中が白黒からカラーに見え始めたように思います。情緒というものは煩悩である、として人の心の温かさをはねつけるような部分もあった私の心は、この頃から変化して行きました。

 この頃出合った方々のことを思い出すと、もう顔も覚えていない方も多いのですが、私の人生にとって大切な出会いだったなと涙が出そうになります。今は本当に感謝の思いでいっぱいです。


◆上祐氏の出所~2000年

 99年末に上祐代表が出所してきて、私は、何か救いがもたらされるのではないかと期待しました。それは、他のサマナも同じだったのではないかと思います。麻原がいなくなって、今度は弟子の中では一番ステージが高いと言われる「正大師」に頼ろうとしたのです。

 この頃は私は第4サマディに篭っていたので知りませんでしたが、教団内がまとまりがなくなっていると聞いていたので、指導層の人たちも期待していたと思います。上祐代表はこの頃、住居を転々としていましたが、よく成就者を呼んで頻繁にミーティングを行ない、その頃停滞していた教団を何とか活性化させようとしていました。

 第4サマディの建物も3月で町に買い取られることになり、私はいったん修行を出て、今までパソコン工場だった施設を改築した「光音天」という八潮の修行施設に移りました。今まで落ち着いて修行ができる施設がなかったのですが、「光音天」ができて、これで修行ができるとみな喜んでいました。

 真っ白な壁と、白やブルーのカーテン、オウムの特徴的な配色ですが、富士のサティアンを思わせ、外界と隔絶された「聖なる」空間という感じがして、私も懐かしく落ち着けるものを感じていました。

 しかしこれは、今考えると、引きこもりの心理ではないかと思います。自分を理解してくれる世界だけの閉ざされた空間での安定...。これはいつか崩れる不安定なものだなと思います。

 のちに「音のイニシエーション」というものがここで流されるようになったのですが、これは、88年ごろ開発された、麻原のマントラを、回転するような効果をつけてスピーカーで大音響で流すというものに改良を加えたものでした。

 当時はこの大音響の中にいることで浄化されるといわれていましたが、実際は、音が大きすぎて頭が痛くなるとか、聞いていると潜在意識に突っ込んでしまって不安定になるという人もいました。たしかに外界をシャットアウトして麻原の世界に入り込んでいる時は、悩みも忘れて安定するかもしれませんが、外界に適応しづらくなってしまうと思います。

 それを聞いて効果があるとかないとかは、宗教的にはどうにでも解釈できますが、その頃はまだ、「体調が悪くなったり頭が痛くなるのも浄化であって、良いことなのだ」、とされていて、私も、何もかも良いものだと信じていました。

 のちになって、あるレベルよりも大きな音量を聞き続けると、脳や聴覚にとって良くないのだという話を聞きました。ここには麻原のマントラを大きく聞かせてその世界の中に入れれば浄化されるのだ、という妄信があったと思います。

 ここで私はしばらく修行の監督などをしていましたが、じきに千葉県の住居に移り、久しぶりに音楽班を担当することになりました。音楽班の住居にいる時は、メディアが作るビデオのBGMを作ったりしていました。ほかにはあまりやることがなく、私は、8ヶ月間の修行に入ったものの、調子は回復せず精神的に不安定なままで、自己矛盾に悩んでいました。

 この頃は、正直言って何をしていたのか記憶があいまいで、あまり思い出せないのです。時々成就者のミーティングに呼ばれて、どのように教団を良くして行くかという話し合いがあったことは覚えています。また、賠償をしたり、麻原の写真を祭壇に飾らないようになったりしたのもこの頃だったような気がしますが、これは表向きだけだとみな思っていたと思います。

 私自身も心の中ではまだ麻原に頼ろうとすることは変わりませんでした。まだ社会に対しては表裏があって、私は気合はなくなってはいたものの、ずっと帰依をして行こうという気持は変わっていませんでした。


◆2001年

 2001年はじめ、世田谷の「ミロク」と呼ばれる住居に移動して来ました。大家さんがぜひ来てくださいということで決めましたが、同じマンションや地域住民の方は当然大反対でした。私は住民の方々の剣幕に、また恐怖してしまいましたが、ここでも住民の方の反応は当然のことだったのです。

 でもはじめはそれがわからず、東京の人は冷たいなあなどと思っていました。中には穏やかな人もいて安心したこともありましたが、その頃にしては相当珍しい人だったのではないかと思います。

 その後音楽班では、コンサートを行うようになったり、私も「ミロク」の中での役割が増えましたが、思うようには仕事がこなせませんでした。98年以前にはできていたことができなくなった、ということで、精神的には自分に対しての自信がなくなったため、落ち込みがちでした。

 それは、自分でも気がつかないうちに、気合を入れる動機がなくなり、「燃え尽き症候群」のような状態になっていたと思われます。その中でまだ、「グルどうしたらいいですか?」と思ったりしていました。

 あまりにも単純に、自信があれば調子がよく、自信がなくなれば落ち込むという性質も、今考えると問題です。「自信がある」というのは、「自分が称賛されるに値する人間だと思える」ということかもしれません。私の自信は、「私は偉大な救世主の弟子であり、地球の頂点であり、厳しい修行をこなして成就した、類まれなすぐれた人間である。」という、実態の伴わない虚像でした。

 そのため、この頃の自分は、ちっともすぐれていなくて、あまりにもお粗末に思えました。しかしそこで「グル幻想」が消えたわけではなく、まだ「私が調子悪くなったのは修行しなかったからだ、ちゃんとグルを意識して修行していれば調子は良くなる。堕落したことをグルにざんげしなければ。」という思考でした。

 私はこのようにうつ状態になって寝込んでいることが多かったのですが、この頃上祐代表は精力的に活動しているように見えました。音楽のワークも、「マイトレーヤ正大師のプロモーションビデオ」とか、「正大師がこういう体験をした」というビデオのBGMなどが多くなりました。サマナは、グルの代わりを求めており、上祐代表が神秘的になってくると、より指導者として頼るようになっていたと思います。