●付録1.「自己愛」と「影」の関係

 どんな人でも「自己愛」はあるのですが、それが強くなりすぎる場合、問題が生じます。
人間には、自分のいいところばかり見て、自分に苦しみを感じさせたり、みじめな思いをさせるものは見たくないという心理があります。この傾向は、自己愛が強い人ほど強くなります。

 自己愛の強い人は、自分の妄想世界で生きることが多く、現実の自分の嫌な部分を見ないように防衛機制が過度に肥大しています。「自己愛幻想」に浸って、苦痛な現実との出合いを回避します。つまり、「影」を形成しやすいということです。影を形成しやすいということは、嫌な部分、悪い部分は他人に投影して、「他人のせいにする」ということです。

 この総括においては、「影の投影」の危険性を述べていますから、おわかりと思いますが、現代人が影を形成しやすいということは、危険なことなのです。現代の日本社会が、「幻想的自己愛型社会」になっていて、醜いもの、汚いもの、苦痛なこと、悲しいこと、恐ろしいことなど、負の世界を隔離、排除している社会です。

 死、病、老いを施設の中に隔離している事実がそれを顕著に表しています。きれいな自分を意識できるところで暮らしていきたいという社会です。これは、危険です。

 実際、危険な事件が発生しています。今もまだ、ときおり続いています。それは、路上生活者に対する蔑視や殺害です。「魔女狩り」ならぬ「浮浪者狩り」です。

 1982年~83年にかけて起こった横浜での浮浪者襲撃殺人事件が世間に騒がれた最初の事件でした(小此木啓吾氏の『自己愛人間』が出版されたのが1981年です。小此木氏の社会に対する洞察は鋭かったといえます)。

 中学生を含む少年グループによる事件でした。汚いもの、臭いものに対する嫌悪です。この事件の少し前から、横浜市では行政をあげて街の美化作りを促進していました。これは、汚いもの・こと=悪だという論理です。「汚いものを排除する」という動きは、子供たちに影響を与えていました。

 「きれいなことはいいことだ」。一見これは、当たり前でまともに聞こえますが、行き過ぎて「排除の理論」になってしまう可能性があります。この一例からも、自分の中の暗部を見つめていくことの重要性を訴えることはとても大切なことだとわかると思います。

 先進国に生きる私たちにとって、途上国の飢えや貧困に目を向けるのは嫌なことです。自分たちの繁栄は途上国の犠牲の上に成り立っていることを認識しなければならないからです。

 ですから、見ないように覆い隠して自分の生活を楽しんでいます。しかし、先ほどから何度も言っているように、それは危険なことです。いつか必ず私たちは自分たちの暗部を見ないことによる「しっぺ返し」を食らうことになるからです。「影」の反撃です。

 自分の今の境遇を他のせいにする人たちが増えています(自己愛社会)。そして、それが積もり積もって、誰も彼もが自分をおとしめる、という被害妄想を抱いてしまったら、それに対する「反撃」をします。

 それは、その人の反撃ではありません。表面はその人が周囲に反撃しているのですが、本当の反撃者は「影」です。「影」に反撃されているのはその当人です。それは、当人の破滅でしかありません。最近の秋葉原の事件など、まさにそうでしょう。悲しいことです。

 話が、総括からそれてしまいましたが、これはとても重要なことです。このようなユング心理学の「影の理論」から自分を知ることを通して、悟りに向かう仏教の教えにまで発展させ、現代社会や現代人の問題を解き明かし、解決の糸口を見つけていくことを今後はやっていきたいと思っています。

 それが、オウムに所属していた自分たちの贖罪のひとつの方法だと思っています。総括は、その手始めです。


●付録2.「現代人の宗教性」――河合隼雄氏の視点

 前にも引用しましたが、河合隼雄氏はその著作集の中で、

「東洋の宗教や哲学においては、「真の自己」という考え方がある。これは私流に言えば、日常意識ではなく、深層意識によって把握された自分ということになろうが、それを到達可能な一点として理解し、それを完成した個人の存在を安易に設定すると問題が生じてくるように思う。それが到達可能と思うことによって、それに至る「段階」が考えられ、それが日常意識と結びつくと、宗教的世界にまったく日常的な階級が出現してきたりする、あるいは、極めて強力な「最高位」の人間が出てきたりもする。
ここで問題をますます難しくするのは、その「最高位」の人は絶対に正しいということになり、議論が不可能となる点にある。中心としての「自己』イメージを実存する人間や組織に投影すると、人間は「文句なし」に何かに盲従してしまうことになる。日本人は戦争中にそのようなことを経験したにもかかわらず、現在でもまだまだその傾向を保持しているのではないだろうか。」

(『河合隼雄著作集 (11)』岩波書店、1994、「現代人の宗教性」)

 と書いています。

 これは、まるで、オウムのことを言っているようですが、出版は1994年です。地下鉄サリン事件より前です。

 この文章の前では、1980年代、日本においてもトランスパーソナル心理学が入ってきたことに対して、「うさんくささ」を感じていること。それは、例えば、ユングのいう共時性をオカルト的思考で解釈してしまう人たちもいるということに対して、「宗教と科学」という観点から危惧を感じていて、トランスパーソナル心理学についても慎重に対処する必要性を書いています。トランスパーソナル心理学にも価値を認めているからむげに否定していない。そういう文脈の中での上記の記述です。

 それが、オウムにも、大日本帝国にも当てはまるのです。『現代人の宗教性』と題して書かれた文章なので、今の「スピリチュアル・ブーム」にも十分当てはまると思います。

 私たちの中の何が、大日本帝国を生み、オウムを生み、また、「スピリチュアル・ブーム」を生み出しているのか? そして、その危険性を探っていかなければいけないと思います。

 今回、このような総括を行いましたが、さらに、歴史、文化、日本人の特性、現代社会の分析をふまえたうえで、(社会)心理学的観点から考察していくことをしなければならないと考えています。


●付録3. 参考書籍『麻原彰晃の誕生』からの抜粋


 高山文彦『麻原彰晃の誕生』(文藝春秋、2006)

■p.16
「この写真を見ていただければ、智津夫君がどんな子だったか、そしてどんな環境に育ったのかわかっていただけると思って。いまさらこんなことを言っても仕方のないことですけど、智津夫君のさびしさをわかってやることができていたらと思うんです」

■p.19
まだテレビ放送が白黒しかなかった時代、智津夫が好んで見たのは「エイトマン」や「あんみつ姫」だった。兄たちがチャンネルを変えようとしても、智津夫はチャンネルを握ったままけっして変えさせようとしなかった。

■p.21
智津夫は生まれながらに、左目がほとんど見えなかった。右目は1.0近くの視力があったが、先天性緑内障と視野狭窄症の兆候が認められた。
(中略)
麻原被告はまた、幼いころから自尊心が高く、自分がすでに習得していることを改めて学校で習わされると、露骨にいやがった。
(中略)
父親や長兄たちは、麻原被告に、読み書きや算数など生活に必要な教育はすでに授けてあった。
少年時代の麻原被告は、ほかの子供より早熟で、特に算数などの能力は、珠算1級の長兄の目から見ても、ずば抜けたものがあったという。
「とにかく頭は子供の頃からよかった。簡単な足し算くらいなら3歳ごろからできたし、もの覚えも早かった。」

■p.22
智津夫より十一歳年上の長兄と父親は、家のすぐ近くにある金剛小学校に行かせようと考えていた。運動能力もふつうの子供以上に発達しているし、盲学校に入学させるつもりはなかった。
1961年4月、智津夫は金剛小学校に入学した。それが熊本県立盲学校へと転校することになったのは、智津夫の将来を案じた長兄が、いやがる智津夫をねじ伏せて連れていったからだという。長兄もこのとき、盲学校に通っていたのだ。

■p.23
国からは就学奨励金という補助があたえられ、貧しい家庭には寄宿舎での食費は免除される。両親も長兄も、それが自分たちの家に適用されることを知っていた。
幼い智津夫は、父親や長兄から盲学校へ行こうと告げられたとき、
「いやだ、いやだ。いまの学校に行く」
と泣き叫んだ。
智津夫と同じ目の病をもつ長兄の両目は、成長するにつれて見えなくなってゆき、やがて全盲になった。智津夫もゆくゆくは自分と同じようになると考えた兄は、将来の生計のためにせめて鍼灸の技術を身につけさせようと考えたのである。
けれども智津夫から見たとき、盲学校への転校の事情はかなりちがってくる。のちに「彰晃」という名をさずけてもらうことになる社団法人「社会総合解析協会」会長の西山祥雲に、27歳の智津夫は赤裸々にそのころのことを打ち明けている。

■p.24
「その子が泣いて帰って、親を連れてきたんです。親父はその子と親のいるまえで、私をぶん殴りましたよ。人まえで殴られたことが、悔しくてたまりませんでした。おふくろは、恥ずかしくてもう表を歩けん、と叫ぶし、親父は親父で、こいつ捨ててしまおうか、いや捨てるわけにはいかんだろうからどっかにあずけようか、と怒鳴っていました。兄は私より、もっと目が悪いんです。兄が盲学校に行くのはわかります。どうして目の見える私を盲学校にいれなきゃならないんですか。私は親に捨てられたんですよ」
親への恨みつらみを述べたてながら、最後には涙を浮かべていた。
幼児期に刻印された傷は、大人になっても消えるどころか増幅されていったようだ。自分のしでかしたことについては蓋をしたまま、傷つけられた悔しさばかりが智津夫の胸を蝕んでいる。
智津夫が西山祥雲に話したことは、それだけではない。
「スイカなんか盗んでいないのに、親父は私をスイカ泥棒だと決めつけたことがありました。おまえがやったんだと言われて、こてんぱんに殴られたあげく、もうおまえはこの家には置いとけん、どこかにあずけるしかないと言われたんです。そうやって私を家から追い出す理由を、親父はつくっていったんですよ」
智津夫の話の内容が事実なのかどうか、そのまま信じるわけにはいかないが、ひとつだけはっきり言えることは、幼くして親に捨てられたという意識を強く懐いたということである。

■p.28
休みの日になると遠方から親たちがやって来て、寄宿舎生活をしているわが子を抱きかかえるようにして家に連れて帰り、愛情を降りそそいだ。季節の変わりめには、新しい服を買って届けに来た。
「そんななかで智津夫君のところだけは、休みの日になっても両親が迎えに来るようなことはありませんでした。智津夫君は休みの日には、たったひとり寄宿舎にとりのこされるわけです。ほかの同級生たちは親が服を買ってきてくれるのに、智津夫君にはそれもありませんでした。私たちが上級生の親御さんに了解を得たうえで、おさがりをもらって着させていたんです。」
当時、智津夫の担任をつとめた元教師は、そう語る。
智津夫には規定どおりに就学奨励金が下り、寄宿舎の食費も免除された。智津夫の両親はその就学奨励金を、家のほうに送ってほしいと学校側に頼んできた。
「これは子供さんの将来のために貯えておくお金なんですよ」
学校側はそう言って断わった。
智津夫の親は、就学奨励金を自分たちの生活費の一部に充てようとしたのである。六歳の智津夫は、いわば口減らしのために、この盲学校に出されたのではなかったのか。
このことについては、のちに智津夫自身も、
「私の親は、国から下りる就学奨励金を自分たちのために使おうと、私からかすめとったんですよ」
と西山祥雲に打ち明けている。
「かすめとった」というのは事実ではないようだが、親にたいする智津夫の思いは、それほどまでにねじくれていたということだ。

■p.32
ただひとり、慕うというよりも、親代わりのような立場で彼の上に君臨していたのは、専攻科にいる長兄である。智津夫は長兄には絶対服従で、言うことはすべて聞いた。
「智津夫、智津夫」
全盲の長兄はたびたび弟を呼びつけては、手を引かせ、街に連れ出させた。目の見えない長兄にとって、智津夫は使い勝手のいい存在だった。自分の手足のように智津夫を使った。
「長兄はしょっちゅう喧嘩をしたり、煙草を吸ったりして、謹慎処分をくらっとんたんです。智津夫のことでは一度もなかったけど、この兄貴のことでは何度か八代の実家まで行きました。」
と当時、生活指導にあたっていた元教師は複雑な表情で語る。ふたりを知る別の元教師も、
「気性のはげしさは、智津夫以上でした。目の見えている生徒にも、しゃにむに喧嘩を挑んでいった。大言壮語の癖があって、どうやったら金が儲かるかという話をよくしていました」
と話す。

■p.33
「盲学校の生徒には、大なり小なり社会にたいする憤りや、被害者意識、劣等感があるんです。しかし、ふつうの生徒はそんなことなど口に出さずに、社会に協力していこうという気持ちをもっていた。ところが、智津夫には、それがないんです。自分のために、まわりを利用しようという意識ばかりがあった。社会の常識は、自分の敵だと思うとった。そして長兄にくらべて智津夫には、人の上に立ちたいという名誉欲が人一倍強くありました」
同様の話は、複数の元教師や現職の教師からも聞いた。

■p.39
人徳がない。十歳のとき、身に沁みてそう思ったはずの智津夫は、どうしてそれから地道な努力を積み重ねていこうとしなかったのか。
盲学校という閉ざされた世界のなかの智津夫の悲しみは、「目が見える」ということだったのではないか。
別の見方をするなら、生徒たちが智津夫に支配されつづけたのは、暴力や論理によるものだけでなく、目が見えないということが大きな原因となっていた。
生徒たちは成長していくうちに、閉ざされた寄宿舎生活からのいっときの開放感と好奇心を満たすために、街へくりだしていこうと思うようになる。そのとき彼らは、目の見える智津夫に頼るしか手立てがない。
見返りとして彼らは、智津夫に食事をごちそうした。やがてそれは慣例となって、智津夫は彼らを引き連れて熊本の繁華街に出かけてゆき、それ以上のことを強いるようになった。
窃盗である。これを盗め、と命令して、盗みをさせるのだ。
それでも屈強な智津夫は、街なかを歩く彼らにとって、不安をとりのぞく大切な支えであった。智津夫にとってそんな彼らは、いつでも容易に服従させることのできる存在であった。地道な努力をするより、網を打てば一瞬にして帝国が生まれた。
オウム真理教をつくってからは、智津夫は自分のハンディキャップを逆に利用した。とりわけ後期の信者たちの多くは、
「尊師は目が見えなくても、超能力で見えている」
と真面目に信じていた。

■p.43
「智津夫は高等部に上がったころから、やることが狡猾に、陰湿になっていったんです。
われわれの目の届かないところでね。そして発覚したら、居直りを決めこむ。担任ではどうにもならんときは、生活指導の教師や古手の私などが面接室に連れていくわけです。そうすると、さっきの勢いはなんだったのかと思うほど、卑屈な態度に変わるんですね。もう言わんでください、と懇願するようになる。さらに突っ込まれると、最後は泣くんです。激しやすい反面、非常にもろいところがあった。しかし、実際には、まったくこちらの気持ちは届いていないんです。反省するということがない。智津夫にあるのは自我だけです。自我に敵対するものは徹底的に排除するかわり、自我のなかに無条件に飛びこんでくるものは、自分のほうから受けいれていったんじゃないでしょうか」

■p.45
「先生、おれは熊大の医学部を受験する。将来は医者になる」
智津夫がそう言いだしたのは選挙に落選してからである。担任教師はおどろいたが、智津夫が学校中に吹きまくっていることを知って、またはじまったか、と言葉を失った。智津夫の成績は盲学校のなかで良くもなく悪くもない程度で、どう考えても熊本大学医学部に合格するような学力などもちあわせていなかった。
医学部受験の話を聞かされたところで、担任やほかの教師は、
「そりゃ医学部を受けるなら、勉強せにゃいかんたい」
と言うだけで、だれも取り合おうとしない。彼らは、智津夫がそのようなことをふれまわるのは、ただの見栄にすぎないと思っていた。

■p.48
智津夫は卒業をひかえて、自分の進路についてもふれまわった。
「東大法学部を受験するために、東京の予備校へ行く」
熊大医学部よりもさらに難関の東大法学部に、グレードを上げたのだ。そして何人かの生徒に、
「おれは東大法学部を出て、政治家になってみせる。ゆくゆくは総理大臣になってやるけんな」
と吠えた。
 (中略)
「ながい教師生活のなかで、智津夫よりも行動面ではすごい連中は何人もいましたよ。指導していくと、こちらの気持ちが確実に伝わっているという実感がありました。しかし、智津夫にはそれがないんです。」

■p.55
押さえつけられていたものが爆発したのか、八代の実家にもどって2ヶ月後の1976年7月20日、智津夫は傷害事件を引き起こしている。かつて長兄が雇っていた従業員が、智津夫の目のまえで兄を侮辱したのに怒り、頭部を殴りつけ、怪我を負わせたのだ。智津夫は逮捕され、9月6日、八代簡易裁判所で、15000円の罰金判決を受けた。

■p.57
「Aさんが東京に来るときには、羽田まで迎えに行ったもんです。じつの親以上に私の親だと思っている人です」
Aは糖尿病を得て、ながい入院生活を強いられていた。智津夫は見舞いに行き、枕もとで涙を流した。
「おまえ、これからどうするんだ」
とAに問われた智津夫は、
「政治家になります」
と洟をすすりあげながらこたえたという。

■p.73
 智津夫は、しかし、墓穴を掘った。1980年7月、知り合いの医師から白紙の処方箋を手にいれておこなった保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を求められたのである。

■p.87
「松本智津夫は、健常者とおなじようには生きていけなかった。上昇志向があっても、ふつうのことをしていては上にはあがれない。そして、なにかはじめると、かならず権威や権力というものが立ちはだかってくる。そうすると彼はいままでやってきたことをやめ、そこに別のものをつなぎあわせて、独自の新しいものをつくろうとする。そんななかで、どうすれば人が動くかもわかってくる。金はそのための手段として重要なものだったわけです。人を見るとき、この人物は自分より上か下かという考え方をする。嗅ぎわけるんですね。上だと判断した人物にはすがろうとする。そして、自分のエキスになる話だけを記憶していくんですね。血も涙も流したことのない人間には、あんたらにわかってたまるかという敵意のようなものを懐いている。ですから、薬事法違反がどうやっても回避できないことを知ると、彼は私にすがってきたわけです」

■p.102
智津夫の態度が豹変したのは、西山があるマジックをして見せたときである。食卓にあった箸を右手にとり、ぎゅっと絞るようにすると、手のなかから砂がこぼれ落ちてきた。
「どうやったんですか」
智津夫は西山の手のひらや袖口、懐などを探しまわった。どこにも砂を仕込んだ形跡はない。
「西山先生は日本人ですか。人間ですか。それとも、宇宙人ですか。それをやれば、ほんとうの神様だと思って、みんな飛びついてきますよ。先生、私にも教えてくださいよ」
「いまの君に教えたら、えらいことになる。これは単なるマジックだよ。それを宗教に利用しようというなら、君と私の考えは合わない。ここから出ていってくれ」
ところが、それ以来、智津夫はいままで以上に熱心に通ってくるようになった。ことあるたびに、マジックを教えてほしいとせがんでくる。

■p.103
 なにをめざしているのだという西山の問いに、政治家になろうと思っています、と悠然とこたえる智津夫だった。
「政治家になるといったって、君はいくら金をもってるんだ」
「そうですねぇ......家には5、60万しかありません」
金もなければ力もない。君には政治家は無理だよ。金がなくてもなれるのは、宗教家だよ。悩みがあったり、どうにもならない気の弱い人間ばっかりが宗教には集まってくるんだから、そいつらを魚釣りのように釣ればいいじゃないか。君が政治家になるということは、川で鯨を釣るに等しい。君のような人間は、弱い人間を相手にしたほうがいい」
そのとき智津夫の目が光ったように見えた。鞄からとりだした大学ノートに、西山の言葉をメモしていった。目が不自由だからだろうか、西山がノートをとりあげて見ると、ミミズの這ったような大きな文字がならび、ところどころ文字の上に新しい文字が重なっている。

■p.106
 智津夫は泣きだした。その姿を見て、怒る気持ちも失せた。
最後のはなむけに、西山はアドルフ・ヒトラーのナチス党がどのようにして台頭していったのかを教えた。さらに詭弁術を身につけろ、と教えた。
「たとえば政治家が公約をいつまでたっても遂行できず、国会で追及を受けるとする。そのとき、どうするか。政治家は、この件は将来の国家のため大事なことだから軽率に結論は出せない、と答弁する。そうなると、質問したほうが軽率だということになってくる。
詭弁術とは、そういうもんだよ」
智津夫は大学ノートにメモしていった。
西山は最後に、念を押すように訊いた。
「彰晃という名前でいいのか」
「ありがたいです。私には親はないと思ってますし、智津夫という名前も親からつけてもらったとは思ってません。彰晃という名前を、一生もっていきます」
「そこまで決心してるんだったら、その名前をあの世までもっていけ。そのかわり、もうここへ来るのはよせ。おまえはふつうの男じゃない。考えがちがうんだよ」
「どこがでしょうか」
「考えがちがうと言ったら、ちがうんだよ。今後いっさい、おれのところに弟子入りしていたなどと口外するなよ。ひとことでもしゃべったときには、おまえはおシャカになるぞ。絶対に承知せんぞ。そのことだけは、ようくおぼえておけ」
 智津夫はふたたび泣きだしていた。親指を内側へいれて握りしめた両手の拳が、ぶるぶるとふるえている。そして嗚咽を引き裂くように声を絞りだして言った。
「私は矛盾のなかで生まれ、矛盾のなかで育ってきたような男です。これからも私は、矛盾という雲の上を、矛盾という橇で滑っていくしかないと思っています。私はどうなってもいい。まちがっているかもしれませんが、それでも私はいいです」

■p.108
その後、一度だけ電話がかかってきたことがある。
「先生、智津夫ですけど」
松本と言わずに、智津夫と言う馴れなれしさに、何も変わっていないな、と西山は思った。
「渋谷に宗教団体をつくりました」
智津夫はそれだけ言うと、電話を切った。
はじめ智津夫が渋谷区桜丘のマンション5階につくったのは、「鳳凰慶林館」という学習塾で、西山のもとを去って数ヶ月のちの1983年夏のことである。9月生募集のチラシがある。
〈君の成績がグングン伸びる!! /驚異の能力開発法〉
〈着実な成果 東大合格〉
まだ実績もあげていないのに、あいかわらず誇大な見出しが躍っている。
注目すべきは、指導内容だ。
〈サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック理論・東洋医学理論・ヨーガ理論・仙道理論・漢方理論を応用した食療法(これらを統合した能力開発指導を行います)〉
なんのことはない、智津夫がはじめたのは、学習塾というより、これまで培ってきた修行の成果をほどこす道場なのだ。
そして主宰者である智津夫はこのチラシのなかで、はじめて自分の名前を「麻原彰晃」として掲げている。

■p.126
折しもこの時期、日本はオカルトブームの全盛期を迎えていた。その中でも『ムー』と『トワイライトゾーン』の2誌は、若者向けの2大メディアであった。当時、オカルト雑誌で多くの自称超能力者たちに取材し、記事を書いていたフリーランスライターは、つぎのようにふり返る。
「当時のオカルト雑誌の読者の多くは、お金を汚いものとみなす人びとや、なにかを馬鹿にしたい人びと、あるいは、ちょっとした〝拾い物〟があるとすぐ飛びつく人びとだったと言うことができます。拾い物......超科学や神秘の匂いがするものは、やがて彼らのなかで"宇宙の神秘を解く鍵""ものすごい真実"に変化するんですね。そしてこの拾い物を見つけた彼らは、その行法を実践し、超能力開発グッズを買っては試し、さらにはいろいろな宗教に浸かっては出る宗教マニアや、能力開発セミナーマニアになっていくんです。でも、たいていはすぐに飽きてしまう。なぜなら、それによって幸運がころがりこんだり、病気が治ったりはけっしてしないからです。そして彼らは別の拾い物がないかと、オカルト雑誌をめくるわけです。私はそんな彼らに、いまの時代に似合わないほどの生真面目さや几帳面さを感じていました。純粋で従順、でも地に足がついていない。彼らはなにかが足りず、なにかを求め、そしてなにかを失い、自分の中になにかをつくれないでいた」


<参考文献>
(順不同)

河合隼雄『影の現象学』思索社、1976
芝健介『ホロコースト』中公新書、2008
大澤武雄『ヒトラーとユダヤ人』講談社現代新書、1995
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951
川尻徹『滅亡のシナリオ』クレスト選書、1995
井上静『アニメジェネレーション』社会批評社、2004
伊丹万作『新装版 伊丹万作全集1』筑摩書房、1973
保阪正康『敗戦前後の日本人』朝日文庫、1989
岡田尊司『誇大自己症候群』ちくま新書、2005
小此木啓吾『自己愛人間』ちくま学芸文庫、1992
高山文彦『麻原彰晃の誕生』文春新書、2006
武野俊弥『嘘を生きる人 妄想を生きる人』新曜社、2005
河合隼雄『河合隼雄著作集 (11)』岩波書店、1994
降幡賢一『オウム裁判と日本人』平凡社新書、2000