■ひかりの輪の教え・方針――「誇大自己」や「理想化された親のイマーゴ」を越えるために

 ひかりの輪のメンバーは、オウム真理教の出身者が主体ですから、自分たちが麻原とオウム真理教に帰依する中で、それぞれが相当の「誇大自己」の欲求を有し、それを満たすための「理想化された親のイマーゴ」としての麻原に帰依した、という傾向をどのように解消していくかについて、さまざまな努力をしているところです。

 まず、自分たちの現実を努めて理解するように努力しています。「理想化された親のイマーゴ」によって「誇大自己」の欲求を満たすということは、私たちの場合、麻原を絶対化し、それによって、「自分たちを絶対化」してきた、ということです。

 よって、麻原と自分の現実をよく認識することからやってきました。それが、まだアーレフを脱会する前に、アーレフの代表派(上祐派)が始めたことで、そのためのブログとして、「真実を見る」という名前のものを開設してきました。その中では、麻原とオウムの実態を直視することから始めました。

 これは、それまで麻原と自分たち自身に幻想を抱いてきた多くのメンバーにとって苦痛であったと思いますが、なんとか、それを一歩一歩乗り越えてきたということです。

 この努力は一生続けなければならないと思いますが、一つの節目として、今回の総括文書の作成の作業があります。現在、上祐代表の総括に加えて、団体としての総括文書が一通り完成し、発表されています。また、他の役員・部長・指導員の個人の総括も、一応の完成を見ました。
 
 その中で、一人一人が自分と教団の現実を直視し、その精神的問題にメスを入れるように努めました。その中では当然、麻原を絶対化することで、「自分を絶対化」しており、その背景に、気づかなかった恐るべき「プライド(誇大自己)」の存在に気づきます。

 こうして、自分の誇大自己に気付き、「理想化された親のイマーゴ」である麻原を「相対化」して、自分と麻原と教団の真実良かった部分と悪かった部分を反省し、悪かった部分を払拭し、良かった部分を継続するという方向性を目指します。

 その中で、宗教実践を行う団体として、

①人を神としない。他人を尊重して学ぶことは大切だが、絶対視して学ぶことはしない、その意味で、団体の指導者は相対的なものであり、先輩修行者・先達であって、絶対的ではない

②すべての人々・万物から、その良いところを教師として、悪いところを反面教師としてできるだけ学び、感謝して、奉仕するべきである

③大自然を尊重し、大自然との調和・融合を目指す(大自然は人間存在と不可分であり、古来は大自然に人は神仏を見ていた)

 といったような指針を形成してきました。

 まず、「人を神としない」というのは、心理学的に言えば、「理想化された親のイマーゴ」を適切に解消するためであり、それと連動する自分の「誇大自己」も和らげます。

 また、同時に、「他から学ぶことは大切だが、絶対視して学ぶことはしない」という方針を示していることも、心理学的に言えば、「誇大自己」と「理想化された親のイマーゴ」を本当の意味で解消するためです。

 というのは、「理想化された親のイマーゴ」が急激に奪われた場合に、前に述べたように、誰も尊敬できなくなり、反抗的になるケースがあるからです。誰も尊敬・尊重しないという症状は、「誇大自己」の欲求は依然として残っており、「理想化された親のイマーゴ」に対する欲求も本質的に残っているため、誇大自己の欲求を満たしてくれる人以外は、誰も尊敬・尊重しない、という形で現れると思われるからです。

 よって、本当の意味で、「誇大自己」と「理想化された親のイマーゴ」が解消されるということは、自分の「誇大自己」を満たしてくれるような理想的な存在・絶対者ではなくても、自分より優れている者からは、その人を絶対視しないで学びとる、というしなやかな精神だと思います。

 これが、オウムで言われた「グルと弟子の関係」、すなわち「絶対服従の関係」ではなく、バランスのとれた上下関係、師弟関係、先生と生徒の関係だと思います。その際、学ぶ側は、

①自分の「誇大自己」の欲求を満たしてくれなくても、他を尊敬して学ぶことという謙虚さ、
②他を絶対視して過剰に依存せず、自分の努力で幸福になる勤勉さ

を培うことになります。

 次に、「すべての人々・万物から、その良いところを教師として、悪いところを反面教師として、できるだけ学び、感謝して、奉仕する」といった実践の意味合いは、心理学的に言うならば、「誇大自己」が自分を世界の中心として、自分が一番優れている存在としたがる「傲慢な性格」を持つことに対して、万物から学んで感謝することで、それを解消しよう、ということです。

 なお、「他人の悪い部分を自己の反面教師とする」というのは、自己中心的な「誇大自己」の典型的な欲求として、自分は正しい、他人は間違っているという考え方にとかく偏りがちであり、誇大妄想だけでなく、他人が自分を害している、という「被害妄想」までも容易に形成してしまうので、それを解消するものです。

 これは、ユング心理学の「影の投影」にも通じる考えで、自分が他人に見て嫌悪する欠点は、自分の潜在的な欠点の投影であるという考えに基づくものです。このためには、他人の欠点ではなく、「自分の影=欠点」を見つめる実践、宗教的に言えば正しい意味での「ザンゲ」が有功になります。

 最後に、「大自然と調和・融合した意識を培う」ということは、自己中心的な「誇大自己」の背景として、そもそもが、現代の都市化された文明の中で、人間が、自分があたかも地球の王・支配者であるかのように振る舞い、自分たちの中での競争・奪い合いに明け暮れていることがある、という認識に基づいています。

 要するに、誇大自己という「個人傲慢」は、個人の産物ではなく、現代の傲慢な人類社会の産物ではないか、という見方です。その傲慢で無智な文明は、今や、食料・水などの資源・エネルギー・環境・経済といったさまざまな問題で破局さえも迎えかねない、危機的な状況になりつつあります。

 最後に、「大自然の尊重とそれとの調和・融合」については、別の機会に詳しく述べたいと思います。

 


■現代の「自己愛型社会」に対する今後の奉仕について

 現代社会において、「自己愛が強まっている」と言われます。

 これは、人格的特質として、麻原と同質なものを持っている人たちが増えているということになります。もちろん、教祖であった麻原だけでなく、弟子たちにもその特質はあったと思います。

 また、当然のこととして、同じ自己愛傾向であったとしても、その強弱や、現れ方には、個人差があって、同じ「自己愛」を原因として、表面的には、まったく反対の現れ方をする場合も多々あります。

 そして、宗教や、今流行っている「スピリチュアル」といわれる世界では、空想的・妄想的な傾向が見られるのではないかと思います。「自己愛」が強い人は、現実の苦痛から逃げて、自己の幻想の中で生きていることが多いと言われています。例えば、苦しいときに、安易に占いに頼り、星による運気が変わると問題が解決するだろうと妄想するのもこの一例かもしれません。

 自己愛が強い人が多い「自己愛型社会」なら、スピリチュアルにはまっていく人たちにも自己愛が肥大化した人が多いと思われます。現実の中に生きづらさを感じて、妄想の世界で安らごうということで、スピリチュアルにはまっている人たちは多いのではと思います。

 そして、ひかりの輪としては、多くの人が、できるだけ妄想を廃し、現実をありのままに見ることができる方向にお役にたてればと思います。

 特に、ものの受け取り方、認識の仕方には、気づかないうちに「妄想」が入り込みやすく、それによって日常生活で苦しんでいる方が多い、と思われます。特に、うつ、落ち込みやすい人や不安が多い人には、そういう人が多く、「妄想」とはいえ、本人が思い込んでいる場合は、なかなか妄想とは認識できません。

 このあたりのことは、今後の私たちの活動の中で、お役にたてるものを提供していきたいと思っています。