当然のことながら、以下に説明する「誇大自己症候群」の人の性格には、さまざまな否定的な特質があります。

 そのため、これを安易に扱ってしまうと、すべての人が、程度の差こそあれ、誇大自己症候群の傾向・要素を持つということを無視し、誇大自己症候群である悪い人とそうではない善い人といった具合に、人間を二分化・差別化してとらえることになりかねません。

 仮に、私たちが、「自分には、まったく誇大自己症候群の要素・傾向はなく、あいつらだけが、誇大自己症候群なんだ」と考えてしまうならば、傲慢さ、軽蔑、差別の心が生じる恐れがあります。

 よって、まず、第一に、「すべての人が程度の差こそ誇大自己症候群の傾向・要素というものを持っている」ということを確認して、第二に、誇大自己症候群の良い点として、「誇大自己のエネルギーは、偉人を生む力ともなる」という点を説明したいと思います。

 心理学上、誇大自己症候群の人は、常識人がもたないエネルギーや発想を秘めていることもあり、それをうまく生かせば、大きな力とすることもできるとされます。

 わかりやすく言えば、誇大自己症候群の要素には、例えば、「偉人と呼ばれるような人になりたい」という欲求などがありますから、それが現実的な方向性に働くならば、大きな業績を残す原動力になる可能性もあるわけです。

 そして、その人に対する周囲の接し方や支え方で、有害な部分を最小限にし、長所を引き出すことは可能です。
 また、誇大自己症候群の人は、一方でとても魅力的な一面を持つことも多いのです。誇大自己症候群の人は、一見すると「いい人」に見えたり、とてもまじめで控えめな印象を与えたりすることも多くあります。

 第一印象では、一般の人は欺かれがちであり、好印象を持ってしまうことも多くあります。「カリスマ性」という点では、誇大自己症候群の人は、優れた素質をもっている場合もあるので、魅了されてしまうこともある、ということです。

 では、こういった「誇大自己症候群」の普遍性と肯定的な側面の存在を踏まえつつ、うまく現実に適応できない場合に、その症候群が、どういった否定的な側面を呈するかについて、以下に細かく見ていきたいと思います。


(1)「万能感」という誇大妄想

 誇大自己の持つ「万能感」は、何かに挑戦しようという前向きな力にもなります。しかし、現実認識が甘く、現実と遊離した形では、「誇大妄想」の万能感となって、それは、危険なものとなります。自分は何でもできる、という「自己誇大視による万能感」があり、等身大の自己認識を欠いてしまい、現実が伴わない「過剰な自負心」となります。

 麻原については、この傾向がしばしば見られます。

①人徳もなく生徒会長になろうとして落選したこと
②学力もなく「国立の医学部に入学し医者になる」とか、「東大の法学部に入学して総理大臣になる」と主張し失敗したこと
③宗教団体を開いてからは、民主的に政権をとろうと考えて、選挙に出て惨敗したこと
④その後は教団武装化=軍事力によって、日本・世界の王になろうとしたこと

などです。


(2)自己顕示欲

 「見捨てられ体験」をした者は、自分に確かな価値観が感じられず、周囲の関心や注目を過度に求めることで、「自分の価値」を確認しようとします。満たされない思いを補うために、誇大な願望を膨らませ、派手な自己顕示に向かいます。 

 誇大自己は、絶えず「注目と賞賛」を望みます。自己顕示欲というものは、本人は大まじめでも、第三者の目には滑稽に映ったり、異様であったりするようです。自己顕示欲的行動は、それに感応した人を惹きつけますが、そうでない人には茶番に映ります。

 この傾向も、麻原には顕著です。例えば、

①青年時代に、寮生活で学友を集めて行なったとされる「松本智津夫ショー」
②衆議院選挙で行った特異なパフォーマンス(滑稽・異様に感じた人も多かった)
③自分の誕生日に「キリスト礼拝祭」と名付けた教団の祭典を行い、その中で、実際に自分が十字架に掛かる(ことで自分がキリストである)という演出をしたこと

などです。

 その他にも、社会の注目を集める「派手で特異な」活動・言動は枚挙にいとまがありませんでした。


(3)「自分こそが世界の中心である」という誇大妄想

 自分を世界の中心である「特別な存在」であると思い、自分が特別な存在で「唯一絶対の存在」であるような思いが、心を支配し続ける傾向があります。

麻原の場合は、

①実際に、「私が世界の中心であることは間違いなく・・・」と語る説法があること
②自分のことを、「最後の救世主」「キリスト=世界の王」「未来仏マイトレーヤ」「地球の教祖」になるなどと宣言・予言していたこと
③ インドでは、お釈迦様が悟りを開いた場所で、立ち入り禁止である場所に座って、自分を仏陀と同列に位置づける行為をなした(地元住民とトラブルとなった)こと
④ 歴史上の皇帝・将軍など、その時代の中心人物を「自分の過去世である」と語ったたこと

など、これも枚挙にいとまがありません。


(4)「他者に対する共感性」の未発達、喪失

 このことは、「他者に対する二面性」に現れます。それは、冷酷な血も涙もないような行いと、過度に親切で優しいという一面です。

 しかしながら、親切で優しく振る舞う状況と、ドライで酷薄に振る舞う状況の落差を分析すると、どちらも、「その人の気分や欲求」に重心が置かれており、相手の視点や立場に立った、本当の「共感」や思いやりによるものではないことが明らかとなります。

 その背景には、冷酷さも、過度な感情移入も、その人が「世界の中心」にいる、という設定条件の下に生じています。感動したり共感しているように見えるときも、相手の思いよりも自分の思いに力点が置かれ、感動している自分自身への陶酔という側面が強く、とかく「独りよがりな思い」に走りがちです。

 麻原の場合は、一連の事件などの冷酷さと、信者に見せた行為の「二面性」がこれに当たると思われます。


(5)権威への反抗と服従

 「誇大自己」と「理想化された親のイマーゴ」という二つの自己愛を映し出すものとして、「自己対象」と「全能対象」があります。

 「自己対象」は、「自分のもの」であり、「自分の思い通りになる対象」であり、これが、誇大自己の欲求を満たしてくれるものとなります。

 「全能対象」は、理想化された親がその原型となりますが、それは、しばしば自分を叱り、自分に畏怖を感じさせる「絶対的な強者」でもある親のイメージです。それは、教師や師と仰ぐ人物への「尊敬」となり、神やそれに類する絶対者に対する「畏怖心」となります。

 しかし、先ほど述べましたが、親に激しい失望を味わうような体験をした場合は、この「理想化された親のイマーゴ」が適切に発達した上で適切に解消される、というプロセスを経ることがなく、反抗的になったり、「反社会的」になって、他者に対して信頼や尊敬を抱きにくくなります。また、権威ある者に対して、理由もなく突っかかっていこうとします。

 これも麻原によくあてはまります。麻原は、親に捨てられた、と考え、非常に「反社会的な人格」を形成し、高名な修行者である、パイロットババ師、カル・リンポチェ師、ダライ・ラマ法王などに師事したかと思えば、すぐに自分より下に置いて、結局は、「自分が世界で最高の聖者である」という意識を持ちました。国家権力やアメリカと言った社会の権威に対して「敵対」したことも言うまでもありません。

 なお、別のケースとして、親から無償の愛情を与えられなかった者は、親を過度に理想化した上で、親の呪縛(支配)を受け続け、親に他人行儀に気を遣い、大人になっても親に認めてもらおうとするケースがあります。

 これは、麻原の信者のケースではないかと思われます。麻原の信者も、麻原をキリストとして認めて帰依することによって、自分たちが「キリストの弟子」として、世界の人類の中の頂点に至るという誇大妄想的な欲求を満たそうとしたのですから、「誇大自己症候群」の可能性があります。

 そして、信者は、自分の肉親の親ではなく、麻原を「第二の親」とした面があり、実際に、教団の中で隠語で「お父さん」と言われることもあります。その信者は、「親である麻原」を過度に理想化=神格化し、事件後でさえ麻原の呪縛(支配)を受け続け、今でも、麻原や麻原の家族に認めてもらおうとしています。非常によく当てはまります。

 なお、麻原は、現実の世界で、「理想化された親のイマーゴ」への欲求が満たされなかった中で、彼の内的な妄想世界に現れる「シヴァ大神」に、それを求めたように思います。現実世界では与えられなかったので、自己の妄想の世界で、それを満たしたというわけです。

 この「反抗」と「愛情の希求」という相反する方向が、混じり合っていることも多くあります。誇大自己症候群に見られるのは、まさにこうした事態です。権威への「反抗」と「服従」という二面性に引き裂かれるのです。

 しかし、それは二面であっても根本原因は一つです。親や親代わりが、自分の「誇大自己」の欲求が満たしてくれる存在でないと思えば、他人に反抗し、他人を尊敬しない側面が現れますが、同時に、潜在的には「誇大自己」の欲求があるので、それを満たしてくれると思える存在・対象に対しては、とたんにそれに「服従」して、欲求を満たしてもらえるようにするという訳です。

 これが、

①麻原が、彼の「シヴァ大神」に絶対的に服従しつつ、一般社会への強い反抗・攻撃をなしたことや、
②麻原の弟子たちが、松本への絶対的帰依を実践しつつ、麻原と共に、一般社会に反抗したことに当てはまる、

と思います。

 ここでは、服従も反抗も「極端」になります。なぜなら、その動機・原因である「誇大自己」が極端だからです。その欲求が強いので、それを満たしてくれない存在には、憎しみが生じ、満たしてくれると思えるものには、完全に服従して、欲求を最大限に満たそうとするということです。


(6)強い支配欲求

 「誇大自己症候群」の人にとっての対人関係の特徴は、「所有と支配」という色合いを帯びています。相手を自分の思い通りにしようとします。自分の考えだけが正しくて、一番よいと思っているので、それを受け入れない人は、「愚かで悪い人」とみなされてしまいます。自分の思い通りになり、意のままに支配できる存在は「かわいい」存在であり、そうでない存在には「むかつく」のです。

 麻原の場合は、この傾向も顕著でした。例えば、

①幼少のころから、生徒会長、政治家、総理大臣なることを夢想し、
②生徒会長の選挙に落選すると、気にくわないと思った生徒を片っ端から殴りつけたり、
③教祖になると、自分が「世界のキリスト」になる人物とする予言を発表し(「キリスト」とは、麻原の解釈では「王」という意味で、祭政一致の世界の統治者を意味する)、
④選挙に出て政権を取ろうとしたり、
⑤教団武装化=軍事力で日本・世界を自分の国にしようと妄想しました。

 また、グルとしても、麻原は、弟子たちに対して「唯一のグル」として君臨し、カル・リンポチェ師などの他の高名なグルから、弟子が瞑想法の伝授を受けることなどを否定しました。「密教では、グルは一人である」として、弟子が他のグルから学ぶことを否定したのです。

 また、自分の支配欲求に反するものは、「悪」と認識して怒りを現わすわけですが、そうすることを正当化するためにも、それを「悪」に仕立て上げるのです。
 
 麻原の場合にも、これが当てはまり、彼の「世界の統治者」になろうとする過剰な欲求のために、自分の弟子にならないすべての人たち=外部社会の人たちは、「悪業多き魂」というレッテルを貼られました。

 さらに、「誇大自己症候群」を抱えた人は、愛情を、「支配と所有」の関係でしか見ることができません。愛情を、どれだけ服従するかで測るだけでなく、それに報いる術も、所有する物を分配することしかない、と思っているのです。
 ある犯罪者の例として岡田氏は、愛情飢餓を埋めるために、ますます物や金をばらまき歓心を得る、という行動パターンがエスカレートしていった、という例があることを書いています。

 麻原の場合は、小学校5年生のとき、児童会会長選挙に立候補したとき、お菓子を生徒たちに配って自分に投票するように言い含めたり、衆議院選挙の際も、安い野菜を有権者に提供したりしました。

 教団の教祖になってからは、彼により深く帰依する者に、成就者として、教団内の「高い地位」を与えました。逆に言えば、「麻原に対する帰依」こそが、成就の認定を得る上で最も重要な要素であるとされました。

 もちろん、帰依が最も重要だとされつつも、80年代などの教団の初期は、瞑想修行の成果などに基づいて成就認定が行なわれており、それなりに弟子たちの精神的な満足があったと思われます。

 しかし、93年ごろからは、「ヴァジラヤーナ活動に貢献した男性」や、「麻原の子どもを産んだ女性」に、高いステージが与えられ、94年になると、LSDを使ったイニシエーションの体験において、「麻原への帰依や救済のヴィジョンを見た者」について、成就者の認定を与えました。

 さらに、95年には、強制捜査が近づき、教団が崩壊する直前になると、大勢の弟子たちに高いステージをいきなり与えましたが、これは、状況からしても、弟子たちを離反させないための策だったのではないか、と推測されます。

 それは、逮捕された後も続いて、同じく逮捕された石井氏や都沢氏を獄中から昇格させようとしていましたが、彼らがまもなく離反したので、それを取り消さざるを得なかったなどといった、完全な「破綻」にまで至ったのでした。


(7)罪悪感・自己反省の乏しさ、責任転嫁と自己正当化

 まず、麻原の生い立ちに関しての書籍から、引用をしたいと思います。主に、担当した教師による見解です。

「智津夫は高等部に上がったころから、やることが狡猾に、陰湿になっていったんです。われわれの目の届かないところでね。そして発覚したら、居直りを決めこむ。担任ではどうにもならんときは、生活指導の教師や古手の私などが面接室に連れていくわけです。そうすると、さっきの勢いはなんだったのかと思うほど、卑屈な態度に変わるんですね。もう言わんでください、と懇願するようになる。さらに突っ込まれると、最後は泣くんです。激しやすい反面、非常にもろいところがあった。しかし、実際には、まったくこちらの気持ちは届いていないんです。反省するということがない。智津夫にあるのは自我だけです。自我に敵対するものは徹底的に排除するかわり、自我のなかに無条件に飛びこんでくるものは、自分のほうから受けいれていったんじゃないでしょうか」

(『麻原彰晃の誕生』p.43)

 犯罪行為についても、保険料不正受給や薬事法違反から、その後の出家者の親、マスコミの批判や、さまざまな犯罪行為に至るまで、真剣な反省は今も見られません。裁判での意見陳述では、「自分は常に四無量心(仏教で言う慈悲の心)で生きてきた」と主張し、不規則発言の中で、再び「自分は弾圧されている」といった主旨の主張をしています。

 「責任転嫁」も顕著であり、一連の事件に至っては、弟子に責任転嫁をして、「自分は止めようとしたが弟子がやった」などという架空の主張をなし、選挙の落選も、国家の権力の「陰謀」として責任転嫁しました。


(8)現実よりもファンタジー(幻想)や操作可能な環境に親しむ

 この傾向は、生の現実ではなく、思いのままにコントロール可能な模造現実を居心地よく快適と感じるものです。ファンタジーであれ、その底流にあるのは同じく、「思い通りになる」ということであり、「万能感」を容易に充足させてくれるということです。

 「誇大自己」を抱えた人は、社会的な孤立と、自分は周囲から認められないという思いは、単に自己否定感を深めるだけでは終わらず、それを補うために、心の中で、別のプロセスが進み始めます。

 すなわち、より誇大で自己愛的なファンタジーにのめり込んだり、思い通りになる弱い存在を支配することで、自分の万能感や力の感覚を満たし、どうにか折り合いを付けようとするのです。そして、麻原の場合は、ファンタジーにのめり込むことと、思い通りになる弱い存在を支配することの双方を兼ね備えていたのが「宗教」でした。

 彼は、自分が師と仰いだ宗教法人の教祖から、希望している政治家にはなれないから、代わって、「弱い人間を相手にする宗教」をやることを助言されました。そして、その師の手品を見て、宗教に使えると考え、それをしきりに習いたがったため、その師に絶縁される、という経緯があったといいます。そして、その後に展開した宗教活動は、今まで繰り返し述べてきたように、まさに妄想的であり、大変悲惨なファンタジーの世界でした。

 

(9)被害妄想

 次に、前にも出てきている「被害妄想」の傾向ですが、これは、周囲から侵害されるのではないかという「不安」ゆえに、余計にかたくなな態度で、防備を固めようとする傾向にも通じるものです。

 そして、麻原の場合は、この被害妄想が、非常に顕著でした。例えば、

①幼少のころの親に対する見方(親が自分を捨てた、搾取しようとした)
②生徒会選挙に落選した際に「教師の妨害があった」と決めつけたこと
③自分は「キリスト」で「悪魔の勢力から弾圧される」という予言世界観を唱えたこと
④マスコミなどに批判されると、「その裏に創価学会・フリーメーソン・国家権力がいる」と主張したこと
⑤衆議院選挙に落選すると、「投票操作をされた」と主張したこと
⑥「米軍の毒ガス攻撃を受けている」という主張を含め、「教団弾圧の裏にアメリカ・CIAが存在している」としたこと

など、枚挙にいとまがありません。


(10)目先の利益や快楽のために他人に害を与えても平気――規範意識の欠如

 麻原がこれに当てはまることは、さまざまな違法行為、犯罪行為を見れば明らかです。
 そして、それは幼少のころからそうだったようです。

「盲学校の生徒には、大なり小なり社会にたいする憤りや、被害者意識、劣等感があるんです。しかし、ふつうの生徒はそんなことなど口に出さずに、社会に協力していこうという気持ちをもっていた。ところが、智津夫には、それがないんです。自分のために、まわりを利用しようという意識ばかりがあった。社会の常識は、自分の敵だと思うとった。そして長兄にくらべて智津夫には、人の上に立ちたいという名誉欲が人一倍強くありました」
同様の話は、複数の元教師や現職の教師からも聞いた。

(『麻原彰晃の誕生』p.33)

 そして、教祖になる前も、保険料不正請求、薬事法違反、そして、治療家としての誇大宣伝・詐欺的な行為など、一貫した傾向でした。
 また、「目先の利益や快楽」といえば、犯罪行為を犯す動機自体が、まさにそれでした。

 最初の事件は、単なる事故死であったにもかかわらず、「教団の名誉・自己の救済活動に傷をつけたくないがあまり」、死体遺棄の罪を犯しました。しかし、そのために、後ほど、それを目撃した弟子が告発することを恐れて、その弟子を殺害するという事件につながっていきました。

 また、坂本弁護士事件は、同弁護士が教団のマスコミ批判の裏にいると考え、それを排除するために行われましたが、マスコミの批判などは常に一過性ですから、静まるまで辛抱すればいいことでした。

 地下鉄サリン事件は、教団に迫る警察の強制捜査を嫌って、延期させるために行われたとされていますが、辛抱して強制捜査を受け止めなかったことが、彼にとって致命的となりました。


(11)内に秘める攻撃性

 誇大自己の万能感は、その絶対性を傷つけられると「自己愛的怒り」を生みます。「自己愛的怒り」は、絶対者である神や王の怒りに似ています。

 これは、すべて自分の思い通りになることを期待し、「自分こそ正しい」という思い込みが否定されることから生じる怒りです。怒りによって生じる行動は、まさに神や王のそれであり、相手に「思い知らせる」ために、相手の存在を消し去ることさえ躊躇しません。

 麻原の場合も、この傾向は非常に顕著でした。麻原は、自己を「最終解脱者」であり、「キリスト」と位置付け、「自分を批判・攻撃した者は、大変な悪業を積むことになり、神々の怒り・裁きが下る」としました。

 そして、それだけに止まらず、その裁きを自ら実行するために、教団の武装化や、さまざまな暴力犯罪を犯しました。すなわち、明らかに、彼自身が、「裁きの神」となっていったのです。彼が解釈した「予言されたキリスト」は、そういった神の化身であり、彼にとってのポワとは、救済であるとともに、一種の「裁き」だったのです。

 また、後の事件に比べると小さいことですが、印象深い事例として、教団を受け入れなかった波野村が、大きな洪水災害に見舞われた際に、それを「真理の団体を弾圧したがゆえの神々の怒り、天罰である」と主張し、地域住民が見るように、その内容のビラを配らせた、ということもありました。