■第4 事件後の混乱を経てオウム休眠に至るまで(1995~1999)――社会対応に苦悩しつつ"グル肯定"した時期

 
●1,教団無実を信じて対応に追われる日々

 地下鉄サリン事件の後からは、めまぐるしい毎日でした。
 
 翌々日の3月22日には、2000名以上の警察官が迷彩服を着て、富士山麓の教団施設になだれ込んできました。
 
 とりわけ目を引いたのが、捜査員らの毒ガスマスクでした。私のいた部屋に、まず毒ガスマスクを付けた捜査員が一人だけ警戒しながらそーっと入ってきて、その後ろの方では数人の捜査員が固まってこちらの様子をうかがっているのを見て、「なんと大げさな演出、でっち上げか」と思いました。
 
 「これではまるで、地下鉄サリン事件の犯人がオウムだと言わんばかりではないか。それを印象づけるための悪質な世論操作だ」と感じたわけです。

 そこで、私は法務省のワークとしては、強制捜査への対応法を青山弁護士と作成して、出家信者らに指導し、外務省のワークとしては、取材に訪れるマスコミに対して「教団は無実だ」と訴える等しました。

 やがて、村井秀夫氏が東京で刺殺されたり、直属の上長だった青山弁護士が逮捕されたり、ついには麻原が逮捕されるに至って、ますます被害者意識が高まっていきました。
 
 連日、多数押し寄せる警察官やマスコミを目の前にして対応し、まさに聖戦だという意識を駆り立てていったのでした。
 

●2,坂本弁護士遺体発見で揺らぐ気持ち

 そうして自分を支えていた「教団は無実」という思いが揺らぎ始めたのは、坂本弁護士一家の遺体が発見されたときでした。

 1995年9月、関係者の供述によって遺体が発見されたという報道に接したときには、「まさか!何かの間違いに違いない」と思いました。周辺の信者の中にも「あの遺体は警察が事前に埋めておいたものらしい」という話をまことしやかにする人もいて、やはり教団を陥れる謀略ではないのかという話題で持ちきりでした。
 
 1990年以来、坂本弁護士事件は教団の仕業ではないと確信し、外報部や出版部のワークで主張し続けてきた私としては、この遺体発見は、大きな衝撃でした。それだけに、信じたくない気持ちでいっぱいでしたが、情報を冷静に見る限り、教団が何らかの形で関与していたのは否定できないのではないかと考えざるを得ませんでした。

 通常ならば、ここで、より徹底的に自主的に事実を調べて、真相解明をしようとするはずですが、当時の私は、そこでいったん判断保留をしてしまったのです。世間でよくいわれるところの「思考停止」です。
 
 殺人などするわけがない、信じられない、信じたくないという気持ち、実際に教団の上層部はハッキリした意思表示をしていないし、逮捕された麻原も何の供述もしていないという事実、これらの要因により、思考停止をしたわけです。

 そうした気持ちの揺らぎを生じさせつつも、毎日、目の前に生じる現実の対応――たとえば連日続く強制捜査への対応や、宗教法人の解散請求、事件被害者による破産の申立て、さらには公安調査庁による破防法請求等の出来事の対応に目まぐるしく忙殺され、それ以上、深く考える余裕はありませんでした。
 
 いや、考えようとしなかったというのが正直なところでした。
 

●3,麻原の第1回公判を傍聴

 1996年4月には、麻原の刑事公判が始まりました。この第1回公判の場で、私は信者の中では最初に、ただ一人だけ傍聴席に入りました。
 
 当然のことながら、麻原の公判には極めて強い関心が全国から寄せられていましたから、第1回公判の傍聴希望者は1万人以上にものぼり、傍聴券を得られる確率は確か200分の1以下だったと記憶しています。
 
 教団でも数十人の信者を動員して、ようやく確保したわずか1枚の傍聴券が、私に渡されました。当時私は、富士山麓の施設の法務部にいたため、本来なら東京にいる刑事公判担当の法務部信者が最初に傍聴に入ることになっていたのですが、その信者が何らかの事情で入れなくなったので、代わりに急きょ私が入ることになったのです。

 前記の通り、私が麻原と会話したのは、地下鉄サリン事件の日が最後でした。そのときの麻原は、はっきりと教団の事件関与を否定していました。その後、一部の弟子がサリン事件関与を供述したり、坂本弁護士一家の遺体が発見されたりして、教団は無実という私の確信が揺らいできた中、麻原は公判で何を明かしてくれるのだろうかと期待しました。

 しかし、麻原が裁判官を前に話したことは、事件前も事件後も四無量心(しむりょうしん)の意識を持ち続けてきた、今言えることはそれだけだ、という趣旨のことだけでした。私は急いでメモしました。もちろん言葉の意味自体は、教義を学んできた者なら誰にでもわかるものでしたが、何を意図してそのような話をしたかは全然わかりませんでした。
 
 事件を認めたのか、認めていないのか。四無量心に基づいて事件を起こしたというのか、事件は起こしていないが、事件を起こしたと主張する人たちに対して四無量心をもって接するようにしてきたという意味なのか、判然としませんでした。

 ですから期待はずれではありましたが、それにもまして、当時の私の心境としては、久々に麻原の姿を見て声を聞いたということで満足もしました。そして、私は、いわば大勢の信者を代表する形で最初に傍聴に入った以上、麻原の言動を肯定的な形で信者らに伝える義務もありましたから、法廷での麻原の声は慈愛に満ちていた旨のレポートを、私が法廷内で描いた麻原のスケッチをつけて、皆に配信しました。
 
 その後、多くの信者らが交代で麻原公判の傍聴に訪れていきますが、この傍聴は、事件の真相探究のためではなく、麻原の姿を見に行くことが、その主目的でした。こうした傍聴への流れを作ってしまったという意味では、私には責任があり、反省しなければならない点だと考えています。
 
 
●4,破防法対策に追われる

 麻原の公判と並行して、破防法(破壊活動防止法)の手続きも進行していました。これは、破防法が規定する解散指定処分を教団に適用して、教団を解散させようという公安調査庁の手続きでした。
 
 公安調査庁が教団側の弁明を聴くという弁明手続きが1996年に6回にわたって開かれ、その後、公安調査庁は公安審査委員会に対して、教団への解散指定処分を行うよう請求しました。私は前任者からの引き継ぎを受け、1996年6月頃から、これに対応するワークを主に担当することになりました。

 公安調査庁の主張は、教団は麻原彰晃を独裁的主権者とする祭政一致の専制国家体制をこの日本に作るという「政治目的」を実現するために、暴力主義的破壊活動を繰り返す可能性が高いというものでした。そのような政治目的があったことなど、当時の私は全然知りませんでしたから、これは何としても破防法を適用するために公安調査庁が強引に捏造した主張に違いないと思っていました。
 
 そのぶん、さらに被害者意識が高まったわけですが、ここまでの捏造をして国家が教団を解散させようとしているのなら、きっと破防法は適用されてしまうだろうという思いでした。

 しかし、公安調査庁の請求を受けた公安審査委員会は、これを棄却し、破防法の適用を見送りました。1997年1月のことです。公安審査委員会の棄却決定は、国家の意思に反したという意味では私には意外に思えましたが、そのときの教団の状況を厳格に法律に照らし合わせてみれば、当然のことだとも思いました。
 
 なぜなら、破防法を適用するためには、単に教団が暴力主義的破壊活動をする可能性が高いとか、潰しておかないと何となく不安だという程度ではダメで、「団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由」がなければならないと法律は定めているからです。つまり、かなり厳しい要件をクリアしない限り、もともと破防法は適用されない仕組みになっていたのです。

 だとすれば、当時、宗教法人解散、破産法による破産手続きの進行、教団施設の明け渡し、犯罪関与者の一斉逮捕等が続いていた教団が、暴力主義的破壊活動など継続反復して行えるわけなく、そもそも、私たちのように事件について何も知らない者ばかりが残されていた教団に、そんな意図など一片もなかったことは明らかだったのですから、適用を見送った公安審査委員会の判断は、沸騰していた世論におもねらない非常に冷静なものだったと思います。
 
 それは、教団の状況や法律に基づけば当たり前の判断だったともいえるわけで、このワークを中心的に行っていた私は、そう思ったのでした。

 しかし、教団では、破防法適用が見送られた理由について、「グル(麻原)の祝福だ」とか「アーチャリー正大師(麻原の三女)が昨年皆に行わせた厳しい修行で、皆の悪業が落ちたからだ」などと主張する声も強く、ほぼそういう認識が教団のかなりの部分で共有されていたように思います。

 こうした物の見方は、それまでの自分たちを謙虚に反省するどころか、むしろ教団の自分勝手な自己肯定を増幅させることにつながりましたが、当時の私も、あえてそれには強く反対せず、周りにあわせて「グルの祝福」などと言っていました。
 
 本当は冷静に見られる立場にあった私のような者が、皆に冷静な見方を訴えていかねばならなかったのですが、私自身も、事件の直視や反省から回避し、麻原の力にすがりたいという気持ちが強かったことから、周りに合わせてしまったことを、今は反省しなければなりません。
 
 
●5,事件を宗教的に肯定する

 こうして教団解散の危機を何とか乗り切ったという思いで迎えた1997年でしたが、だからといってまた派手に活動したりすれば教団への反発や圧迫が強まるだろうと危惧し、正悟師クラスからなる教団の上層部は、「しばらくは静かにしておこう」と決定していました。
 
 前年1996年の11月までには、富士山麓の教団施設は、すべて破産管財人に引き渡しており、出家信者の全員が東京や大阪等の大都市に分散して居住を始めていたこともあり、しばらくは細々とした活動を続けていました。

 この時期は、教団の内情を調べることを目的としていたと思われる微罪容疑での強制捜査がまだ頻発していましたから、私はその対応のためのワークを続けると同時に、いったいなぜあんな事件が起きたのかを考え続けました。
 
 1997年から98年にかけては、事件関与を示す弟子の証言等が刑事公判で相次いでおり、教団の事件関与自体はほぼ間違いないだろうという思いが、私の中で固まってきていたからです。しかし、その一方で、1997年1月の破防法手続き終了直後から、麻原のいわゆる不規則発言が始まり、麻原は事件について一向に説明しようとはしませんでした。

 やったのは間違いないようだ、しかしグルは何も話さない。ではグルの知らないところで起きたことなのか。いや、グルの指示なくして弟子が勝手に事件を起こすわけがないのは教団の常識。だとすれば、やっぱりグルの指示はあったに違いない。それでもグルは話さない......と考えていったところ、結局そこで出てきた結論は、
「グルは何か深いお考えがあって、事件を起こすことを指示したのではないか」
というものだったのです。

 これは一般的な考え方からすれば、とんでもない!というお怒りを招くことでしょう。
 
 ですが、以上に述べてきたような麻原に対する信頼や思い入れという感情が背景にあったことから、そのように考えるようになってしまったのです。
 
 そう考えるようになった要因は、他にもあります。
 

●6,事件を肯定させた教義

 その一つに、マハームドラーという教義があります。グルは弟子の煩悩を神秘的な目で見抜いており、弟子の煩悩を潰すために、あえて弟子の嫌がることを弟子に命じる。弟子は苦しみながらもそれを実行していく過程で煩悩を潰し、解脱に近づいていく、という考えです。
 
 この場合において、グルは全てをお見通しだが、弟子の目は曇っており、自分自身のことも未来のこともわからないので、たとえ弟子にとっては理不尽でわけのわからないことであっても、グルを100%信頼して、グルの言うことを忠実に実践することが重要だとされます。

 私たちのような一般信者が、実際にグルから理不尽なことを命じられるということはほとんどありませんでしたが、このようなマハームドラーの教義があることは教義を学ぶ過程で知っていましたし、高いレベルに到達した高弟に対しては、そのようなことも実際になされていたとは聞いていました(もちろん違法行為までさせていたという話は聞いていませんでしたが)。
 
 ですから、一連の事件についても、大変理不尽でわけのわからないものではあり、しかも違法行為というとんでもないものでありましたが、だからこそ想像もつかないような高度なマハームドラーではないのか?と考えてしまったわけです。

 しかし、死者まで出ている。これはどう考えるのか?という点については、ポワの理論をもって考えることにします。つまり、麻原には、死者の魂を高い世界に導く(=ポワする)神秘的な力があるとされており、事件で犠牲になった方の魂も、麻原によって高い世界へ導かれたのだから、結局はよかったのだという考え方です。

 その根拠として、よく引き合いに出されていたのも、信者の体験談でした。ある信者の父親が病死した際、その父親の魂をポワするために麻原が思念を集中したところ、父親の遺体の周辺にいた人たちが強く上昇するエネルギーを感じ、明るくなった等という体験談です。それをもって、父親の魂は高い世界に誘われたとされていました。
 
 これに類似した体験談は複数ありました。

 もちろん、こうした考え方は、確たる証拠、合理的な根拠に基づくものではありませんでした。ですから、私の中でも、正直なところ確信というレベルにまでは行っていませんでした。それは単なる「推測」であり、正確には、「願望」にすぎないものでした。
 
 自分が認めた権威を悪と認め、それを崩壊させることは、自分を崩壊させることでもありますから、そういう意味では私は自分を守るために、自分のプライドを守るために、こうした考えを持つようにしていったのだと思います。

 こういうわけで、私はそれまで持っていた「教団は無実、事件はでっち上げ」という考え方から、「事件はグルの深いお考えがあったに違いない(と思いたい)」という考え方に移行していくことになりました。
 
 もっとも、このような考え方は、教団の公式見解として信者に通知されたわけでなく、その後の多くの出家信者が何となく共有していった考え方だったと思います(一部には、従前通り「事件はでっち上げ」と頑固なまでに思い込んでいる人もいましたが)。現に、何人かの幹部信者に尋ねてみても、あくまで推測の域を出ませんでしたが、同様の答え――「事件はグルのマハームドラーだと思う」――という答えが返ってきました。
 
 皆、グルに対する帰依を教団内で示すためにも、そのように答えていたのでしょうが、結局のところは自分の崩壊を食い止めたいからこそ、そう思うようにしていたのだと思います。

 私もそのような考えに基づいて、周辺の信者らと話をしたり、過去宗教弾圧を受けた団体の例を出しながら、文章を私的に書いたりして、教団の事件の正当化を図ったことがあります。
 
 こうした私の言動は、少なからぬ信者を事件の直視や反省から遠ざけてしまったという意味で、明らかに罪となるものでしたから、ここに懺悔しなければなりません。
 

●7,全国の反対運動に追われる

 私のそうした心境に、また少し変化が生じてきたのは、全国で起きた教団への反対運動に際してでした。

 1998年末、教団が長野県北御牧村(現・東御市)に取得した一軒家をめぐって、現地の住民の方々多数が、反対運動を起こしました。この物件の存在は、騒ぎが起きるまで私も知りませんでしたが、どうやら松本家の人たちが入居するために取得されたものらしいということを後から聞きました。
 
 物件の内装工事のために中で働いていた信者らが、多数やってきた地域住民によって力づくで外に全員排除され、物件に信者が近づけない状態になってしまったのです。その際、私は、広報部長の荒木氏と一緒に、話し合いのために現場に向かいましたが、現場近くで何百人もの地元の皆さんに車を包囲され、いわゆる激しい「帰れコール」を浴びて、東京に戻らざるを得ませんでした。
 
 この北御牧村の騒動をきっかけにして、全国の教団施設に対する反対運動が次々に発生していきました。具体的には、山梨県高根町や栃木県大田原市という、当時新しく教団が取得した物件だけではなく、既存の物件、たとえば茨城県三和町や埼玉県吹上町、埼玉県八潮市、東京都足立区などの教団施設に対しても、火が燃え移るかのように反対運動が盛んになっていったのです。
 
 ついには、全国の関係自治体が連合して、「オウム真理教対策関係市町村連絡会」という組織を結成し、互いに連携して、教団への新たな法規制等を国に求める運動を開始しました。
 
 さらに、それらの自治体は、一致して、オウム信者の転入届は不受理にする旨の決定をし、そのうえ、教団施設が存在しない全国の多数の自治体までもが、なだれを打って、信者の転入届不受理の表明を続けていったのでした。
 
 このような動きの結果、一時は出家信者の中で住民票がなくて生活に支障を来す者が100名を超える事態になりました。

 教団ではこうした動きに対応する必要に迫られ、1999年3月に、「地域問題緊急対策室」という部門を新たに設置することになりました。その室長に私が、副室長に広報部の荒木氏が就任し、主に二人で組んでトラブル対応に当たっていきました。

 なお、当時の私の教団内での宗教的ステージは「師補」というもので、会社でいえばせいぜい係長クラスのようなものでした。荒木氏は「サマナ」というもので、会社で言えば平社員。つまり私も荒木氏も、教団内での宗教的ステージは、到底「幹部」とは言えない低い立場でした。
 
 教団を揺るがすような全国規模の問題に対処するのですから、通常の組織ならばもっと高位の者が就任すべきところですが、私たちは外部対応に慣れているだろうという程度の理由で、就任となりました。このことを見ても、当時の教団が、社会的な対応を軽視していたことがわかります。
 
 その背景には、予言の1999年ともなれば、何か教団に有利な奇跡的なことが起きるかもしれない。現に麻原は「1999年に真の弟子が集まる」と予言していたそうなので、1999年を乗り切れば何とかなるだろう、それまでは適当に社会対応をして、教団を生き延びさせればよいという安易な考えが強くあったように感じます。

 何はともあれ就任してしまった以上は、どんなに辛くても、それをやり抜くのが修行だと当時は心得ていましたから、とにかくやりました。
 
 まず、各地の反対運動が起きた場所に赴き、口頭や文書で、地域住民との話し合いを申し入れました。たくさんの人たちに取り囲まれ、あるいはスクラムを組んで追い返され、大きな声で「帰れ!」「人殺し!」などと非難の声を浴びせられたことは数えきれません。
 
 教団への理解を求めるパンフレットを作成して、関係自治体に送付したりしました。しかし、その多くは未開封で返送されてきました。
 
 霞ヶ関にある国の行政機関や国会、政党などを回って、指導や仲介を求める文書を提出しましたが、それらはことごとく無視されました。
 
 マスコミは常に積極的に取材してきましたから、一つ一つ対応して、教団側の主張を伝えました。特に同年5月には、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」に荒木氏と一緒に出演して、全国の自治体の首長や有識者と席を同じくして発言しましたが、反感を買うばかりで、到底支持を得ることはできませんでした。

 支持を得るどころか、全国的に教団反対の声がますます高まっていったのが実情なのですが、今から考えれば、そうなってしまったのも当然だと思います。
 
 なぜなら、当時の私たちの主張は、
「事件の真相はわかりません。麻原尊師も何も言っていませんし、弟子達の裁判もまだ確定していません。だから事実関係がハッキリしませんし、教団が関与したかどうかもわかりません。しかし私たちは仏教者の集団であって、人を殺すようなマネはしませんし、現に95年のサリン事件以降、何の事件も起きていないのですから、信用してください。私たちは静かに修行生活を送りたいだけなのです」
というようなものだったからです。

 サリン事件再発の恐怖に震える人々に、この程度の説明で納得してもらおうとか、話し合いに応じてもらおうとか考える私たちの方が、あまりにも非常識でした。
 
 いくら裁判が確定していないとはいっても、麻原はおろか誰の事件関与も全く認めない姿勢は行きすぎでしたし、だいいち事実検証のための努力を全くしていませんでした。裁判だけではなくて、あらゆる関係者から事情を聴いて、情報を集めて検証することも、やろうと思えばできたはずでしたが、一切やっていませんでした。
 
 当然、事件被害者への謝罪や賠償などは、ほど遠い話でした。

 その理由は、すでに上記で述べたように、この事件にはグルの何か深いお考えがあるから、マハームドラーであるから、弟子は勝手に事実検証したり解釈したりしてはいけない――そういう考えが私を含めた教団内で根強かったからです。そして1999年には何らかの奇跡が起きるから、それまでの辛抱だと。
 
 しかし、そうとは正直には言えませんから、裁判が進行中だったことを口実として、上記のような弁明を繰り返したのでした。

 事件関与を認めた上で、事件をどう思っているのか、麻原をどう思っているのか、被害者に対して何をするのか、真剣に反省してやり直すという決意に基づく説明がない限り、各地の地域住民が怒って反対運動を続けるのも当たり前でした。そんなこともわからなかった自分たちは、本当に自己中心的だったと思います。
 

●8,反対運動への「同情」が生じる

 1995年当時、「教団は無実」という前提で外部に接していた私は、激しい批判を浴びせてくる人たちに対して、「真実を伝えなければならない」という一種の正義感に基づいて対応していましたし、未熟なるゆえに、「なんで真実がわからないんだ!」という思いで、怒りの感情まで出してしまうことがありました。

 しかし1999年の時点では、私にはほとんど、怒りは生じなくなっていました。反対住民に揉みくちゃにされて大声で「人殺し!」等と怒鳴られ続ける私を見て、「よく怒りが生じませんね。すごいですね」と言ってきた信者もいましたが、私としては当たり前でした。

 なぜなら、反対住民の立場に立ってみれば、激しく反対運動をしてくるのは自然なことだと思ったからです。
 
 反対運動の中心になっているのが、いわゆる、おっちゃん、おばちゃんといわれる世代の方々だったということもあります。親や親族を裏切るかのように出家してきた私の目には、これらのおっちゃん、おばちゃんが、まるで親や親族のように見えてならなかったのです。もし、この反対住民が、自分の親や親族だとしたら、私に怒りは生じるだろうか。いや生じることはない。
 
 それに、たとえ親や親族でないとしても、あれだけの事件を起こした集団が、特に反省している様子も見せずに集団でやってきて、「安心してくれ、一緒に住ませてくれ」と言ってきた場合、不安を感じて出て行ってくれと訴えるのは、人間としては当然の感情だろうと思ったのです。

 だとすれば、私の立場で使うには明らかに不適切な表現ではありますが、それでもあえて使えば、反対住民に対して「同情」のような感情が浮かんできて、とても怒りの感情など出ようがなかったのです。

 そして、その次に私に出てきた感情は、「困惑」でした。同情はするけど、でも一連の事件は深い意味のある救済活動なのだと思いたかった私としては、この不安におののく反対住民に何と説明をしたらいいのか。いや、説明をしてもわかってもらえまい。なぜなら、私自身もよくわかっていないのだから。
 
 この説明もできないほどのあまりにも高度な救済活動について、何の真理の法則も知らない反対住民が理解できるはずもないだろう、しかし、理解できないがゆえに苦しむ反対住民が日本全国にこんなにたくさんいてもいいものなのか、ここまでの苦悩を大勢の人に与えなければならない救済活動とは、何と残酷なものなのだろうか、でもこれもヴァジラヤーナのグルといわれる「尊師」のしたことだから、耐えなければいけないのだろうか......という困惑でした。
 
 ただ、こういう困惑は、教団の中では「揺れ」として表現されるもので、グルへの帰依が揺らいでいることを意味しますから、公言はできませんでした。

 そういう困惑を抱えながら、それでも日々、目の前に起きる様々な問題に対処しなければならないのは、正直言って、大変辛いものでした。
 
 ですから、そうした困惑というか、本音を公式の場で漏らしてしまったことがあります。
 
 先にも記した「朝まで生テレビ」の冒頭で、私は、「もし私が反対の立場にいたら、私も反対運動に参加していたでしょう」と発言しました。ある雑誌のインタビュー取材の際にも、冒頭で同様の発言をして、記事に掲載されました。
 
 このような、反対住民に対して一定の理解を示すような発言は、当時の教団の一部では驚きをもって受け止められました。よく思わなかった人も、中にはいるでしょう。
 
 ですが、それが私の正直な気持ちでしたし、困惑の表れだったのです。
 

●9,事件被害者の方との出会いがもたらした衝撃

 この時期、私は、人権団体の集会の場で、オウム事件のある被害者の方とお会いしたのですが、それも私に変化を促すきっかけとなりました。
 
 私が事件の被害者の方と直接対面して話をするのは、そのときが初めてでした。その方は、事件によって重大な被害を受けていましたから、加害者側の教団の一員である私に対して、非常に厳しい言葉を浴びせてこられるに違いないと思っていました。私は、それでも仕方がない、何を言われても耐えようと思って、緊張しながら対面に臨みました。
 
 すると、予想に反して、その方は、私たちを気遣う発言をしてくださったのです。それには大変驚かされました。衝撃を感じました。
 
 なぜなら、私は、何を言われるのだろうという緊張をもって、つまり自己防衛の意識にとりつかれ、自分の苦しみに没入して対面に至ったのですが、その方は、私たちに対して自分の苦しみをぶつけるのではなく、なんと私たちの苦しみに気を遣ってくださったからです。
 
 私は、修行者と自称しつつ、自分の苦しみをこえて他の苦しみを救おうと努力してきたにもかかわらず、いざとなると自分の苦しみに没入してしまい、被害者の方に気遣われてしまったのですから、非常に自分に対して恥ずかしい思いをしました。
 
 そして、その被害者の方にこそ、仏の姿を見たのです。
 
 それは、教団の内外にとらわれない広い意識を培っていく上で、大きなきっかけをもたらしてくれた出来事だったのです。
 

●10,オウム再編、休眠宣言へ

 そうこうしているうちに、教団を取り巻く事態はますます悪化していきました。
 
 ノストラダムスの予言でよく引用されていた1999年7月には何も起こらず、麻原が独自に予言していた1999年9月にも何も起こらず、結局そのとき起きたことは、教団への新たな法規制の動きでした。
 
 破防法を適用できなかったから、もっと適用しやすい法律を作って、教団を解散に追い込もうという動きが、全国の自治体の要望を受けて、政府・国会で本格化していったのです。
 
 この事態に教団は慌てました。
 
 1999年に起きるはずだったハルマゲドンは、世界には起こらず、教団に起きたのです。

 教団の上層部では、事件関与を認めるか、謝罪をするか、賠償をするかで議論となりました。この結論が出ないまま、とりあえず教団は活動を一時停止することになりました。それが、1999年9月末に発表した「休眠宣言」です。
 
 今後の教団のあり方について内部で議論をするという理由で、全国の道場を一時閉鎖し、在家信者への指導等を休止したのです。

 この議論には、麻原の人たちも加わっていたようです。私や、現場にいた法務・広報関係の信者も呼ばれて、議論に加わったことがあります。私はシミュレーションとして、謝罪賠償するパターンと、しないパターンの2つを考えて提言しましたが、結論としては、謝罪賠償しないパターンを選択してしまいました。
 
 上記のような多大な困惑を一方で抱えつつも、やはり事件の意味はわからないし、賠償も巨額にのぼるので、できるわけがないという考えからでした。事件の意味がわからない以上は謝罪できないということは、やはりそのときの私は、麻原の言葉がなければ何も決められないということで、麻原にほぼ全面的に依存していたことを意味します。今となっては恥ずかしいことですが、それが当時の私の心情でした。

 松本家や正悟師といわれる幹部ら上層部の意見は、なかなかまとまらなくて紛糾したようですが、結局、1999年12月の始めに、教団は初めて公式に、事件についての謝罪・賠償の意思表明をしました。
 
 とはいっても、真剣な検証や反省に基づくものではありませんでした。新たな法規制が迫っているので、追い立てられるように形だけ謝罪したという程度のものでした。ですから、何についての謝罪なのか、どういう賠償をしていくのかをテレビ番組で突っ込まれた教団幹部は、しどろもどろになるばかりで、ろくな回答ができていませんでした。それも、当時の教団全体の意識状態からして、当然だったと思います。

 そして、ついに同年12月末には、教団に適用する新しい法律「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」――略して、団体規制法が施行されました。
 
 上祐氏が服役を終えて教団に帰ってきたのは、その直後のことでした。
 

●11,団体規制法を招いた悪業

 以上のように、1995年の地下鉄サリン事件後から1999年末までにかけては、私たち信者らは、普通の人なら処罰されないような微罪の事件を除いては、重大な違法行為は全くしていません。そういう意味での被害は、誰に対しても与えていません。

 しかし、事件を直視せず反省せず、それどころか、麻原を絶対視するあまり、事件には深い意味があったと考え、宗教的に肯定するという姿勢を維持し、事件被害者への謝罪も賠償もしなかったのですから、全国の一般市民に不安や恐怖を与え、それがゆえに団体規制法の成立をもたらしてしまいました。これは、大きな罪だと思います。

 団体規制法の運用のためには、公安要員が動員され、多額の税金もそこに費消されます。つまり、一般市民に対しては精神的な苦痛という損害を与え、国に対しては経済的な損害を与え、余計な負担をおかけしたことになります。
 
 この当時の教団で社会対応を中心になって行っていた私に、この責任の一端があることは、間違いありません。この点も、あわせてここにお詫びしたいと思います。