●1,オウムを初めて知る


 私がオウム真理教を初めて知ったのは、1988年のことでした。その頃は、上記の通り、生きる目的に思い悩みつつ、大学浪人をしながら、自宅で受験勉強をしている毎日でした。

 

 何のために勉強しているのかわからない、いや、そもそも何のために生きているのかわからない、しかし勉強はしなければならないという厳しい現実の中で、葛藤しながら、日々勉強していました。

 

 高校時代の成績は良い方で、一流の国立大にも進学できると教師からは言われていましたが、こんな感じの意識でしたから、勉強への意欲はいっこうに上がらず、生きる意味を模索し、苦悩し続けていたのでした。


 そんなさなかの1988年の春か夏頃だったと思いますが、日刊の某大新聞に、『マハーヤーナ・スートラ』という本の広告が掲載されているのが、目にとまりました。

 

 髭もじゃの男性が高々と天に手を突き出している表紙や、何人かの信徒らの推薦の言葉が載せられている、4段抜きサイズくらいの広告でした。

 

 それが「麻原彰晃」氏の著作を初めて認識した瞬間でした(以下、この文では、麻原氏のことを本名の麻原と記載します)。

 

 当時の私はいろいろな宗教書を読みあさっていたのですが、これだけの大新聞に大きな広告が掲載されるほどの本なのだから、それなりの内容なのかもしれないと思い、近くの書店に早速発注して、取り寄せてみました。

 
 一読して、それまでに読んだ様々な宗教関係書とは違って、非常に強く惹きつけられるのを感じました。

 

 それを機に、麻原の他の著作や、麻原が主宰するというオウム真理教の機関誌を一通り買い揃え、片っ端から読破していきました。

 

 新興宗教に対しては一定の警戒心があった私でしたが、読めば読むほど引き込まれていくのを感じました。

 

 それは、上記で述べた3つの要因(①霊的要因②哲学的要因③自体的要因)に関する私の欲求を満たしてくれる内容だったからです。詳細は以下の通りです。

 


●2,①霊的要因の充足


 肉体から意識が抜けるかのような体験、予知夢の体験、超能力体験などの霊的体験を重ねてきた結果、人間には肉体以外の体があるのか?

 死んだらそれが抜け出して、また生まれ変わるのか?

 いったいこの世界の構造はどうなっているのか?

 夢の世界はあるのか?

 未来は決まっているのか?

 超能力の正体は何なのか?

......こうした疑問がそれまでの私の中では渦巻いていました。

 

 麻原の著作やオウム真理教の教義、信徒の体験談は、これらの疑問に対して、私がいろいろ読んできた本の中では、もっとも明快な回答を与えてくれていました。


 人間は、単にこの肉体だけではなく、変化身や報身、法身などの霊的身体があり、修行による霊的ステージの向上によって、それらの身体が肉体を離れて自在に使えるようになることが説かれていました。

 

 また、それらの身体の中でも初歩的な段階で動き出す身体は、肉体から抜け出す際に、金属音をともなったり、回転をともなったりするということも紹介されており、私自身の子どもの頃からの不思議な体験とぴったり一致していたのです。

 

 私の身の上に起きていたことの謎が一つ説明されたのです。


 さらに、この宇宙は、現象界・アストラル界・コーザル界という三層の世界が重なる形で構成されており、コーザル界のデータが、アストラル界のイメージに変化し、それが現象界に投影されて――つまり段階的に映し出されて、私たちが五感をもって経験するのだという仕組みも説明されていました(だから現象界のことを、現世〔うつしよ〕という)。

 

 つまり、現象界に映し出される前のアストラル界のイメージを事前に見ることができれば、未来のことをかいま見ることができる、つまり未来予知ができるという仕組みが説明されていました。

 

 これで私がしばしば見ていた予知夢の謎が説明されました。


 その他の霊体験、いわゆる心霊現象や、人間は死んだらその行いに応じて次の世界に生まれ変わっていくという輪廻転生、超能力に関しても詳しく説かれており、私の中に渦巻いていた謎が、次々と解明されていったように感じたのでした。

 
 もちろん、こうしたテーマを扱っている類書や宗教家は他にも存在したのですが、それらと違って、オウムの場合は、非常に明快に感じられ、私の体験とも一致していました。しかもその広大な世界観の正しさを、修行によって体験している人たちが現にたくさんおり、自分も体験して確認することができる、追体験できるという打ち出し方が、他と違って際だって感じられたのです。

 

 他団体の場合は、特定の教祖やリーダーだけが特殊な体験をして、あるいは体験もないまま、独特の世界観を信者らに説いているだけで、信者としては、それを受け入れて信じるしかなく、自ら確認する術がないように見えていました。

 

 それに比して、(少なくとも当時の)オウムの姿勢は実証的であり、これなら騙されることはない、慎重に自分で確認しながら進むことができるという確証を私に与えたのです。


 そして、誰に相談しても解決できなかった謎や体験を解決し、共有してくれる"仲間"がここには存在しているのかもしれないという、一種の期待を抱かせてくれました。

 


●3,②哲学的要因の充足


 霊的な要因とともに私の中に培われていた哲学的な要因、つまり、「人間いかに生きるべきか」という探究への答えも、オウムの本の中から示されました。


 それは、一言でいえば、「解脱」と「救済」でした。

 

 五感の喜びを追い求め、自分のためだけに生きる生き方に疑問を感じていた私にとって、これらは、大変魅力的に映りました。


 つまり、私たち人間を含む全ての生き物は、本来は物質を超えた非常に高い世界に完全な形で存在していた。しかし、煩悩にとらわれ、この物質で成り立つ低い世界に転落してきて、輪廻転生(生まれ変わり)を続けているうちに、過去の記憶を失ってしまった。

 

 全てが無常で移り変わっていくこの物質の世界では、五感も苦しみの原因となるのだから、五感を超越した世界を目指し、業(この世に生まれる原因となる執着等)を断ち切って「解脱」し、無限の生まれ変わりを繰り返すだけの輪廻転生から脱して元来の世界に戻っていくこと、つまり涅槃の世界に入っていくこと、そしてその境地に人々を「救済」していくこと――という仏教的な生き方を妥協なく説いていた麻原やオウムには、まるで目を覚まされるような思いがしたのでした。


 もちろん解脱するためには、人間に救う様々な煩悩――例えば物質欲、性欲、食欲、名誉欲、権力欲等をコンロトールし、静めていかなければなりませんし、救済していくためには、慈悲の心を培っていかねばなりません。

 

 そうした理論は、もちろん既存の仏教の中にも一応あるのですが、当時、私が目についた宗教団体の中では、こうした煩悩と一つずつ徹底的に戦っていこうという真剣な姿勢や、そのためのシステマティックな理論や方法を、出家という本来の仏教教団のあり方にまでさかのぼって有している団体は、他に見あたらなかったのです。


 オウムの場合、それは単なる空理空論や題目の類ではなく、現にその道を歩き、少しずつ体現していっている人たちがいるということが、多数の体験談をもって紹介されていたので、さらに強い説得力をもって私に迫ってきたのです。


 前記のように、私が疑問を持っていた①霊的な世界観についても明快な説明をしてくれていただけに、解脱と救済を指し示す生き方、つまり②哲学的なテーマについても、深く納得ができたのでした。

 


●4,③時代的要因の充足


 最後に、3番目の要因である時代的要因――つまり、20世紀末に訪れるというハルマゲドン等の地球規模の大破局にどう対応すべきかという問いへの回答も、オウムは指し示してくれたように感じたのです。


 麻原も、著作の中で、20世紀末には戦争や災害などの大破局が起きることを予言していました。今となっては完全に外れてしまった荒唐無稽なものだったことが明らかになったとはいえ、当時は、先にも記したように、ハルマゲドンの危機を煽る情報が世間に普通に溢れていましたから、麻原がハルマゲドンを説いていることも自然に受け止められました。


 私がとりわけ共鳴したのは、ハルマゲドンへの対処――具体的には戦争を防ぐための方法でした。

 

 麻原は、オウムから3万人の解脱者を生み出して、世界中に派遣し、戦争を防ぐという考え方を提唱していました。「3万人の解脱者が地球を救う」というのがキーワードでした。

 

 これだけだと夢物語のようですが、私にはかなり現実的な方法に映りました。


 なぜならば、戦争というのは、究極的には、人間のエゴ、欲望の衝突の結果として引き起こされるものだと思うからです。言い換えれば、戦争は人の心が生み出すものと考えることができます。

 

 もし人がエゴ、欲望――例えば、物質やプライドを貪る心や、怒りや怨みの心をコントロールし、落ち着かせ、静め、そこから生じた心の余裕をもって、少しでも相手のことを思いやり、愛することができるならば、最悪の実力行使である戦争などは生じるはずもありません。


 しかし、人は普通にこの世界に生きていると、自然と自分の欲望を増大させ、他人の欲望も増大させていきます。消費者の購買意欲を煽ることによって成り立つ資本主義というシステムの中では、当然のことかもしれません。

 

 欲望は肥大化していき、それと比例して、欲望が満たされないことよって生じる怒りの心や、怨み、嫉妬といった心も同じく増大していきます。また、こうした心の働きが、マスメディアの情報等あらゆる機会を通じて肯定され、増幅されていきます。


 人間は、目に見える物質やエネルギーについては、高度なシステムを構築してコントロールしてきたのにもかかわらず、最も肝心なはずの「心」については、コントロールするどころか、野放しにし、暴走させてきたといっても過言ではありません。

 

 その結果、世の中はギスギスし、犯罪は増え、凶悪化し、国際社会では戦争という形で人の心の膿が吹き出すことになってしまいます。


 だからこそ、一人一人の人間が自分の心を真剣にコントロールすること、仏教的な表現を借りれば涅槃に至ること、エゴを超越すること、そこから生じてくる智慧と慈悲を基本として他者に接することができるようになれば、戦争は徐々になくなっていくものだと思っていました。


 そして、人がそうした高度な精神状態に到達するためには、一定の修行を行わねばならず、そのような修行を完成した「解脱者」が増えて、世界に散っていけば、戦争の危機は回避できるという麻原の主張は、私の心にヒットしました。


 それよりもさらにヒットしたのは、もしそのような解脱者が日本からたくさん誕生して、世界に散っていけば、世界中の人たちが日本を"魂の故郷"として、大切な国だと思うようになり、日本を攻撃しようと思う国もなくなるだろうという麻原の話でした。

 

 先に記したように、日本という国を愛し、日本が再び戦争の災禍に見舞われないようにするためにはどうしたらよいかを考え、一時は国防の道に進もうとしていた私にとっては、このような麻原の話は、日本の平和や安全を本質的に実現できる方法を示してくれているようで、私は歓喜したのです。

 

 陳腐な表現に聞こえるかもしれませんが、軍事力に頼ることなく、愛の力によって日本を守ることができる、そう思ったのです。

 

 いや、日本ばかりか、日本以外の全ての国にとっても、つまり世界にとっても平和をもたらす方法なのだから、これこそがハルマゲドンを防ぎ、地球を守る道に違いないと思い込んでいったのでした。


 前記の通り、当時話題になっていた『ノストラダムスの大予言』の著者である五島勉氏はじめ、幾人かの予言の解釈者は、20世紀末の大破局の際に、地球を救う役割を担う勢力が、この日本から登場すると主張していました。

 

 ですから私は、この日本から登場する救済者、救世主は、麻原であり、麻原が率いるオウムなのではないかと、思いを深めていったのでした。

 

 そして、このオウムに身を投じて、全てを捧げて生きていくことが、私が追い求めてきた「大宇宙の意思」に基づく生き方なのだと思うようになっていったのです。


 このように、私が入信前から培っていた①霊的要因、②哲学的要因、③時代的要因に基づくニーズに最大限マッチしたのが、当時のオウム真理教だったわけです。

 


●5,昭和天皇崩御を機に、ついに入信


 以上のことから、私はオウム真理教への関心を日に日に高めていったのですが、やはり元来あった新興宗教に対する警戒心のため、入信までにはなかなか至りませんでした。

 

 しかし、中をのぞいてみようと、一般人向けの勧誘イベントである『真理の集い』という教団の会合に繰り返し参加しては、信者の話を聞き、指導的な修行者に質問をぶつけてみたりしました。

 

 その結果、真面目で優しく真剣な人たちだということがわかり、信用を深めていきました。とはいえ、やはり入信への躊躇があったのも事実でした。


 そんな私にとって、ある大きなきっかけが訪れました。

 

 ある日、寝ているときに夢を見ました。神社の参道を歩いていると、高さ何十メートルもあるような、真っ黒い巨大な鳥居が目の前に現れました。その鳥居の高さに驚きつつ、見上げながら、鳥居をくぐっていったのです。

 

 そこでハッと目が覚めました。もう朝だったので、1階に降りていくと、テレビが大騒ぎをしていました。

 

 それは、昭和天皇が崩御されたというニュースでした。

 

 テレビは、降りしきる雨の中を皇居前広場に詰めかける大勢の人々の姿や、昭和の歴史を振り返る映像を延々と流していました。昭和天皇の葬儀や、新しい元号の発表に向けて、政府機関が慌ただしく動いている様子も報じられていました。

 
 私はそれを見て、ああ日本が終わった......と思ったのです。

 

 先にも記しましたが、なぜか私は昭和天皇に対して畏敬の念を持っていました。ですから崩御によって、私の中に大きな空洞ができたような感じがしたのです。

 
 しばらく家族と一緒にテレビを見ていましたが、私は「よし、今日入信しよう」と意を決しました。

 

 弔意を示す半旗が町中に翻る中、当時、新大阪にあったオウム真理教大阪支部道場に赴き、入信手続きを済ませました。


 それは、1989(昭和64)年1月7日の昼過ぎのことでした。翌日から「平成」になる日のことでした。つまり私は、昭和時代最後のオウム真理教信徒となったわけです。

 

 まだ当時は認識していませんでしたが、天皇崩御によって生じた心の空隙を埋めるために入信した私は、潜在意識下で、天皇の代わりを麻原に求めたのかもしれません。

 

 おかしな奴だと思われるかもしれませんが、あえてこのことをここに記したのは、こうした思いが後のオウム真理教事件を間接的に支えていく原因になったからではないかと思っているからです。

 

 そのことは、また後ほど記すことにします。

 


●6,入信後の修行で確信を深める


 入信後は、教団から支給されたテープやテキストをもとにして、自宅で修行を続けました。すると、わずか2カ月以内で、クンダリニーが覚醒するという体験をしました。

 

 クンダリニーとは、一般にヨーガの世界で説明されるもので、人間の尾てい骨に眠っているとされる霊的エネルギーのことです。普通の人は眠った状態なのですが、修行をすることによって覚醒し、それを体内で上昇させることによって、身心を浄化していき、解脱に導く効果があるとされています。

 

 私の場合、この覚醒したクンダリニーの上昇エネルギーによって、修行をすると体が自然と跳ね上がっていくようになっていきました。

 

 何はともあれ、クンダリニーを覚醒させないことには修行が始まらないわけですが、本場のインドでもなかなか難しいことだと説明されていましたから、わずかな期間でクンダリニー覚醒をさせてくれたオウムに対して確信を深めたのでした。


 もちろん、今から思えば、正しい方法をもって修行すれば、オウム以外の団体でも同様の効果を得られたのかもしれません。しかし、実際に実践して効果をもたらしてくれた団体は、私にとってはオウムが唯一だったので、オウムへの確信を深めることになったというわけです。

 


●7,仏教系大学への入学と失望


 1989年4月、私は京都にある、某伝統宗派が経営する仏教系の大学に進学しました。宗教的な道を探究していこうという思いが高じ、数ある宗教の中でも最も合理的で、人間の心を良い方向でコントロールする具体的な手段を持っている仏教を究めてみたいと思ったからでした。

 

 それにともない、大阪の実家を出て、京都で一人暮らしを始めました。そして同時に、当時できたばかりのオウム真理教京都支部に通って修行をするようになりました。

 
 つまり、京都では、仏教系の大学に通う生活と、オウム真理教の道場に通う生活がスタートしたわけです。

 

 自然と、この2つを対比して見るようになっていきました。


 大学の方は、仏教学科に進みましたが、一言でいって、どうにもやる気がない人たちの集まりに見えて仕方がありませんでした。将来僧侶になる人たちも通ってきていましたが、単に家を継ぐために来ているだけのようで、熱意は感じられませんでした。

 

 授業中もザワザワと私語が多く、教授の言うことがよく聞こえなかったため、授業後に教授のところに普通に質問に行ったところ、「君はなかなかやる気があるね」と言われたりするほどでした。

 

 また、大学のテキストも事前に一読しましたが、今一つ、当時の自分にはインパクトに欠けていました。

 

 そんな雰囲気でしたから、全体的に大学に活力を見いだすことができず、たとえるならば、まるで炭酸が抜けた、ぬるいコーラのように感じられました。


 一方、並行して通っていたオウム真理教の方は、非常に熱意のある信徒が集まって、日々真剣に修行をしていましたから、私には大変刺激的で魅力的でした。

 

 皆が、基本的な仏教の戒律を守って瞑想することに熱心でした。私も、それまで普通に殺していた蚊やゴキブリなどは一切殺さないようにして、自分と同じ魂と見るようにし、性エネルギーを保全するようにし、食事も節制し、瞑想に心がけるようになっていきました。

 

 すると、イライラしたり、他を責めたり、小さなことで思い煩わされたりすることがなくなり、心が静かに安定していくようになりました。

 

 さらに、身体が丈夫になって、それまで悩まされていたアレルギー性の鼻炎症状も軽減し、体が楽になっていくのを感じました。

 

 子どもの頃から時折悩まされてきた不愉快な霊的体験も不思議となくなったので、それもうれしいことでした(教団では、善業を積んで正しい修行をすれば、不愉快な霊的体験はなくなると説明されていました)。

 

 この延長上には、きっと困っている人たちを救い、地球をハルマゲドンから守る道があるに違いないという快い興奮もありました。

 
 こういうわけで、大学とオウム真理教を比較すると、はるかにオウム真理教の方が魅力的に見えてしまい、大学がどんどん色あせていきました。ですから、次第に大学から足が遠のき、教団の道場に通う機会の方が増えていったのでした。

 

 このような経験が、「日本の伝統仏教はダメだ。やっぱりオウムしかないんだ」という思いを強化し、それが後の事件を生み出す教団を熱狂的に支えることに結びついていったのだと思います。


 もっとも今から考えれば、大学にも真面目な求道者はいたと思いますし、一見しただけでは目立たない地道な探究や歩みの中にこそ、堅実な仏教を見いだすこともできたでしょうから、これも若さと未熟さから生じた偏った物の見方だったのではないかと反省しているところです。

 


●8,事実上のオウム出家へ


 1989年の夏になると、麻原が翌年の衆院選に出馬するので、そのための選挙運動を手伝うために東京に行かないかと、京都道場の出家信者から強く勧められるようになりました。

 

 もちろんお手伝いに行きたい気持ちはありましたが、その一方、大学には一応在籍していましたし、何より大学に通うために新聞奨学生制度を使って、新聞配達をしていましたから、途中で放り出していくわけにはいかないしで、東京行きの勧めを最初は断っていました。


 しかし、「夜逃げをしてでも東京に行くように」と相当強く勧められたのに加えて、ほとんど大学に通っていないことが両親に発覚し、両親から強く咎められていたこともあって、教団の活動に専念したいという積極的な気持ちが半分、面倒なことから逃げ出したいという消極的な気持ちが半分で、結局、何もかもを放り出して、東京に行くことに決めてしまいました。

 

 そして9月には、東京の渋谷区にあった、麻原の選挙事務所で、住み込みで奉仕作業をすることにしたのです。

 

 何もかもを放り出して、出家の信者とともに生活を始めましたから、そのときが事実上の出家となりました。


 何の説明も引き継ぎもすることなく突然姿を消してしまったのですから、今から考えれば、後に残された人たちに大変な迷惑をかけてきたわけで、本当に申し訳なく思います。

 

 自分のためならば周りの迷惑を考えずに行動してしまうという私の自己中心的性格が、後々の事件を引き起こした教団――つまり極論すれば、自分の修行を進めるためならば、周りの迷惑を考えずに毒ガスでも散布する――という究極のエゴイズム教団を形成する一因になったのだと思うと、本当に子どもっぽい、いや人の道を外れたことをしてしまったのだと悔やまれてなりません。

 


●9,選挙運動の始まり


 選挙運動では、翌1990年の2月まで連日、渋谷区内で、ビラ配りや戸別訪問、駅前での演説等を行いました。

 

 麻原が選挙に出ること自体は、当時の私には良いことだと思えました。"哲人政治"を説いたギリシャの哲学者プラトンは、「哲学者が政治を行うか、政治を行う者が哲学者になるかしなければならない」と説いていたのを思い出し、麻原のような高いレベルに達した宗教家が政治を行うなら、日本に良い影響をもたらすことができるだろう、日本を素晴らしい国にできるだろうと、結構安易に信じていました。


 もっとも、麻原一人が当選したところで、一人だけではほとんど何もできないし、そもそも本当に当選できるのだろうかという疑問もあったのですが、これをきっかけにして、ハルマゲドンを防止するための奇跡的な動きが始まるのかもしれないという、妄想にも近い期待感を抱いていたのでした。


 それまで麻原とはまだ一度も直接話したことはありませんでしたが、それまでの自分の限られた体験や、他の信者や書籍等を通じて入ってきた情報から、そう思っていたのです。いや、正確にいうなら、そう思いたかったということかもしれません。

 


●10,初めて麻原と直接会話する


 私が麻原と直接会話したのは、この選挙活動のときでした。この期間中、3回ほどありましたが、この体験が、麻原への思い入れを深めていくきっかけともなりました。


 1回目は、いわゆる個人面談のときでした。そのとき私は、足が腫れて膿が出てくるという症状に悩まされていました。修行を始めてから出てきた症状で、教団の教義によると「地獄のカルマ(業)」の浄化作用だとされていました。地獄のカルマとは、人を憎んだり恨んだり、傷つけたりすること等によって、自己の内側に蓄積されるカルマ(業)のことです。

 

 ですから私は、麻原に「私は地獄のカルマが強いのでしょうか」と尋ねたところ、「いや、広末君の場合、強いのはむしろ情のカルマだな」と言われたのです。「情のカルマ」とは別名「人間界のカルマ」ともいわれ、たとえば両親や親族に対する愛着などによって蓄積されるカルマです。

 

 私は当時、両親を放り出すような形で事実上の出家をしてきてしまったので、両親に対する愛着に苦しんでいたのです。ですから、麻原は、そんな私の心境を超能力によって見事に見抜いたと思ったのでした。


 2回目は、麻原が打ち出していた政策「消費税廃止」の賛同を得るために、選挙区内の民家を戸別訪問して署名をもらうという運動をしていた時期のことでした。私は、あまりにも署名が集まらないので、署名活動に消極的になって、昼間さぼって、公園で寝たり休んだりすることが多くなったのです。

 

 そんなときに、麻原と会って話をする機会があり、「今日は署名は何名集まった?」と尋ねられたので、「2名だけです」と答えました。すると、「そうだろう、広末は昼間ボーッとしているからなあ」と指摘されたのです。

 

 それで私は、「あ、また見抜かれた」と思ったのです。


 3回目は、署名活動をする信者らを麻原が集めて、一人一人の頭に手を置いて、いわゆるエネルギー移入を行って激励するという機会のときでした。麻原は私の頭の上にも手を置いて、がんばれよと励ましてくれたので、私は「自分みたいな成績の悪い者にも、こんな激励をしてくれるなんて、心の広い人だな」と感激したのでした。


 このように、超能力で自分のことを見抜かれた、自分のことを励ましてくれた、という思いを抱かされることがあって、麻原への傾斜を深めたのが、この選挙運動中でした。


 もっとも、相手のことを見抜くという能力――いわゆる霊感の強さというのは、一般にもあることですし、ある程度の超能力といえるものは、先に記したようなユリゲラーや、さらに私のようなものでも発揮することができるのですから、何も麻原に限った特別なことではないのだと思います。

 

 ですが、当時の私は、いったん自分が信じたグルはすごい人であってほしいという気持ちから、この体験を過度に評価して、後の麻原の絶対視につなげてしまいました。この点は冷静さを欠いていたといえ、反省すべきだと考えています。

 

 
●11,いわゆる"オウムバッシング"の始まり


 89年10月には、週刊誌『サンデー毎日』による教団への批判記事が連続掲載されるようになり、さらに11月には、横浜の坂本弁護士一家がオウムに拉致されたとの情報が出回るようになりました。

 

 私にとっては、『サンデー毎日』のいうことは、宗教についてどう見るかという視点の違いだから、そういう批判もあるだろうという程度の受け止め方でしたが、坂本弁護士事件については、とんでもないでっち上げだと思って激しく反発しました。


 オウムは蚊やゴキブリすら殺さない徹底的に平和的な仏教徒の集団であるというのが当時の実感でしたから、人間を拉致して殺したりするはずがないと、当然のように思い込んだわけです。麻原自身も関与をきっぱり否定していましたから、これはあまりにもひどい捏造で中傷だと私には思えたのです。

 

 選挙に出ようとしている麻原を何としても引きずり落とすために仕組まれた陰謀に違いないと考えてしまいました。


 私自身、選挙運動中、さかんに通行人などから「坂本弁護士を返せ!」と抗議されたり、カバンで頭を叩かれたりしたこともありましたが、こうした目に遭うたびに、自分たちは間違っていない、不当な迫害を受けているのは自分たちなのだと言い聞かせ、ますます結束していきました。


 思えば、この頃から、"教団と敵対する存在としての社会"というものを認識し始めていたような気がします。自分が聖なるもの、価値あるものと位置づけたものを批判・攻撃する存在が現れると、それを敵視してしまうという心の働き(それも結局は煩悩のはずなのですが)が、表に出てきたわけです。

 

 これは、"社会と戦う教団"という、その後の教団を形作っていく大きなきっかけとなった事件でしたし、私もそのような流れの中に身心ともに同化していったわけです。


●12,選挙落選、正式な出家へ


 1990年2月の選挙では、麻原は惨敗してしまいました。この結果について、教団は、選挙管理委員会を巻き込んでの国家ぐるみの謀略で、投票箱がすり替えられ、麻原は落選させられたのだと主張しました。

 

 私は、まさか投票箱を丸ごとすり替えるなんてことができるわけないと思いましたが、その一方で、それにしても千数百票程度の得票は少なすぎるのではないかという、不満にも似た不信感を抱いたのも事実でした。

 

 ですから半信半疑のまま選挙運動を終えたのですが、たとえ半分とはいえ麻原の当選=国家権力による謀略の存在を信じてしまったのですから、自分の願望によって、いかにものごとを合理的に見られなくなっていたかがわかるというものです。


 この選挙運動が終わってまもなくの1990年3月、私はオウム真理教に正式に出家をしました。


 選挙運動に参加するために東京に来た段階から、何もかも放り出してきた以上は、いずれは出家するしかないという腹づもりでしたが、これを機に出家することにしたのでした。世紀末の大破局まで時間が残されていないし、このような聖なる救済活動を妨害しようという勢力(国家権力やマスコミ)まで現に出てきているのだから急がなければならないという気持ちも、私を後押ししていました。