第5 アーレフ発足から「ひかりの輪」に至るまで(2000~2007)―"脱麻原"へと歩んだ時期

 

 

●1,麻原の絶対性の否定

 上祐氏が帰ってきてからは、教団は急速に変化し始めました。

 

 オウム真理教は改編され、アレフと改称された団体は、2000年2月4日に発足しました。アレフでは、麻原の事件関与を認めるとともに、事件の謝罪・賠償の方針を、より明確に打ち出していきました。

 

 その事実経過については、「ひかりの輪」の団体としての総括文の方に詳しく書かれていますので、ここでは触れません。私の目から見て印象に残ったことのみを、個人的な総括に必要な範囲で記させていただくことにします。


 上祐氏が帰ってきてから行ったことで、非常にインパクトがあったことは、麻原の絶対性を否定する話を、出家信者らに行ったことでした。それは2000年の初め頃のことでした。

 

 麻原も間違いを犯すことがあった、完全な人間ではなかった、事件は間違っていた、という趣旨の話を行ったのです。

 

 もちろん、まだその当時の話は、事件がなぜ起こされたのかという真相にまで深く切り込んだ話ではありませんでした。しかし、麻原は完全無欠な存在と信じるように指導されてきた一般信者らにとってみれば、麻原が間違いも犯す不完全な存在であったという話を、教団最高幹部から公然と聞くのは初めてでしたから、相当な衝撃でした。

 

 しかも、事件は間違っていたという話も、何がどう間違っていたかという詳細までは踏み込まないとしても、麻原が行ったことにマイナスの価値判断を下したという意味では、画期的なことでした。


 こう書くと一般には驚かれるのでしょうが、上祐氏が帰ってくるまで教団を指導していた幹部らは、事件の真相を詳細に知らない人たちばかりだったこともあって、上祐氏のような話は全くしていませんでした。先に書いたとおり、「よくわからないけど、グルには何か深いお考えがあったと思う。それよりグルを信じて修行しよう」という程度の話しかなかったのです。


 こうした上祐氏の話を聞くにつれて、私の中の「困惑」から生じていた苦しみが、少しずつ楽になっていったような気がしました。麻原について、柔軟に考えてもよいのだという安心感からだったかもしれません。

 


●2,少しずつ進んだ改革

 新しく発足したアレフ(後にアーレフに改称)は、2000年2月以降、団体規制法による観察処分下に置かれました。私は、アレフにおいては、法務部長という位置づけで、こうした観察処分に対する対応策を検討・推進する役割を与えられました。

 

 また同時に、法務部と広報部が中心になって、社会融和推進部という部門を新設し、社会的な対応を引き続き行うこととなりました。


 アレフにおいては、少なくとも公式には、麻原の絶対性を否定する方向で、教義や教材の改革を行っていきました。

 

 理由はいろいろありますが、第一に、主導する上祐氏自身が獄中生活で麻原の絶対視をやめていたこと、第二に、実際に1999年までに麻原の言うような地球規模の破局が起きなかったという現実があったこと、第三に、観察処分を除去する必要性があったこと等があったと思います。

 

 特に、観察処分については、"麻原が団体の活動に影響力を有していること"を理由に適用されていましたから、少なくとも無差別大量殺人事件を引き起こすような影響力は排除するという目的で、事件に結びつくような教義は排除することとなりました。
 
 具体的には、麻原の著作のうち、ハルマゲドン予言や、麻原への過度な個人崇拝が記されているものは、回収・破棄となりました。基本的には、特に危険性のないと思われる一般的な仏教・ヨーガの法則を説いた麻原の説法のみを残すことになったのです。

 

 また、麻原の説法を集大成した『ファイナルスピーチ』という4分冊の説法集についても、その記述を全て見直し、上記と同じく予言や個人崇拝に関する部分を削除し、新たな説法集(『パーフェクトスピーチ』)を刊行するという作業を行いました。

 

 さらに、教団の祭壇や個人の祭壇の上から、麻原の写真を撤去すること等を行いました。

 

 これらの作業は、私を含む社会融和推進部のメンバーが中心になって行いました。


 しかし、今から思えば、この程度の改革では全然足りなかったと思います。

 

 現に、観察処分の取消しを求めて教団が東京地方裁判所に提訴した裁判でも、判決の中で、
「教団幹部が、構成員の末端に至るまで長い時間をかけてサリン事件の原因等について説明し、かつ二度とこのような事件を起こしてはならないことを十分に説得し、構成員がこれを心底から納得したことを個別に確かめる必要がある」
のにもかかわらず、教団はそれをまるでしていないと厳しく指摘されました。


 とりあえず、麻原の説法の中で、危険とおぼしき部分だけカットしておけばいいだろう、祭壇から麻原の写真をどけておけばよいだろう、という考えは、あまりにも安易に過ぎたと思います。

 

 しかし、それも当時の私を含む教団全体の意識レベルからすれば、やむをえないものでした。

 

 私自身も、オウム事件の真相を真剣に探ろうという気迫には欠けていましたし、その背景には、まだ麻原を信じたい気持ちもあったからです。それは、私よりも社会的な事柄に関心が薄い大部分の信者にとっても同様のことで、事件は何か深いお考えがあって起こされたものだから、事件について触れてはならないという不文律が教団を支配していたのでした。

 

 もちろん、事件被害者への賠償も、心底反省してというのではなく、あくまで教団を守るのが主目的だったことは、いうまでもありません。


 そして、事件について考える暇があったら、寸暇を惜しんで麻原と霊的に合一する修行を進めるべきであるというのが、当時のアレフの現実でした。上記のような教材改革をする一方で、麻原と自分を合一させるイメージを行うためのコンピュータグラフィックス瞑想ビデオまで作成して、信者に配付していたのが現実でした。

 

 こうした状況でしたから、2000年から始まった3年を一区切りとする観察処分は、さらに2003年に更新され、2006年まで続くこととなったのでした。

 

 こうした観察処分の動きが、上祐氏を中心とした教団改革をさらに推進していくことになりますが、それは後述します。

 


●3,全国自治体を相手にした住民票裁判


 先にも記したとおり、全国の多数の自治体が、信者の転入届を不受理にする方針をとったため、住民票がなくて生活に支障を来す信者が100名を超える状況となっていました。

 

 これは法律上は違法な処分であるため、私は法務部員として、転入届不受理処分を行った自治体に対して、不受理処分の取消しと損害賠償を請求する行政訴訟を各地で提起しました。

 

 もちろん訴訟の原告は、実際に不受理処分を受けた信者なのですが、代理人として弁護士をつけると費用がかさむため、私をはじめとする法務部員が訴訟を全面的にバックアップしていたのです。

 訴訟は、2001年に最高裁判所が「転入届不受理は違法」との最終判断を下したため、各地の訴訟で次々勝訴することになり、信者の住民票は全て受理され、問題は解決しました。

 

 また、自治体からの賠償金も得ることができ、その総計は、少なくとも数千万円以上になりました。

 

 これらの自治体から教団への賠償金は、基本的に、そのままオウム事件の被害者への賠償金に回しました。

 
 しかし、これも今から思い返すと、いろいろ反省すべき点がありました。

 

 確かに転入届不受理そのものは明らかな違法行為でしたが、自治体の方にしてみれば、危険性を感じさせる教団の集団転入を阻止するための、やむにやまれぬ最終手段だったのでしょう。そのような明らかな違法行為をさせてしまうほど、当時の教団は、強い脅威を与える存在だったわけです。


 本来、教団が第一になすべきだったのは、そうした脅威を与えないための様々な努力――具体的には、オウム事件についての真剣な総括や反省をした上で、被害者への謝罪賠償を真摯に実践し、地域住民への十分な説明等を行うことでした。ですが、そもそもグルが起こした事件についての真剣な総括や反省をしてはならないというのが、まだ教団の大勢でしたから、各自治体に強度の不安を与えるのは当たり前だったのです。


 こうしたことは、私自身も、先に書いたとおり、1999年以降少しずつ感じていたことではあったのですが、まだ強く言い出すことはできませんでした。教団の大勢がそうだったからというだけではなく、私自身の中にも、まだ麻原を信じたいという気持ちが残っていたからでした。

 

 にもかかわらず、法律を盾にとって訴訟を起こし、しかも多額の賠償金まで取ったというのは、やり過ぎでした。結局オウム事件の被害者に提供したとはいっても、本来、事件被害者に回すべき賠償金は、自分たちで働いて得るべきものであって、自治体から無理やり提供を受けるべきものではないのですから、こうした点も反省しなければなりません。
 

 

●4,上祐改革の本格スタート

 教団改革の話に戻ります。

 

 前記の通り、観察処分は2003年に更新されました。当然といえば当然なのですが、まだまだ麻原の影響力が教団に及んでいるという判断あってのことでした。

 

 これを機に、上祐氏を中心とした上層部は、さらなる教団改革を推し進めることを決意します。その背景には、上祐氏自身の体験に基づく宗教観の変化があったようですが、観察処分更新の影響も大きかったと思います。


 改革の趣旨は、麻原を教団の前面から引っ込めることでした。具体的には、麻原に抵抗を覚える人たちが教団に入って来やすいように、まずは道場施設から麻原に関する物品はすべて排除するという方針でした。

 

 さらには、麻原への個人崇拝を改めて、より本質的な存在――仏教用語で表現すれば「空〔くう〕」を直接体得していくことが必要だと、上祐氏は一部幹部に説き始めました。


 これらは大きな方針転換となるため、上層部だけで勝手に決めて進めるわけにもいかず、一般信者への説明をし、納得を得るために、大きな会合が開かれました。

 

 2003年の2月から3月にかけて、当時埼玉県の草加市にあった大型施設に、出家信者と在家信者をそれぞれ別の機会に全員集めて、討議を行いました。つまり数百人規模の会合となりました。

 

 その場で、上祐氏が改革の趣旨を説明するとともに、麻原についての現実を皆に直視してもらうためとして、麻原が引き起こしたオウム事件についての資料を皆に配付しました。

 

 麻原はこのような悲惨な事件をたくさん引き起こしてきた、だから一般社会からは大変嫌われている、麻原を前面に出すことはできない、社会の立場に立った布教活動が必要だ、グルへの崇拝よりも「国民への愛」が必要だ、というような趣旨のことが話されたわけです。

 

 こうした説明の結果、改革の方針は承認され、改革がスタートすることになるのです。

 


●5,私が改革に賛同した理由


 私は、この改革には全面的に賛同しました。


 まず、オウム事件の現実について皆に公式に説明することには大きな意義を感じました。これまで記してきたとおり、私は特に1999年以降は、社会対応がワークの中心だったこともあって、社会が教団を敵視するのは当たり前だと思っていましたから、社会に対して一定の配慮をしていくべきだと考えていました。

 

 しかし、教団の大部分の人は、事件のことを直視せず、教団に対する社会の恐怖感・不安感というものをあまり理解しようとしていませんでした。中には、教団は事件に関与していない、事件は教団を陥れるために仕組まれたでっち上げだと考える人も、いまだに存在するという状態でした。

 

 私は、社会と教団との間に立って、こうした認識ギャップの間に挟まれて、苦しんでいました。

 

 ですから、まずは信者に現実を見てもらう必要があると思い、オウム事件の説明をすることに賛成しました。


 また、麻原への個人崇拝から少しずつ脱却していこうという上祐氏の方針にも、賛同しました。というのも、その頃の私は、麻原個人への崇拝に、果たしてどれだけの意味があるのか、疑問を感じ始めていたからです。

 

 冒頭にも記したとおり、私はもともと、日本のために何ができるか、戦争のない平和で理想的な世の中を作るにはどうしたらいいのかということに関心を持ち、哲学や仏教を探究し、仏教の法則をわかりやすく説いて実践している存在として麻原を認め、オウムに来たのでした。

 

 ですから、私にとって重要なのは、あくまでも仏教の法則であり、その内容なのであり、麻原という個人ではないのです。単に、麻原は、そうした法則を私の前で比較的わかりやすく説いた人というにすぎないのです。


 もちろん、グルイズムという修行体系の中では、グルに集中して、グルの言うことを聞くことによってこそ修行は進むとされますから、グルは不可欠です。しかし、そうした修行の結果、あのような悲惨な事件が引き起こされ、社会の人々は麻原を恐れ、嫌悪しているのです。

 

 さらに、もし、この宇宙に、全ての生き物を慈しみ育てる神のような偉大な存在がいるとするならば、そしてその偉大な存在が人々を救うために、麻原を個人崇拝するという手段しか人々に提供していないとするならば、それは何と残酷なことだろうかと私は思ったのです。

 

 つまり、全ての魂を愛する偉大な存在が、全ての魂に対して、「麻原に帰依せよ。それ以外に救いの道はない」などと言っているとすれば、それはもはや偉大な存在でも何でもなく、狂った存在としか言いようがないと思ったのです。


 これも冒頭に記したことですが、私は、宇宙全体を包含する偉大な存在を子どもの頃から信じています。神というか仏というか、名称自体は重要ではないので、こだわりませんが、この大宇宙には、宇宙に生きるすべての生命体を包み込んで進化させる、果てしない広がりと深みをもった、人格を超越した至高の存在があると体感的に信じてきました。

 

 それを私は「大宇宙の意思」と勝手に名付けていましたが、そうした存在へのアプローチと、そうした存在に意識を合わせて、全ての魂と調和しながら共に進化していくという生き方にあこがれていました。


 だとすれば、麻原という個人を媒介せずとも、そうした至高の存在に直接アプローチしたいと思いましたし、上記で述べた「空」の体得に向かう仏教の法則の中にはそれがあると思っていましたから、その法則を実践していこうという上祐氏の改革は、私の心にヒットしたのです。


 つまり、上祐氏の改革は、オウム時代の無理な信仰から私を解放し、私が子どもの頃からずっと持っていた原初的な感覚を呼び覚まし、それに戻してくれるという意味で、極めて自然なものに感じられたのでした。

 

 ですから、そのとき私は上祐氏の改革に賛同したのです。

 


●6,改革の突然のストップ
 
 ところが、それからわずか3カ月ほどの2003年6月、上祐氏は部分的に修行に入るようになり、同年10月には完全に修行入りとなって、一般信者から隔離されるようになりました。一般信者に対しては「疲れがたまっているので回復のための修行」と説明されていました。

 

 それにともない、上祐氏主導の改革はストップし、教団は麻原個人崇拝色をどんどん強めていきました。つまり、昔に回帰していったのです。

 

 会合の場で、いったんは皆で一致して改革に賛成したにもかかわらずです。


 そして、上祐氏批判が始まりました。つまり「上祐氏の改革は間違っていた」「グルを犠牲にして"国民への愛"を説くのは間違いだった」「上祐氏は魔境であった」「"グル外し"をしておかしくなってしまった」「上祐氏の言うことを聞いてはならない」等と主張する「お話会」という名称の会合が、2004年後半から、一部信者らによって繰り返し開かれるようになったのです。

 

 この「お話会」は、建前上は教団非公式のものでしたが、実質的には、大部分の信者が参加して話を聞くように求められました。要するに、教団公式会合のようなものでした。


 私は、この「お話会」には疑問を感じました。

 

 もちろん、もともと上祐氏の改革に賛同していたからですが、それ以外にも、お話会のやり方自体にも問題があると思ったのです。なぜなら、お話会の内容のメインは、上祐氏に対する猛烈な批判なのですが、当の上祐氏は修行に入れられ、信者から隔離され、何の発言権、抗弁権も与えられていなかったからです。

 

 つまり、法務部の私からすれば、まるで「欠席裁判」のように見えたのです。このような欠席裁判で、一方的な批判を上祐氏に浴びせ続けるのはフェアではなく、教団をまたいたずらに社会と対立させる方向に持っていくのも、大変問題だと感じたのでした。

 

 そこで、私は、こうした形での上祐氏批判は問題だという趣旨の発言を、教団の中で繰り返したのでした。

 


●7,改革ストップの背後に松本家の存在が


 すると、このような上祐改革支持の私の発言が、たちまち松本家へ伝えられたようで、松本家サイドから、私に牽制がかかり始めました。松本家に近い複数の幹部から、私の発言を松本家が悲しんでいる、上祐氏は魔境でおかしいのだ等と言われ、中には相当きつい表現で私を批判してくる幹部もいました。それは2004年になってからのことでした。

 

 このことから、上祐氏排撃の背後に松本家の存在があることが明確になりました。


 また、上祐改革の一環として、麻原の説法集『ファイナルスピーチ』を一部改変したことは先ほど述べたとおりですが、この改変作業について、ある信者が「説法を勝手に修正して、松本家の皆さんが悲しんでいる」と述べて、批判してきたこともありました。


 2004年は、こうした感じで、反上祐で松本家支持という風潮が、教団内で圧倒的かつ支配的でした。そんな中を、私をはじめとする少数の上祐氏支持の信者が、細々と発言を続けているという状況でした。


 というのも、教団では、松本家の人々は、きわめて高い地位を与えられていましたから、無理もありません。麻原は、1996年の破防法手続きの際に、教祖の地位を降りましたが、その際に第二代教祖として指名したのが、松本家の長男と次男でした。また、それ以外の長女から四女についても、「全てのステージの上に置く」と規定していましたから、正大師というステージにあった上祐氏よりも、松本家の人々は、はるかに教団内の地位が高かったのです。

 

 松本家の人々は、麻原が絶対視・神格化されていた状況の中では、ほとんど神に準じるような扱いを受けてきたのであり、その前では教団代表の上祐氏も吹き飛んでしまうような権威がありました。ですから、上祐氏主導の改革を批判し、上祐氏を封じ込めることは、松本家にとってみれば易しいことで、だからこそ大部分の信者は、急きょ上祐氏の改革に反対し、松本家に賛同したのです。

 

 グルである麻原の意思に沿うことが最も価値あるとされていた教団の中では、上祐氏よりも地位が高いと麻原自身が定めた松本家の人々に従わないということは、すなわち麻原への反逆を意味することになるのです。


 そういう意味では、私が麻原へ"反逆"し出したのは、この時期からということになるのかもしれません。

 


●8,代表派(上祐派)を立ち上げる


 私は松本家サイドの言うことには納得できず、度重なる説得を受けましたが、応じませんでした。上祐氏の言うことを聞くことは、グルの意思に反することになる、グルへの裏切りになる、そういう意味の忠告を受けたことも何度かあります。

 

 ですが、私にとっては、松本家の言うことに従うよりも、つまりグルの意思に従うよりも、自分自身の良心に従いたいという気持ちが強まっていました。


 グルの意思を主張する人たちは、この教団と社会との対立を解決するための方法を持ち合わせていない、社会の人たちの苦しみや教団への反感、そしてそこから生じている教団信者や元信者の苦しみを解決しようとしていない、ただ単にグルにすがれば、ひたすらグルの救済を待てばよいという消極的な考えだけだ、これが本当の仏の道であろうか、本当に人々のためになる道なのだろうか――という私の心の中の叫びが、いわゆる「グルの意思」に反逆する道を選ばせたのです。


 そういうと何だか格好良く聞こえますが、それも、上祐氏が先鞭を付けていたからこそ、私にできたことなのかもしれません。


 そう思っていたときに、上祐氏と会う機会が訪れました。2004年当時は、上祐氏は、一般信者との接触を禁じられ、自室で修行をさせられていました。あるとき、警察か公安調査庁が、強制捜査か立入検査のために上祐氏の部屋に入った際、私は立会人として立ち会いました。当局が引き揚げた後、私は上祐氏と二人だけになるチャンスがあったので、すかさず、上祐氏や改革について教団でいろいろ批判されていることをどう思うか、尋ねてみたのです。

 

 私は、てっきり上祐氏から、いろいろな反論があるものと予想していましたが、意に反して、上祐氏の答えは「何が正しいか正しくないか、あれかこれかという論争を超えたところに、真実はある」というものでした。

 

 私はそれを聞いて、ハッとし、その吹っ切れた様を見て、少なくとも上祐氏を批判している人たちが言っているような魔境状態だとは上祐氏のことを思えませんでした。むしろ、批判している人たちとは次元の違った境地に至っているように見えました。


 それを機に、上祐氏と連絡をとり始めました。ちょうどその時期、上祐氏が原告になっている民事裁判があったので、その打ち合わせのためという口実で接触する機会を持てたということも奏功しました。

 

 私は、上祐氏と話を重ねた結果、かつての改革は基本的には間違ってはいないという確信を深めました。そこで、それまでに同調していた数少ない仲間と一緒に、上祐氏支持をアピールする会合を公然と本部施設で開いたのです。2004年11月末のことです。そこで、改革の正当性について訴えました。

 

 その会合には、上祐氏を批判する人たちも大勢訪れ、かなりの論戦となりました。それをきっかけとして、上祐氏を支持する人たちが徐々に集まり始め、「代表派」を名乗るようになりました。実権を奪われていたとはいえ、一応は上祐氏が教団の代表だったからです。


 その一方、上祐氏を批判していた多くの人たちも、さらなる結束を固めていきました。この人たちは、麻原の意思を正統に受け継ぐ者たちという意味で「正統派」を自称しましたが、その後、これは派閥争いではない、代表派は派閥ではない、単なる魔境の集団であるというスタンスに立って、自らを派閥とする呼称はやめたようです。ただし、私たちは便宜上、代表派に反対する人たちという意味で「反代表派」と呼んでいました。

 


●9,代表派と反代表派の衝突の激化

 こうして代表派が"旗揚げ"されたことで、2005年になると、反代表派(といっても、反代表派の方が圧倒的多数でしたが)は、代表派の封じ込めのための活動を盛んにしていきました。

 

 反代表派は、再び「お話会」という会合を繰り返し開いて、「改革への反省のないまま上祐氏が活動を再開するのは許せない」と主張をしました。反代表派のスタンスは、麻原を表に出さず仏教の空を追求するという上祐氏の改革は、麻原から信者を引き離すものだったから反省すべきである、というものでした。

 
 そして2005年5月、上祐氏が、長野県の戸隠神社一帯で修行をしたことを突き止めた反代表派は、「神社で修行するのは、やはり魔境である証拠」として、上祐氏を激しく批判しました。それも、数十名以上が集まる幹部会合の場で、上祐氏不在の場所で、上祐氏への問い合わせを事前にすることなく、いきなり発表して、批判しました。これも欠席裁判のようなものでした。


 従来の教団の考えでは、教団施設や麻原が許可を出した場所は聖なる場所だが、そうではない一般の神社・仏閣は、エネルギー状態の悪い魔境エリアだとされてきました。そのような神社で修行をする上祐氏も、当然に魔境だとされたわけです。

 

 上祐氏や代表派は、神社といっても、もともとは観音信仰の寺院があった場所であり、つまりオウム・アーレフで親しんできた仏教と縁の深い場所である旨説明しましたが、とにかく一般の神社・仏閣は全部ダメということで、全く受けいれられませんでした。

 

 こうして、上祐氏批判がいっそう激しく展開されるようになりました。

 


●10,代表派勉強会で目が覚める――事件は私が起こした

 代表派でも、理解者を増やして教団改革を進めるために会合を週に1回のペースで繰り返し開きました。すでに代表派に入っている人はむろん、態度を決めかねているいわゆる「中間派」の人たちを主な対象としました。

 

 この会合では、主に、オウム事件についての勉強を重ねました。実際に事件に関与した信者や事件について知っている信者に、皆の前で実体験を話してもらいました。また、過去の事件記録を整理して、皆で読み合わせしたりしました。

 

 サリン事件の被害者のサポートをしているNPOの方にお越し願い、被害者の実情についてお話をしていただいたこともありました。


 そして何より、上祐氏自身から、事件についての、より深く突っ込んだ話が何度も繰り返されました。つまり、あの事件は、麻原が「神聖法皇」という聖俗両面の絶対者として君臨する祭政一致の独裁国家を日本に作るために引き起こしたものだという説明が詳細になされたのです。

 

 独裁国家の名称は「太陽寂静国」または「真理国」が予定されていて、その憲法の試案までもが作られていました。

 

 こうした説は、これまで公安調査庁の主張としては聞いたことがありましたが、明確に教団内部の、しかも最高幹部だった人から確定的に聞いたのは、初めてでした。恥ずかしながら私自身、過去の教団にそのような「政治目的」が本当にあったとは、この2005年になって上祐氏の話を聞いて、初めて確信したのでした。

 

 事件の真相については、2000年の段階でもある程度の話があったことは前記の通りですが、そこまで踏み込んだ内容ではなかったのです。


 これらの話を聞いて、これまでの様々な事件についての不可解な謎が皆、解けていきました。サリン事件などの事件には、何か深いグルのお考えがあったというわけではない。一連の武装化や暗殺事件は、太陽寂静国を作ろうという政治的意図のもとで計画され、計画が失敗しそうになったり、妨害されそうになったりするたびに、また事件を引き起こすという場当たり的な犯行だったことが明らかになりました。

 

 もちろん公安当局の主張やニュースで一応表面的には知ってはいたものの、半信半疑だったわけですが、事件の真相を知っている上祐氏本人から直接聞くことによって、リアルかつ完全な確証が得られました。


 事件には何の深遠な意味もなかった。麻原の単なる妄想的な国家建設構想と、その妨害勢力を排除するための所業、それが事件の真相であった。そして、その事件は、多くの人を苦しめただけだった。そう思うと、完全に夢から覚めていくような気がしました。

 

 その結果、やっぱり教団はこのままではいけないとも思うようになっていきました。


 また同時に、こうした教団は自分が作り上げたのだという感覚も生起してきました。先にも述べましたが、麻原がなろうとしていた「神聖法皇」とは、我が国の天皇に取って代わる地位でした(だからこそ麻原は何度も皇居への攻撃を弟子に指示していたのでしょう)。

 

 これは、昭和天皇の崩御にともない、天皇に代わるような存在を求めて入信した私の願望の現れではないかと思ったのです。

 

 また、麻原による国家建設のためのクーデター計画は、戦前の2・26事件をモデルにしていたことが、法廷の証言で明らかにされました。これも先に記したことですが、私は入信前の若い時期に、腐敗した国家は場合によっては武力で打倒することもやむをえないのではないかという考えに傾き、2・26事件に強いシンパシーを感じ、研究したことがありました。

 

 ですから、こうした教団のクーデター計画も、私の心が外に現れ出たものではないかと思いました。

 
 少なくとも、オウム事件の核心に関する2つの要素(天皇と2・26事件)は、私が入信前に培った要素でもあったのですから、私の意識が一連のオウム事件を潜在的に後押しした――つまり、私もオウム事件を起こしていたといえるのではないかと思うのです。

 

 つまり、あの無意味な悲劇を巻き起こした責任は、私にもあったと考えられるのです。

 


●11,麻原の説法を引用した代表派活動の反省点

 そういう思いで、私は代表派の活動を展開していきました。会合を繰り返し開いたり、『真実を見る』というブログを作成したりして、オウム事件の真相や代表派の考え方を訴えていったりしました。

 

 つまり、オウム事件を直視して真剣に反省し、麻原への個人崇拝を超えて、全ての魂を尊重する、より本質的な真理の探究を行っていこうという主張です。

 

 しかしそれでも、アーレフという団体を、アーレフの枠組みの中で変えていこうという取り組みでしたから、いろいろな面で限界があり、それゆえの反省点もありました。


 その第一は、代表派の正当性を訴えるための根拠として、麻原の説法を多く引用したという事実です。

 

 というのも、麻原の初期(86~87年頃)の説法には、全ての魂を等しく愛することの重要性、選民思想を持ってはならず、自分たちの教団を特別なものと思ってはいけないこと、自分(麻原)は弟子達と同じ人間であって少し先を行っているだけだからカリスマにはならないという意思を示したもの等、代表派の考えに合う穏健なものもいくつか見られたからです。こうした、事件とは関係なく特に危険性もない、むしろ末期の麻原や教団のような個人崇拝や選民思想を否定する説法は、代表派としても積極的に活用したのです。


 また、麻原が「自分の前生は徳川家光だ」と主張している、いま考えれば荒唐無稽な説法も、私は引用したりしました。具体的には、次のような趣旨で引用しました。

 

 麻原は、前生において徳川家光だった時代に武断政治を行い、キリスト教徒を弾圧したがゆえに、今生はそのカルマによって国家権力から弾圧されていると述べている。だとすれば、これからアーレフ教団をリードして、穏健で社会的な団体にしていくのは上祐氏である。なぜなら、徳川家光の跡を実質的に継いだのは、異母弟の保科正之という人物であるが、保科は幕政を武断政治から文治政治へと大転換し、幕府のことよりも民衆のことを優先して考えたため「慈愛の君主」ともいわれており、上祐氏の改革路線とそっくりのことを行った。

 

 つまり、徳川家光の前生を持つ麻原を継承して、穏健な教団づくりをするのは、前生の業からして、保科正之の性質(または前生)を持つ上祐氏なのである――と、こういう趣旨で、上祐氏の教団継承の正当性を主張するために、麻原の前生について語る説法を使ったりしたのでした。


 なぜそのときも麻原の説法を使っていたかというと、前記の通り、アーレフの枠組みの中でアーレフを変えていこうとすれば、そうするのが最も効果的だったからだといえます。説得の対象となる信者は主に中間派の信者でしたが、彼らも麻原の説法を絶対視または最重要視していることに変わりはなく、それを根拠に話さない限り、彼らも安心して納得することはないからです。


 ......という面が強かったのは事実ですが、実はそれも今考えれば言い訳に過ぎず、究極的には、私たち自身の宗教性がまだまだ未熟だったからにほかなりません。もし私たちの宗教性が高度なものであったとすれば、何も麻原の説法や荒唐無稽な前生談に頼らなくても、自分たちの言葉で自分たちの理念を話し、中間派の信者を説得できたのでしょうから。

 

 つまり私たちは自分たちの未熟さゆえに、より楽な道、つまり麻原の説法に頼るという選択肢をもって、改革を進めようとしたのです。私たち自身が、まだまだ麻原に依存していたわけです。これは、真の改革からはほど遠く、今としては反省しなければならない点だと思っています。

 


●12,「この宗教」の恐ろしさを感じる


 2005年10月頃になると、教団内の分裂騒動も激しくなり、教団全体の経済収入に影響が出始めてきました。そこで、中間派の幹部が仲介し、「経済会合」という名目で、代表派と反代表派のリーダー数人ずつが出席して、今後のことを話し合うことになりました。

 

 このとき私は、代表派のリーダーの一人として、その会合に出席しました(上祐氏は、出席すると反代表派が拒絶反応を示し混乱するからという理由で、出席しませんでした)。

 
 会合の場では、いろいろな意見のぶつかり合いがありましたが、とりわけ印象的だったのは、オウム事件についてのやりとりです。私たち代表派サイドからは、オウム事件に対する総括や反省が必要だと述べたのですが、反代表派からは「グルはマハームドラーについては語ってはならないと言ってますが、それでも語るのですか?」との反論がありました。


 つまり、反代表派の考えは、まさに私自身が以前そうだったように、そして大部分の信者がそうだったように、いまだに、「事件はグルが何か深いお考えに基づいて起こしたものであり、弟子や社会に対するマハームドラーである」というものなのです。

 

 先にも述べたように、(教団における)マハームドラーとは、神秘的な目をもって弟子の煩悩を見抜いているグルが、弟子の煩悩を落とすために、一見理不尽とも思える行動を弟子に対して行わせるという考え方です。弟子には意味はわかりませんが、グルは全てお見通しですから、エゴを捨ててグルに従うことが、弟子の修行を進めることになります。ですから、弟子は、マハームドラーの意味合いについては考えてはならず、ひたすらグルに従うことが求められます。

 

 このときの反代表派の反論は、そういう趣旨で述べられています。


 また、この際、反代表派のリーダーの一人からは、「教団の敵は、外ではなくて、内部にいる」との発言がありました。

 

 話の文脈上、それが私たちのことを指しているのは明らかでした。現に、先にも記したとおり、反代表派による代表派への批判攻撃は、相当なものでした。もちろん暴力を使うようなことは一切ありませんが、「魔境に陥った者」「グルを裏切った者」「口を交わしてはいけない者」という位置づけとなり、私自身も様々な批判を受けました。

 

 代表派に属している、または代表派と交流があるというだけで、反代表派が支配的な教団の中では、長期修行入りにされたり、ワークから追放されたりという"攻撃"がありました。


 私があえてここで"攻撃"と記したのは、少しオーバーな感じがするかもしれませんが、理由があってのことです。なぜなら、私は教団内で、宗教的な信条が違うというだけで"攻撃"を受けてからというもの、いろいろ見えてきたものがあったからです。


 反代表派は、事件はマハームドラーであると主張し(あるいは聖戦ととらえ)、事件への批判は許さず、反代表派の考えに合わない私たちに対しては、「魔境」とのレッテルを貼り、批判したり追放したりといった攻撃をしてくる......この体験をした私は、こう思いました。


 「これは、これまでの教団が、そして私自身が、教団の外に対して、やってきたことではないのか!?」


 私は1995年以前は、教団に敵対する人との戦いを聖戦と信じ、95年の地下鉄サリン事件直後は、陰謀を巡らす国家権力と聖戦を行い、事件が教団によるものらしいと気づいた後も、事件自体が聖戦だったのだと信じ、外部社会と戦ってきました。外部社会を「悪魔に操られた存在」として、訴訟を起こしたり、文書や口頭で抗議したり、記者会見を開いて攻撃したり等、様々な形で攻撃してきました。

 

 実に傲慢な行いでした。

 

 私が反代表派から被っている攻撃、これはまさに、私が外部社会にやってきた攻撃にほかならなかったのです。


 そして、このことに気づいたとき、「ああ、この宗教は恐い!」と思ったのです。

 

 思い起こせば、私は、戦争のない平和な社会、日本を作りたいと思い、その手段として宗教の道を選びました。しかし気づいてみたら、よりによって、この宗教によって、事件関与者は外部社会に現実の戦争をしかけ、私も外部社会と聖戦をし、日本という国に多大な迷惑をかけた上に、さらには教団内部でも戦争をしてきたのです。

 

 この、戦争を内外に引き起こしてきたこの宗教こそ、麻原が作った宗教であり、そして私たちが支えてきた宗教、オウム・アーレフだったのです。


 私はこのままアーレフにいて、以前のような麻原への思いを維持しながら、アーレフの宗教的価値観に基づいて活動を続けることはできない、それは自分が本来目指してきたものと反することになる――そう思うようになりました。


 今頃気づいたのかと愚かに思われるかもしれません。しかし、確かに愚かにも、自分が攻撃される場面になって、私は初めてそのことに気づいたのです。

 


●13,麻原に追従することは「大宇宙の意思」に反する


 このようなプロセスを経て、私は麻原に追従するような従来の信仰はできないという思いに至りました。

 

 その思いをさらに強めたのは、事件被害者の存在であり、事件被害者に対して麻原や教団は何もすることができていないという事実でした。


 先に私は、事件を宗教的に肯定しようとする場合、事件の死者は麻原によって高い世界にポワされたのだと思い込むという話をしました。つまり麻原によって死後救済されたのであれば、それでよいのではないかという考えです。もちろん、それが教団の公式な考えというわけではありませんでしたが、事件について深く考えたくない、あるいは何か深い意味があったに違いないと思いたい大部分の信者が、このような考え方で自分をごまかしてきたということは、先に述べたとおりです。


 しかし、たとえ死者については、そのような思いこみでごまかすことはできても、いま現に生きて、その後遺症に苦しみ続けている負傷者については、どう考えたらいいのか。また、死者の存在に悲しみ苦しんでいる遺族については、どう考えたらいいのか。


 もし、麻原が死者をポワした、救済したというなら、いま現に生きているこれら苦しんでいる人々に対しても、何らかの救済をすべきではないのか。


 しかし、麻原は、1997年以降、不規則発言を繰り返すなどして法廷で裁判に向き合おうとせず、ひたすら現実逃避としか思えない不誠実な姿勢をとり続けてきました。現に生きている負傷者や遺族に対して、その苦しみを癒して救済するどころか、その苦しみを増大させるようなことを行うばかりです。


 そして、そのようなグルでも信じるべきだ、マハームドラーだったと信じるべきだと考える信者らも、現に生きている負傷者や遺族に対して、同様に何もできていません(単に賠償金を払えばよいというものでないのは当然です)。少なくとも宗教者であるなら、その信じる宗教的信念に基づき、苦しんでいる人々を救うべきですが、何もできないでいるのです。いや、むしろ、グルが起こした事件であるから、弟子が勝手に解釈したり、ましてや弟子がそれ以上の救済をしたりしてはならないと考えているのです。

 

 そして、今は深いお考えがあって法廷では何も言わない麻原が、いずれはそれらの人たちを救済してくれる、それまで自分たちは待ち続け、自分の修行を続けていようという考えなのです。


 もちろん、私もかつては同様に考えていたので同罪です。しかし、以上に述べたような経緯によって、今の私は到底そう考えることはできなくなりました。このような残酷な考えを持ち続けることは、とてもできなくなりました。


 オウム・アーレフ(今はAlephと改名)のキャッチフレーズは、「苦しみからの解放と解脱を説く」です。これは、現Alephのホームページの冒頭(http://www.aleph.to/)にも大きく記されています。

 

 しかし現実の教団は、本来なら真っ先に苦しみから解放すべき存在である事件被害者に対して、何もすることができません。

 

 これではまるで、たとえるならば、自分が蹴り飛ばして苦しめた人たちが、自分の足下で転げ回って苦しんでいるにもかかわらず、それを放っておいて、その一方で、遠くにいる人たちに向かって「ここに来たら苦しみから解放してあげますよ」と大声で叫んでいるようなものです。これは非常に残酷かつ滑稽な構図といわざるをえません。


 そして、それをなさしめてきたのが、麻原であり、麻原の作った信仰であり、それを信じている教団の信者たちなのです。

 

 麻原は、事件の被害者だけではなくて、このようないびつな精神構造の信者まで作り上げてしまい、その責任を一切とろうとしていないのですから、ケタ外れの加害者ということはできても、もはや救世主、救済者といえる存在でないのは明らかです。

 
 このような信仰を持ち続けることは、私には、もうできません。

 

 私が子どもの頃から独自に「大宇宙の意思」という存在を信じてきたことは、これまで繰り返し述べてきたとおりですが、麻原や教団に従うことは、もはや「大宇宙の意思」に明確に反すると私は思うようになったのです。

 

 このような思いは、2007年3月のアーレフ脱会に至るまでの間に、徐々に徐々に強まっていったのでした。

 


●14,代表派の事実上の独立へ

 少し話が前後してしまったのですが、事実関係についての話に戻ります。


 2006年3月頃になると、反代表派に属する信者から「自分たちが教団に提供したお布施が、代表派の活動のために使われるのは耐えられない」との声が上がってきました。そこで、代表派は独自に収入を得て活動してほしいとの通知が反代表派からあり、会計を独立させることになりました。

 

 また、「代表派の人と一緒に住みたくない」との声が上がったため、代表派は一つのマンションに固まって居住することになりました。

 

 このような経緯で、2006年7月からは、代表派は住居も会計も独立しました。同じ宗教団体アーレフに属しているとはいえ、事実上、代表派は独立したことになりました。その活動も、反代表派が主導する教団とは一線を画して、独自に決定して実行するようになったのです。

 この7月の事実上の独立を前にして、代表派では、主に中間派の人たちを対象にして、これを最後の機会と意識して、説得や説明会を行うなどしました。ですから、私もギリギリ6月まで、中間派の心情に配慮しつつ、代表派の理念に反しない麻原の説法を使いながら、代表派の行おうとしていることは必ずしもおかしなことではない(麻原の初期の穏健な考えに必ずしも反しない)という趣旨の話を勉強会で行い続けました。これは何度も言いますように、ギリギリまで麻原に依存していたということを意味しており、反省材料の一つです。

 


●15,代表派の実質的な独立――ひかりの輪へ

 事実上、宗教団体アーレフから切り離され、独立したに等しい状態となった私たちは、その後のアーレフ脱会を視野に入れつつ、活動方針を決めるために話し合いを続けました。

 

 特に、麻原の説法を収めた著作を中心に、オウム・アーレフ時代に作られた教材の類をどうしていくかが、検討の中心となりました。

 

 麻原の説法の中でも、特に危険性のないものは一部残してもよいのではないかという意見も出ましたが、結局は、麻原の説法はむろん、オウム・アーレフ時代の教材は全部破棄するということで、皆の意見がまとまりました。


 社会に与える不安を解消するためということもありましたが、新しい道を歩もうとしている私たちが、いつまでも麻原に依存しているようではダメだ、そのような特定個人に依存するような宗教が、かつてのオウム事件を引き起こす土壌を形成したのだという反省も、その大きな理由となっていました。

 

 その決定をしたのは、2006年11月のことでした。これを境に、私たちは、麻原の説法やオウム・アーレフの教材を全廃していき、使用しないことにしたのです。

 
 そして、翌2007年3月に、私たち代表派の信者は集団でアーレフを脱会し、準備期間を経て、同年5月に新団体「ひかりの輪」を発足させました。


 18年間所属したオウム・アーレフからの脱会に未練はありませんでした。むしろ、過去の反省に基づいて、自分の信じる新しい道を早く歩み出したいという気持ちでした。