■はじめに

 ここでは、深層心理学者であるユングの「影と投影の理論」をもとに、オウム真理教、および教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(※以下「麻原」と表記)、そして事件を考察してみたいと思います。

 

 このユング心理学の「影の投影理論」とは、河合隼雄氏(故人、京都大学名誉教授、前文化庁長官)らによって、日本でも普及されたものです。そして、河合氏が認めるように、このユング心理学やその影の理論は、大乗仏教の一元的な世界観の思想とつながる点があります。

 

 一元的な世界観とは、一見別々に見える、この世界の諸現象が、本質的には、相互に密接に関係していると見るものですが、それは、外界の物理的な現象と人の内面にある心理現象の間にも及ぶものです。

 

 さて、影とその投影の理論を考える場合は、そこに「悪」についての問題が出てきます。そして、いわゆる「悪」の概念は、この世界を善と悪に単純に二分化する、「善悪二元論」とも関係してきます。

 

 

■影と投影の理論

 まず、ユング心理学で言われる「影」とは、自分の中で、自分にあると認めたくないもの、劣等な部分やいわゆる悪い部分、あるいは、現状の自分と折り合いがつかない都合の悪い部分のことです(厳密にはそれらの人格化したものを「影」というが、わかりやすくそれらの要素を「影」としておく)。

 普通、だれでも自分の劣等な部分、自分に都合の悪い要素は、自分の中にあることを、なかなか認められません。「自分」というものが、ゆらぎ脅かされてしまうからでしょう。ですからそれに気付かなくていいように、潜在意識の中に強く押し込んで見えなくしてしまいます(この作業自体、無意識的に行ってしまう)。

 そうすれば、もう自分にその要素はないということになり、「自分」は安泰です。しかし、それで終わりでなく、自分が抑圧した自分の「暗部」は、他人に「投影」することになり、その他人がその要素を持っているとして、嫌悪や非難などなど、そこからさまざまな問題が発生することになるのです。

 自分は善で対象は悪である、自分に否がなく悪いのはあいつ、という構図ができあがります。もちろん、投影を引き受ける(投影される)側に、その投影内容(要素)が何もないかというと、そういうことはなく、その要素はあるのですが、事実以上に「悪」に仕立て上げてしまうことになります。

 このように、強い投影をしてしまう場合、自分の個人的な影の投影だけでなく、それに「普遍的な影」を付け加えて、「絶対的悪」としてしまいます。歴史上の悲惨な出来事として、中世ヨーロッパの魔女狩りや、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺などがこれに当たります。

 自分たちを「絶対善」と考えたオウム真理教は、当然そこに強烈な「影」を形成したことは、影の理論から考えて間違いありません。自分たちが「絶対的善」であればこそ、自分たちと違うものは「絶対的悪」にもなり、排除する気持ちも強くなるのです。オウム真理教が日本社会や、国家権力、アメリカ、フリーメーソンに向けた敵意は、それを集団で行ったものです。

 集団における影の投影の事例として、先にも挙げた、ナチスのユダヤ人に対する迫害と、中世の魔女狩りがよく挙げられます。この点について、ユング派の臨床心理学者の河合隼雄氏は『影の現象学』の中で次のように述べています。

 

 集団の影の肩代わり現象として、いわゆる、生け贄の羊(スケープゴート)の問題が生じてくる。ナチスのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内の影をすべて生け贄の羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。
(中略)
 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかに影のかたがわりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。
 そして冷たい戦争によっていがみあうことにもなるが、ユングがいみじくも指摘しているように、『鉄のカーテンの向こう側から西側の人に歯をむいているのは、自分自身の邪悪な影の顔なのである』(注:米ソ冷戦時代のこと)。自分の影を自分のものとして自覚することは難しいことである。

(河合隼雄『影の現象学』思索社、1976)