■ポワについて

 前回は、私たちの教団では、「グルを絶対と見る修行法」が、伝統的な密教の法則とは、違った形で行われている(行なわれてしまった)、というお話をしました。

 引き続き、もう少し、この密教の法則についてお話ししたいと思いますが、まずは、大聖者ナローパの教えです。

 これは、元ティローパ正悟師こと早川紀代秀氏が、その著書の中で書いていますが、ナローパは、「生き返らせることができる能力がなければ、人の生命を奪うことはしてはならない」と説いている、と言います。

 これと符合する話として、皆さんがご存じのミラレパの物語(ミラレパの生涯)の中では、死者が生き返る場面があります。

 もし、殺しても、生き返らせることができるならば、実質上は殺してはいないことになりますし、そのような力を持った聖者は、皆が神の化身であると認めるでしょうから、社会的にも問題が起こりませんから、これは非常に明解な教えだと思います。

 一方、生き返らせることができないのに、他の生命を奪えば、その直接の被害者に加えて、社会秩序が乱れ、犯罪が増大する結果を招くでしょう。

 この点に関して、教団では、元代表はポワをすることができるから、他の生命を奪っても良いのである、という考え方をしてきた人がいると思います。

 しかし、ポワとは、グルが、死んだ魂を高い世界に導くことであって、通常は、死んだ魂に対する導きです。

 ですから、グルがポワできるだけで、生き返らせることができないのに、他の生命を奪って良いという法則があるか、ということが問題です。
 
 人が殺されれば、殺された本人の他に、殺された人の遺族がひどく苦しみ、社会の秩序が乱れます。よって、当然、それを犯罪として処罰しなければ、社会には殺人とその被害者の苦しみが蔓延してしまう、というのが、人間社会の歴史から生まれた智恵であることは言うまでもありません。

 よって、そのグルがポワをできるかどうか、ということと、そのグルが生命を奪って良いかというのは別の問題だ、ということになります。

 そして、突き詰めれば、私たちは、グルはポワができる、と信じることはできますが、ポワができると知っているわけではありません。

 こうして、グルの指示で、人の生命を奪った場合は、被害者遺族の苦しみや社会秩序の乱れをもたらすと共に、殺された魂についても、私たちができることは、グルにポワされたと信じることだけで、私たちがポワを保証することはできません。

 こうして、ポワという教えがあっても、私たちが、グルの指示で、人の生命を奪ってよい、という理由はない、と考えるべきではないでしょうか。

 


■五仏の法則について
 
 次に、皆さんもご存じのように、一連の事件を肯定するように解釈された密教の法則として、ヴァジラヤーナ五仏の法則があります。

 これについても、伝統的密教の解釈は、旧教団と違った解釈がある、ということをお伝えしたいと思います。

 まず、以下は、ダイライ・ラマ法王の著作ですが、この中で、法王は、密教の経典の中には、「文字どおりに受けとめるべきではない教えがある」と説いています。そして、これに、五仏の法則が含まれるのです。

 また大乗仏教を含む、仏教のさまざまな哲学学派の多様な説明を全体的に考察するには、様々な経典が、それぞれ了義(直接に真理を説いている経典)なのか、未了義(さらに解釈を必要とする経典)なのか、区別することが必要だということも分かってきます。
 
 ある特定の経典に基づいて、この区別を行おうとするならば、めやすになるテキストそのものが了義かどうかを実際に判断するために、また別の聖典が必要になります。さらに、その妥当性を決定するために、別の経典がまた必要になります。このプロセスは無限に続くので、このやり方は、判断基準として、まったく不適当です。そのうえ、経典によって、了義と未了義を区別する方法が完全に逆になっている場合もあります。

 ですから、結局は、論理に基づいて、その経典が了義か未了義か、自分で判断しなくてはなりません。このように、大乗仏教においては、論理が聖典より大事なのです。

 ある特定の表現や経典が、未了義であるかどうかは、どのようにして決めればよいのでしょうか?未了義の経典には、様々なタイプがあります。たとえば、ある経典には、自分の親を殺さなくてはならないと書かれています。

 このような経典の言葉を、文字通り、額面通りに理解するわけにはいきません。さらなる解釈が必要です。この場合、親とは、汚された(有漏の)行いと執着のことです。それらの結果として、輪廻の中に再生する、それ故、そのような汚された行為と執着を断て、という意味なのです。

 同じような表現は、「秘密集会タントラ」のような密教経典の中にも見いだせます。そこでブッダは、「仏を殺せ、仏を殺せば、最高の悟りに到達できるだろう」と言っています。もちろん、このような教えを文字通りに受け取るわけにはいきません!
(ダライ・ラマ14世『宇宙のダルマ』1996,角川書店)

 こうして、経典の中には、文字どおりの意味ではなく、一種の比喩として解釈すべき法がある、としています。

 そして、法王は『ダライ・ラマの密教入門』の中で、いわゆる五仏の法則について、了義(直接に真理を説いている経典)と未了義(さらに解釈を必要とする経典)という視点から、その教えの本当の意味を提示しています(まず、最初に五仏の法則が、文字どおりに引用され、そして、その後にその本当の意味が述べられています)。

金剛の一族に属するものは殺生を行うべきである。
剣の一族に属するものは真実でない言葉を語るべきである。
宝珠の一族に属するものは他のものの財産を盗むべきである。
蓮華の一族に属するものは他のものの配偶者を盗むべきである。
宝輪の一族に属するものは酒と諸仏の明かり(五肉と五甘露)と
あらゆる良き対象によるべきである。
鉞の一族に属するものは、最低のカーストに属する女性の
最も汚い部分をあざけるべきではない。
あなたはこの身と富とを命あるもののために捧げるべきである。
あなたは自分本位にそれを持つべきでない。
ああ、良き一族に属する子よ。
勝者は、あなたはこれによって仏陀になるであろう。
そうでなければ無数の劫をへても仏陀にはなれないであろう。

 以上の誓いの言葉を「仮の意味」(未了義)と「本当の意味」(了義)の両面から説明する。
(中略)

 言葉の意味はそのままではないので、イニシエーションを受ける際に、師が以下のように説明します。

 前述の言葉は「仮の意味(未了義)と「本当の意味」(了義)の二とおりの仕方で解釈することができます。

 たとえば、「秘密集会タントラ」には、「もしあなたが仏(如来)を殺すなら、あなたは至高の技を得るに至るであろう」と説かれていますが、これはむろん字義どおり受け止めるべきものではありません。仏とはイニシエーションによって仏となった、あなたの体の三十六の構成要素を指しているのです。

 ここで誓いの言葉を検討してみましょう。

 金剛の一族に属するものとは阿しゅく仏一族を指しています。
「命を取るべきである」という言葉には二とおりの解釈ができます。「仮の意味」においては、阿しゅく仏の一族に属するものは「特定の状況下」つまり、他の手段ではどうにもならない場合において、教えに害をなしているもの、命あるものを憎むもの、忌まわしい悪行をまさになそうとしているものなどを慈悲に動かされて殺すことができる、ということを意味しています。

 またこの言葉の「本当の意味」においては、阿しゅく仏の一族に属するものは、大楽の礎となる自らの頭頂にある「白い悟りを目指す心」(白菩提心)を固定し、射精をもたらす「風」(生体エネルギー)の命を取るべきであることを意味しています。

 剣の一族とは、不空成就仏の一族を指しています。
「真実でない言葉を語るべきである」という言葉は、「仮の意味」においては、不空成就仏の一族に属するものは、命あるものの好みや性質にあわせたさまざまな教えを、仮の意味と本当の意味の両者によって語るべきであることを意味しています。ですから、価値ある教えのために、また命あるもののために、「現象は現れているような形では存在していない」という意味を伝えることができるのです。

 「本当の意味」では、これは不空成就物の一族に属するものは、われわれの全身に存在している「風」(生体エネルギー)を中央脈管に集めて、自らの心臓にある嘘の言葉の文字を語るべきであることを意味しています。

 この「真実でない言葉」は「秘密集会タントラ」においては以下のように解釈されています。真実においては、あらゆる現象は関係性の中にあり、その実体は空であるにもかかわらず、われわれは現象がそれ自身の性質によって存在すると思っています。つまり、われわれの「真実」から見ると仏教の「真実」は真実でないこととなります。つまり、仏教の真実を語ることを凡夫の目から見て「真実でない言葉を語るべきである」と表現しているのです。

 宝珠の一族とは、宝生仏一族に属するものを指しています。「他のものの財産を盗むべきである」とは、「仮の意味」では、吝嗇を煩悩とする宝生仏の一族は、特殊な状況の下で、命あるものを救済するために、他人の財産を盗むことを意味します。「本当の意味」においては、宝生仏の一族は自らの喉にある如意宝珠という名の不動の滴を盗むべきであることを意味しています。これも「秘密集会タントラ」に説かれていることですが、「仏陀の境地」とは与えられるのを待つものではなく、みずからに掴み取る(盗む)ものなのです。

 蓮華の一族とは、阿弥陀仏の一族を指しています。「他の者の配偶者を盗むべきである」とは、「仮の意味」では、ある命あるものがその配偶者にあまりにも執着がすぎ、そのために悪業を積んでいるときには、阿弥陀仏の一族は、その者を救うためにその配偶者を盗むことができる、ということを意味しています。つまり特定の状況下において、人を救うことになるのであれば、「他の者の配偶者を盗むべき」なのです。

 「本当の意味」では、阿弥陀仏の一族は不動の大楽を享受し、あらゆる面で至高の姿を備えている、自らの額にいる大印契女を盗むことを意味しています。「秘密集会タントラ」では、「現象にはその固有の実体が存在しないこと」(空性)を「配偶者」と呼びます。ですから、「他の者の配偶者を盗むべきである」という言葉の本当の意味は、「現象にはその固有の実体が存在しないこと」(空性)をつねに心に留めておくべきであると解釈されるのです。

 宝輪の一族とは毘盧遮那仏の一族を指しています。「酒と諸仏の明かりとあらゆる良き対象によるべきである」とは、「仮の意味」においては、毘盧遮那仏の一族はこれらのものを「いかなる執着を持つことなく」用いるべきであることを意味しています。

 「本当の意味」では毘盧遮那仏の一族は体内にわき起こる歓喜をもって、臍の所にあるあらゆる機能と構成元素のエッセンス、甘露を、射精を行わずに固定すべきことを意味しています。

 鉞の一族とは金剛さったの一族を指しています。「最低のカーストに属する女性の最も汚い部分をもあざけるべきではない」とは、「仮の意味」においては、五つの仏の一族の女を、たとえ低い出自の女であっても軽んじてはいけないということです。

 「本当の意味」においては、大楽の基礎となる「白い悟りを目指す心」(白菩提心)を射精を行うことなく固定しつつ、妃と抱き合うべきであることを意味しています。

 このようなあらゆる行いは慈悲と利他の精神(菩提心)に揺り動かされて、徳を積むためになさなければなりません。このことは後半の「あなたはこの身と富とを命あるもののために捧げるべきである。あなたは自分本位にそれを持つべきではない」という言葉によって示されています。
(ダライ・ラマ十四世 テンジン・ギャムツォ『ダライ・ラマの密教入門』1995,光文社 )

 

■文字通りに解釈する場合の様々な問題

 さて、五仏の法則が説かれている、カーラチャクラ・タントラには、旧教団が使った、ルドラチャクリンというシャンバラの王が中心となった、聖と邪の闘いの預言も含まれています。

 これは皆さんもよくご存じでしょう。これは、旧教団においても、ヨハネ黙示録と同様に、ヴァジラヤーナ路線において使われました。

 しかし、このカーラチャクラ・タントラという経典は、これは、イスラム教がインドに進入し、仏教が滅ぼされる時代に作られたものであり、実際にこの預言において、ルドラチャクリンが闘う相手は、イスラム教徒である、と解釈されています。

 これを考えると、武力で仏教が滅ぼされる、という時代においては、いかに不殺生を説く仏教であっても、イスラム教徒と戦うことが、現代的にいえば正当防衛であり自然なことだった、という解釈が成り立つと思います。

 しかし、そのような時代ではなく、自分たちを現実として滅ぼす軍事的な勢力がいない状況下において、同じ法則を当てはめるならば、これは大変なことになるのではないでしょうか。

 この点に関連することとして、繰り返しになりますが、旧教団では、事件は教団が関与しておらず、教団は弾圧されている、という陰謀論を主張しました。しかし、それは事実に反する、という現実を直視しなければなりません。私たちの教団は、仏教がイスラムに滅ぼされようとしていた状況とは違います。

 そして、仏教的な真理においては、この世界には、さまざまな煩悩を持った魂がいる、としていますが、この世界が、聖と邪、神と悪魔、善と悪、キリストと666の獣、という二つに分かれている、とは説きません。

 むしろ、その逆であり、すべては互いの心の現われであり、マーラとされる存在でさえ、自分たちの心の現れである、と考えるべきであり、それに対して嫌悪してはならない、嫌悪して排除しようとすればするほど、逆に消え去っていかない、という教えがあります。

 また、マーラは、煩悩があって苦しみがあるから、他に害をなすのであり、それは私たち自身の日常の行動においても、多かれ少なかれ同様だと思います。すなわち、マーラに対して慈悲を持たなければなりません。

 これを理解して、謙虚にならなければ、自分たち自身が、将来においてマーラになってしまうし、善悪二元論の過ちに陥って、悟りや解脱などは到底不可能になる、と思います。

 さて、文字どおりではない経典解釈の必要性は、前回お話ししましたが、グルイズムの解釈にも当てはまります。それは、弟子がエゴを弱める方便として、「グルを絶対とみる」という修行法があるということです。

 しかし、それが、グルが絶対であるという事実と取り違えられ、グルの絶対性とか、グルは絶対である、という言葉が教団で使われたのは、経典の言葉を文字通りに解釈してしまった結果ともいうことができると思います。

 それから、これに関連して、元代表に関して、元代表に懇願しなければ、元代表が死んでしまう、という主張についても、同様のことができます。

 例えば、釈迦牟尼の入滅の時の経典の中で、アーナンダが魔境に入って、釈迦が長く生きるように懇願しなかったために、入滅してしまった、という話は確かにありますが、これをもって、元代表のケースには当てはめることは間違っていると思います。

 まず、この話は、釈迦の教えのごく一部であって、仏教経典全体を研究してみると、釈迦は、自己を崇拝させたり、神格化させたりせず、法に帰依するように説いた、ということが通説です。

 その中で、信者に対して、「私(釈迦自身)の体も、老い病み死ぬ不浄なものであるが故にそれを拝むな」と説いている有名な一説もあります。

 よって、「(懇願されれば)一カルパ生きることができる」という話は、アーナンダの傲慢をいさめるための方便、と解釈することが合理的であり、謙虚であるべきことを学ぶ必要はありますが、この話を一連の事件を起こして死刑判決を受けている元代表と現在の教団に、そのまま当てはめて解釈することは、一部の経典を文字通りに解釈した結果の過ちの一つだと思います。

 さて、経典を文字通りに解釈する問題をかかえた過去の教団は沢山あります。その一つが、時々、オウムと似ていると言われたこともある、大本(教)の例です。

 大本の開祖である出口ナオに降りたご神託には、旧教団の世界観と非常に似たものがあり、その中には、「まもなくハルマゲドンが来る」とか、「大本だけが唯一の真理であり、大本以外は闇である」という言葉がありました。

 そして、開祖派の幹部信者は、それを神の言葉だと文字通り解釈して実践しようとしました。一方、有名な出口王仁三郎は、「ナオのお筆先は、現代社会を批判的に見たもので、それを文字どおりに解釈するならば、大本教は気違い集団だと思われる」と説きました。

 そのために、開祖派幹部の強い反発を買い、「悪霊がついた」とされて、長い間、教団内で排斥されましたが、その後、ナオのお筆先は現実的に再解釈され、大本教の大発展につながっていった、という史実があります。

 こうして、全ての経典を文字通りに解釈してはならない、という考えがあります。ケースバイケースで、熟考しなければならないのです。

 そして、一連の事件が起こり、元代表が逮捕され、今日に至った状況を考えるならば、私たちに求められていることは、正にこの実践だと思います。

 経典を文字通りに解釈するのではなく、先ほど紹介した、ダライ・ラマ法王が説いているように、「論理に基づいて、自分で判断しなければならない」と思います。

 


■事件後も帰依している本当の理由

 さて、前回は、自分の修行法のために、他の生命を犠牲にすること自体が、正に、自分のエゴの増大、傲慢の増大になる、と書きました。

 今回は、もう少し具体的に、事件に関与した人々の動機を検討してみましょう。

 それには、いろいろあると思いますが、裁判などを見れば、

(1)「元代表によく見られたい、教団での地位を得たい」という動機や、

(2)「元代表の指示に従うことが自分の帰依の修行と考えた」という動機や、

(3)「元代表の指示ならば生命を奪うことが救済になると考えた」という動機

があると思います。

 そして、この(1)の名誉欲・権力欲だけでなく、(2)と(3)にも、その背景には、エゴがあると考えることができます。

 そして、(2)の「自分の帰依の修行のために、他の人の生命を奪って良い」と考えることは、それ自体が、客観的に見れば、非常に自分勝手な行為であり、自分が特別であり、何か特権を有する、と錯覚している者たちの行為、ということができるでしょう。

 このような物考え方の背景には、「教団は預言されたキリストの集団である」という教えの影響があるかもしれません。

 しかし、ご存じの通り、預言は成就していません。そしてこれは、客観的に見れば、全く選民思想的な思考です。

 このような考え方で、何もかも自分たちについて、特別な行動を正当化するならば、それ自体が、傲慢のけがれを作るでしょう。ある集団が、預言を唱ええさえすれば、それが成就しなくても、何をしてもよい、ということになります。

 (3)の「元代表の指示ならば殺すことが魂の救済になる」という考えも、同じような心の働きがあると思います。

 それは、自分でも気づかないうちに、「自分が、何が救済になり、何がならないのかを判断できる完全な能力がある、と思いこんでいる」ということです。

 わかりやすく言い換えると、私たちには、「元代表が、完全で間違いがないかどうか」ということを判断できる能力があるでしょうか?

 ここでのポイントは、元代表の問題ではなくて、自分たちの能力の問題です。

 元代表を含めて、ある人が、絶対で完璧だ、と判断できるとすれば、そう判断できる人自身が、絶対で完璧でなければならないでしょう。

 絶対でも完璧でもない人(=私たち弟子)が、どうして他人(=元代表)を絶対・完璧である、と判断することや、そうだと知ることができるでしょうか。

 これは、事件が、旧教団の教義で一部説かれている、「多くの人と逆縁を作るという救済であった」と考えて、反省せずに肯定する場合も、全く同じだと思います。

 かつては、私もそのように考えて、皆にその話を熱心にしたことさえありました。

 しかし、「逆縁の救済とは、一体何であり、なぜ事件が逆縁の救済になるのか」ということについて、私たちに判断する能力があるか、という問題があります。

 特に、逆縁の救済という考えについては、元代表自身が事件を逆縁の救済と考え行なった、という話はなく、弟子たちの解釈にすぎません。

 自分たち自身に厳しくなって、自分たちを客観的に見れば、私たちは、一定の神秘体験、瞑想体験をしていても、元代表を完璧、絶対と判断する能力があったわけでは全くありません。

 実際に、高弟の場合は、率直に言えば、元代表を全知全能とか、完璧だとは思っていない人がほとんどだと思います。

 身近で見れば、当然ですが、いかに秀でていた部分があったにしても、元代表は人間でした。

 もちろん、これだけの信者を集めるからには、類まれな超常的な力や、気配りの細やかさがあることは、私を含めた皆さんが経験したことです。

 しかし、元代表の推察が外れる場合も、高弟であればよく知っていますし、いや、何よりも、皆さん自身が、元代表の予言が成就しなかったことを知っています。

 逆に言えば、先ほどのナローパの教えのように、元代表が、サリン事件の被害者を全て生き返らせることができれば、すべての日本人は、元代表を信仰する可能性があるでしょう。この場合は、本当に、元代表は絶対である、神の完全な化身である、という客観的な証明になるでしょう。

 しかし、実際には、私たちには、そのような元代表の絶対性についての客観的な証明・証拠はありません。

 その意味で、A派の一部の人が、元代表の奇跡的な復活を願うことは、よくわかります。

 それは、客観的には、非現実的な希望でしょうが、それがかなうならば、元代表を信じた自分たちが正しかった、という証明になるからです。

 それは、事件以来ずっと、客観的には(社会には)否定されてきた、私たちの信仰が、初めて正しいと証明された瞬間になるからです。

 しかし、私たちが直視しなければならない現実は、「これまでの私たちには、そのような客観的な証明は一切なかった」という現実です。

 「そのような証明はなくても、そう信じたかった」という現実です。

 それによって、教団に全く納得がいかない社会は、教団に反感を抱き、教団に不安を感じ続けてきたということです。

 私たちは、元代表を完璧・絶対と知っていたのではなく、そう信じたかったし、そう信じたい。だから、ここまでこうしてやってきた。私はそう思います。

 


■信じることと、知っていることの違い

 そもそも、「信じる」というのは、「知っている」というのとは違います。

 「信じる」ということを突き詰めれば、「信じたいから信じる」という要素があると思います。

 これを誇張して言うならば、信仰とは、決して、完全に客観的で、科学的な判断ではなくて、人それぞれが、自分の個人的ないくらかの体験に基づいた、主観的なものなのではないでしょうか。

 あるグルが、自分個人には神聖な恩恵を与えるにしても、他の人には与えない場合もあります。

 日本社会で、旧教団に入会した人は、人口全体の一万分の一に過ぎず、今帰依しているとされている人は、さらにその何十分の一になりました。

 これは、帰依した人が正しく、帰依してなく、元代表や教団に反対している人が間違っているのでしょうか。

 そうではなく、これは、結局は、人それぞれの好き好きの問題であって、信仰というのは、個人の主観・好き好きの範疇から完全には脱却していないのではないでしょうか。

 そして、重要なことは、信仰とは、「個人の主観」「好きずき」「信じたいから信じる」という性質があるにもかかわらず、その中で、他の人を殺してもよいのでしょうか。
  
 自分の信仰を共有してさえいない人について、自分の信仰という好き好きのために殺してよいのでしょうか。

 弟子が、自分のエゴ=自分の好き好きを弱めることが、グルを絶対的に見る修行の目的ならば、グルが犯罪行為の指示をした時には、エゴを増大させないためにも、弟子は、それに応じてはならないのではないでしょうか。

 事件に関して、「グルには深いお考えがあって、弟子にはグルを判断できないから事件を反省しない」という人がいますが、これについても同様です。

 「弟子が無痴であるから、グルがなした事件の是非を判断できない」と主張するならば、そのような弟子は、グルが事件を指示した時に、それに従うことが正しいかどうかも判断できないはずです。

 自分が否定したくないときは、自分は判断できないという。自分が肯定したいときは、自分は判断できるという。これは矛盾であり、エゴではないでしょうか。

 


■信じたいから信じているのではないか

 こうして、私たちの考え方、思考パターンをよく観察すると、
 グルを絶対として、帰依しているのではなくて、
 突き詰めて言えば、
 「自分たちの判断=自分たち自身を絶対と信じている」のではないしょうか。

 そして、それを更に突き詰めれば、
 グルが絶対であるとか、自分たちが絶対である、
 と信じているということは、
 グルが絶対であるとか、自分たちの判断が絶対である、と知っているのではなく、
 「そう信じたい、そう信じたかった」という欲求が根底にある、
 ということではないでしょうか。

 この点について、よく考えてほしいと思います。

 これまでの教団は、表向きだけの謝罪をしてきました。私も長らくそうでした。

 しかし、密教の教義を深く理解し、事件や成就しない預言の現実を直視し、さらには、自分たちの心の働きをよく見つめるならばどうでしょうか。

 私は、自分自身を含めて、勇気を持って、率直に反省しなければならないと思います。

 私や代表派では、一連の事件は、元代表にだけ責任があるのではないとしています。

 むしろ、元代表を完璧・絶対と位置づけて、元代表に依存して、犯罪行動までなした信者にも責任があり、その意味で、信者の心の現われである元代表という教祖であったとしています。

 そう考えることで、事件を無理に肯定したり、反省を回避したりはしません。

 同時に、自分と元代表を区別して、元代表に責任を押しつけて、元代表を恨むこともしません。

 愛著によって狂信するのではなく、同時に、嫌悪によって恨むのでもなく、自分たちの人生と修行における、大いなる試練として、この問題を真剣に受け止めたいと考えています。

 そして、そう考えて、なすべき反省をなし、自分たちの信仰を進化させようと考えています。

 それが、真の三宝の意思であり、本当の意味での仏教的な実践であると思います。

 さて、次回は、最後に出てきたポイント、すなわち、

 「私たちが、私たちのグルを絶対だと知らなかったにもかかわらず、絶対だと信じたかった理由とは何か」

 ないしは、

 「私たちが、私たち自身を正しいと信じたかった理由とは何か」

 について、お話ししたいと思います。

 それは、まず、第一に、自分自身についての分析が含まれています。私の弱さについての分析です。そして、皆さんのことです。

 では、メッセージの2回目は、この辺で筆を置くことにします。

 

 

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