(1)麻原のヴァジラヤーナ思想と犯罪の始まり

 


●教団創設以前からの麻原の武力肯定の思想

 

 違法行為や武力行使を正当化する麻原のヴァジラヤーナ思想の始まりは、世間一般に言われている90年に総選挙で敗北した後という見方よりも、実際にはずっと早い。

 

 まず、1985年の5月に、麻原は、精神世界系の月刊誌トワイライトゾーンの取材に対し、神から 『あなたに、アビラケツノミコトを任じます』という啓示を受け、それが、「神軍を率いる光の命」、「戦いの中心となる者」と判明したと語っている。さらに、自分を導くシヴァ神が、この使命を受けるべきだと語ったとしている。

 

 しかし、麻原の暴力主義的な思想の下地は、少年期に始まっている。少年時代に、麻原は、長兄に言われ、毛沢東の本を読み、毛沢東を尊敬するようになったという(参考:「麻原彰晃の誕生」)。これは恐らく事実であり、私にも、近代の人物では、毛沢東を最も尊敬していると明かし、「毛沢東は神に繋がる人物だ」と思うと言ったことがある。

 

 その毛沢東の実践した共産主義には、武力で理想の社会を作るという武力革命の思想があるが、麻原が毛沢東を尊敬した理由には、人格的なものというより、戦闘を経て中国の建国に成功した現代の王であることが強いと私は感じた。ただし、オウムが、繰り返すが、北朝鮮やロシアなど、共産圏や元共産圏の傀儡であったとか、彼らがオウムの破壊活動を支援する意図を持っていたということはない。

 

 次に、教団を起こす前から、ある精神科医が書いた「滅亡のシナリオ」という本を愛読したという。若い日の麻原は、その本を読んで、その本の主張を信じたようだ。具体的には、ヒトラーがノストラダムスの預言を信じ、ヒトラーやナチスのことが、その中で預言されていると信じ、その預言を成就させるために行動したこと、そして、その中で、戦争を含めた活動を行い、わざと負けたと考えるようになったのである。

 

 その後、これは後に述べるが、麻原自身が、自分がヨハネ黙示録やノストラダムスの預言の解釈を行い、それらの預言には、ヒトラー・ナチスよりも、麻原・オウムこそが、キリストの集団であると預言されており、最初は弾圧されるが、最終的には、武力によって、ナチスにも勝利し、世界の王となると預言されていると主張する。具体的には、その旨の著作を出版し、その預言の成就のために、教団を武装化し、ハルマゲドンを計画していく。

 

 なお、私自身が初めて聞いたヴァジラヤーナの話は、1987年である。私が出家する前後である。彼は、私に、「オウムの最後の敵は、フリーメーソンかもしれないね」とか、「自分は核ミサイルを発射するヴィジョンを見た」といったことを語った。

 

 又この1987年には、私自身は記憶がないが、既に、グルの指示で、死期にある人物を殺すならば、それは功徳になるといった主旨の説法があることが分かっている。

 

 とはいえ、この時点では、それと矛盾するもう一人の麻原がいた。すなわち、第三次世界大戦・ハルマゲドンを防ぐために、多くの成就者を作り、世界に布教すべきだと説いた麻原であり、私が出家した動機となったものだ。

 

 しかし、当時の私には、世界大戦を防ぐにしても、フリーメーソンなどと(武力で)戦うという話しにしても、どちらも、あたかもアニメのヒーローのように、修行をして解脱し、超能力を得て、仮に戦う場合であっても、それは正義のために(例えば、日本国家のために)悪の勢力と戦っていく、というイメージでしかなかった。

 

 すなわち、悲惨なテロ事件により犯罪集団と呼ばれるなどとは夢にも思わず、だからこそ、何ら疑問なく、出家したのだった。これは他の出家者も全く同じだったと思う。

 


●1988年:ヴァジラヤーナ説法の本格化

 

 そして、1988年の半ば頃から、麻原は、高弟に対して、ヴァジラヤーナの教義を説き始めた。その前に、麻原は、チベットの高僧であるカルリンポチェ師に出会い、インドのソナダで、チベット仏教のヴァジラヤーナの教えを聞いた。その中には、殺人を肯定する五仏の法則とグルへの強い帰依の話しが含まれていた。

 

 そして、そのカギュ派の始祖達に、グルの違法行為さえも実行する弟子の帰依の逸話があり、宗派の最高の教えがマハームドラーの教えとされていることは、前に述べたとおりである。

 

 麻原が、ヴァジラヤーナという仏教用語で、殺人などを肯定する思想を説き始めたのは、この時頃からであるから、チベットの高僧の教えを聞いて、それを自分の思想の正当化に利用したことが分かる。

 

「ここにヴァジラヤーナの優位性があるんだよ。(中略)優位とは何かというと、短い期間で同じ結果が得られると。(中略)タントラは、ヴァジラヤーナは、完璧な帰依が必要であると。」(例えば1988年8月5日)

「金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依をすると。そして、自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。」(10月2日)

 

 さらに、麻原は、自分を絶対的なグルと位置づけるとともに、タントラヴァジラヤーナでは、グルは一人に限られるとして、唯一のグルとしても位置づけていった。そして、それに合わせて、いったんは師事したカルリンポチェ師や、高く評価したダライ・ラマ法王などについて、自分よりも下の存在として位置づけていった。

 

 そして、この88年の10月末にはに、麻原の説法の中には、それまで強調していた通常の布教による世界の平和の実現(=世界戦争の回避)ではなく、悪い人類を滅ぼし、善い人類を残すという思想が出てきた(88年10月の説法)

 


●オウム真理教の犯罪の始まり

 

 私は一九九五年まで一切知らなかったが、この年の9月22日には、集中修行に参加していた在家信者の真島照之氏が死亡する事件があった。裁判の判決によると、麻原は、教団による救済活動が滞ることを恐れ,警察に連絡せずに、ドラム缶に遺体を入れて焼却した。

 

 そして、高弟だった早川紀代秀によれば、麻原は、その際に、「これは"ヴァジラヤーナへ入れ"というシヴァ神からの示唆だな、とつぶやいた」というので、この事件も、麻原が、ヴァジラヤーナを強調し始めるきっかけの一つになったのだろう。

 


●予言書の発刊

 

 その後、88年の年末に発刊された麻原の著書『滅亡の日』で、終末予言に基づくヴァジラヤーナ的な思想が明確になってきた。これは、キリスト教のヨハネ黙示録を麻原が独自に解釈したものである。

 

 その概要は、現代社会は様々な悪業を積んでおり、その結果、世紀末にハルマゲドンが起こるが、麻原こそが、その際に現れると予言されているキリスト・救世主で、麻原に帰依する善業多き人々は、最初は悪業多き人々に弾圧されるが、最終的には、悪に勝利して、真理の世界を作るというものだ。

 

 著作の中で、麻原は、ヨハネ黙示録の「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治める...」という一節を解釈して、「これが武力で支配することだ...」、「力で良い世界をつくる。これこそ、タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。」と述べて、麻原自身が、武力で世界を統治することを暗示している。

 


●ヴァジラヤーナ:麻原の予言を成就する秘密の違法活動の総称

 

 そして、ヴァジラヤーナの教えと予言に基づき、オウムは、「ヴァジラヤーナ」と呼ぶ秘密の違法活動を行っていくことになる。ヴァジラヤーナとは、日本語では金剛乗と訳され、仏教の教えの一部だが、教団では、その教えに基づく秘密の違法活動を意味する。

 

 より具体的には、麻原が考える予言の成就による救済のために、犯罪や戦争に相当する行為を行なう活動の総称である。その最終目標は、麻原が説いた予言に従って、世紀末にハルマゲドンが起こる中で、悪業多き魂達に弾圧されていた者が、キリストとして登場し、その聖徒達(弟子達)と共に、悪業多き魂達との戦いに勝利して、それを滅ぼし、キリストと聖徒達という善業多き魂による真理の世界(キリスト千年王国)を作ることであり、そのために、教団が独自の軍事力を形成し、その予言を自らの力で実現(自作自演)することである。

 

 よって、これは、犯罪・テロというよりは、国家権力を奪取する武力革命を含むが、政権を取るためだけの戦闘ではなく、人類の大半が滅びるハルマゲドンを起こし、悪い人類(悪業多き魂)を一掃し、キリストに従う良い人類(善業多き魂)のみで、真理の世界を作るとする点で、麻原の表現を借りれば、言わば、人類の種を入れ替えるものだった。その意味で、奇しくもサリン事件の95年に放映が開始されたアニメの「エヴァンゲリオン」と似て、言わば「人類改造計画」とも言うべき誇大妄想的な構想である。

 

 まさにアニメのように妄想的な話のために、麻原が本気かどうかを疑う者も当然いたが、しかし、麻原自身は、常にそのように語り、私が知る限り、本気ではないと言ったことは一切無い。そして、現実としては、95年に教団が破綻するまでに、サリンやVX等の毒ガスの製造を実現し、その散布により、数千人を殺傷する地下鉄サリン事件を含めた複数の殺人事件を起こすに至った。

 


●89年初頭の大師会合の将来構想

 

 そして、この88年の年末から89年の年初頃に、高弟たちの会合(大師会合)、ヴァジラヤーナ活動が今後の教団の計画として、初めて話し合わた。その中で、教団の軍事力の形成のため、科学部門に、300人くらいの科学者を集めようという話や、村井秀夫が、「私の役割は(衆生を)ポワだと思います」と言い、自分がヴァジラヤーナ活動を率先する意思を現した。

 

 ここで、ポワという言葉は、チベット密教では、死後に(自己の意識を)高い世界への移し変える(高い世界に転生する)瞑想を意味するが、それから転じて、オウム真理教は、他者を殺害し、その魂を高い世界に生まれ変わらせることを意味し、ヴァジラヤーナ活動に従事する者達には、殺害行為の隠語になっていった。

 

 ただ、この会議での印象は、教団が、サリン事件のように、一方的にいきなり無数の人を殺傷する軍事的な行動に出るというイメージは全くなく、あくまで正義のための戦いだった。弟子達の中には、麻原の預言の通り、弾圧=攻撃されるから、戦う=反撃・防衛する(しなければならない)というイメージを持つ者が多かったと思う。当時は、サリンなど、兵器を製造すること自体は、犯罪ではない状況もあった。

 


●1989年2月:オウム最初の殺人事件

 

 1989年には、その2月10日に、田口事件(殺人事件)が起きるが、私自身は、これを95年になるまで知らなかった。

 

 裁判の判決によると、田口氏は、真島氏の遺体焼却に関与していたが、脱会を希望するようになり、「脱会させないなら、麻原を殺す」と言い出し、麻原は、田口氏が脱会し、真島の事件を表沙汰にすれば、教団の維持や宗教法人化の障害になると考え、早川、村井、岡崎、新實らの弟子に命じ、脱会を思いとどまらないならば、殺害するように指示し、その結果、首を絞められて死亡した。

 

 なお、ちょうど、この2月頃、私が、麻原から聞いたこととして、「警視庁が教団を警戒している」という情報があったという。早川が収集した情報というが、真偽は分からない。ただし、情報源は、95年の警察庁長官狙撃事件で、一時は自白して逮捕された警視庁の小杉元巡査かもしれない。この当時からオウム真理教の信者であった。

 

 この情報を得た麻原は、やっぱりそうかと、自分の預言の通り、弾圧が開始されたと解釈した様子だった。私も、今まで縁の無かった警視庁という言葉を初めて聞いて驚き、弾圧ではないかと感じた。

 

 しかし、今の時点で落ち着いて考えてみれば、当時の教団は、注意深く読めば、危険な内容を含む預言の本を出しており、警戒されてもおかしくない。また、当局は、徐々に増大する出家者と家族のトラブルを懸念し始めていたのかもしれない。

 

 しかし、当時の私は、教団のヴァジラヤーナ計画は外部に知られるはずはなく、預言の本は単なる宗教本であり、出家者に関するトラブルは当時は大きな問題になっておらず、真島氏・田口氏の事件も知らなかった。こうして、自分の教団を客観視していなかった私は、国家権力による教団の弾圧という麻原の見方に、徐々に影響を受けていったと思う。

 

 その後、教団は、3月には、東京都に宗教法人の認証申請をしたが、東京都が、出家した信者の家族の苦情・トラブルを理由に、認証を渋る事態が発生した。それに対して、麻原は、青山吉伸を含めた信者の弁護士三名を含めた大勢の信者と共に、東京都に抗議に行って、認証しなければ法的措置を取ると主張し、認証を延期する法的な根拠が見つからず苦慮した東京都は、8月29日に、宗教法人の認証を出した。

 


(2)選挙出馬と坂本弁護士事件

 


●サマディ実験と広報活動の開始

 

 なお、この前後、麻原は、自らの解脱の証明として、「水中サマディ」を行うと宣言した。水中サマディとは、水中に潜って、サマディという深い瞑想状態に入り、一種の仮死状態のままで水中に何時間も居続け、その後に蘇生するという奇跡である。

 

 インドのヨーガ行者で出来る人がいると聞いたり、本で読んだことがあるが、実際に見たことはない。あのパイロットババ師が、日本のテレビ局や麻原に招かれて、実演するとしたが、実際にはやらなかった(できなかった?)奇跡である。

 

 これは、私の運命も変えることになった。麻原は、自分の水中サマディを番組にするテレビ局を捜すように私に命じたのだ。また、番組のゲストになる著名人の勧誘も指示された。信者にはよく知られていないが、麻原は、教団を起こす前までは野球ファンで、その頃、世界一をテーマにしたギネスブックの番組に出ていた長嶋茂雄氏をゲストに呼べたらなどいった話も出た。

 

 そのため、私は、生まれて初めて、マスメディアや有名人を相手にした活動を始めることになった。後に事件に関する教団の弁明に当たる際にも用いた外報部長という肩書きを名乗ったのは、その前後からである。

 

 理工系の大学を出た直後に出家したので、テレビ局に番組ネタを売り込んだ経験など無いし、識者とのコネクションもないのだが、自分なりに考え、前向きに努力した。営業の経験の多い岡崎(当時佐伯?、現在宮前?)の助言を受けつつ、叱られたり断られたりして試行錯誤しつつ、どうにか一社が特別番組を企画してくれることに。

 


●総選挙への出馬

 

 ところが、麻原は、サマディの準備の修行に入ったからしばらくして、夏頃になって、サマディを中止し、衆議院選挙に出ると言い出した。そして、出馬の是非を話し合う高弟達を集めた会議が開かれた。

 

 皆が麻原の考えに沿って賛成したのに対して、記憶が定かで無いが、反対したのは私に加えて、もう一人だけだった。私が反対した理由は簡単で、自分には勝てるとは思えなかったからである。しかし、圧倒的多数で出馬が決定した。

 

 しかし、会議が終わった後は、会議の中では賛成した早川が「早すぎる。今回は勝てん。これから地盤を固めて4年後ならば」と私の側で漏らす。それを聞いて新実も否定しない。「だったら、会議で言って下さい」と言ったような気もするが、これが、麻原への帰依=無心・無思考に麻原に従うことが、重視される教団だからしかたがないとも思った。

 

 これより前から、教団内で、私は常々、自分の考え方が強く、マイウエーであり、私の修行を進めるためには、自分の考え方を捨てて、麻原により帰依することが必要だと言われた。このことは、高弟達は良く知っていた。特に(私よりも)帰依に優れているのは、一番弟子とされた石井久子で、当時既に、私よりも二段階上の正大師の地位を得ており、麻原への無心の帰依が出来ているとされていた。

 

 ただ、教団で実践された無心の帰依とは、実際には、無思考の服従の面が多かったと思う。何も考えずに、深い智恵に基づく麻原の指示を実行すれば、自分のエゴが無くなり、グル=麻原と精神的に合一して、解脱・悟りを得るという教えは、教団では、難しい高度な修行とされた。

 

 しかし、良く考えれば、これは、自分でいろいろと考えて悩む必要はなく、いったん受け入れてしまえば、本人の感覚としては、とらわれがなくなり、気楽である面がある。特に、依存心が強く、思考力が乏しい人には、自分に合っている(自分も実行できる)と感じる修行だったとも思える。

 

 実際に、現代社会は、学校教育でも、教師の教えた通りに答えるという訓練が中心で、論理的な思考力や創造力は軽視されがちだ。だから、多くの弟子達には合っていたし、ある意味で、好まれたようにさえ感じる。

 


●週刊誌「サンデー毎日」の教団批判記事の連載 

 

 そして、89年の10月には、週刊誌の「サンデー毎日」により、「オウム真理教の狂気」と題する教団を批判する記事が毎週のように報道された。内容は、未成年を含めた若い出家信者の親・家族が「子供を取られた」と苦しんでいる問題や、教祖の血を飲むイニシエーション、教祖のDNAを使ったイニシエーションなど、社会常識・規範に反する修行法、京大や東大の名前・権威を不当に使った誇大宣伝、都庁に抗議した時の強引さの批判などだった。

 

 教団は、それに抗議・反論したが、批判キャンペーンは何週間も続いたので、教団は、その対抗策として、「サンデー毎日の狂気」という書籍を発刊して、その記事に詳細に反論して批判し返した。

 

 こうした中で、オウムの出家信者の親達の相談・依頼を受け、オウム真理教被害対策弁護団を結成し、教団批判のために、サンデー毎日に情報提供していた坂本堤弁護士が、その年の11月4日に、教団に殺害される事件に発展する。

 


●坂本弁護士事件について

 

 この事件は、裁判等の資料によれば、

 

(1)故坂本弁護士は、89年5月頃から、子供を教団から脱会させたい、とする親の相談を受けるようになり、「オウム真理教被害対策弁護団」を結成し、子供の脱会を望む親たちの組織化を図り、出家信者とその親との面会の交渉を担当するだけでなく、教団の問題点を批判し、宗教法人の認証取消の働きかけなども行なっていた。

 

(2)そこで、麻原は、弟子である村井、新實、早川、岡崎、中川を集め、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかない」などとして、教団による救済の障害となるものに対しては殺人をはじめ非合法的な手段により対処していくと言い,「今ポアをしなければいけない問題となる人物」として坂本弁護士を名指しし、殺害を指示し、上記5名に端本を加えた6名は、同年11月4日未明、横浜市の同弁護士宅に侵入し、同弁護士と、その妻と子供の計3名を、頸部を締める等して窒息させて殺害し、3名の遺体は新潟県、富山県、長野県にそれぞれ分散して埋めた。

 

 とされている。

 

 この事件に関しては、裁判の判決から明らかなように、私は、事件発生前には、坂本弁護士を殺害する謀議に参加したことも、そういった考えを聞いたこともない。

 


●犯行のしばらく前に坂本弁護士に会ったときのこと

 

 ただし、犯行の少し前に、教団の信者で弁護士の青山と早川と私の3人で、坂本弁護士に会ったことがある。私と早川は会うのが初めてだったが、青山は、以前から、出家した若い信者とその親の面会などの件や、サンデー毎日の記事内容の件で、坂本弁護士と連絡をとり、交渉に当たっていた(だから初めてでは無かったかも知れない)。

 

 そして、その青山が、その時の面会のアポを取ったと思うが、それは、教団側の主張を説明し、理解を求め、何とか話し合いで、問題を解決できないかと思ったからであって、決して殺害準備のための調査ではない。

 

 その際に記憶していることは、①彼がサンデー毎日にも情報提供したと思われる京大・東大の名を利用したという教団批判に対する説明・反論をしたが、理解を得られなかったこと、②坂本弁護士が週刊プレーボーイが掲載した麻原の空中浮揚と称する写真は偽物であると語っていたこと、③青法協という弁護士のグループに共に所属していることで坂本弁護士に親近感を持っていた青山が失望していたことなどである。

 

 そして、私個人にとって、最も印象深かったことは、話し合いが物別れに終わって、別れ際に、私が、「27才の私のような成人した者でも、親が求めれば、家に帰らなければならないのですか」と問うと、坂本弁護士が、即座に「帰ってもらいます」と返答したことだった。

 

 当時の私は、出家に関する教団と坂本弁護士サイドの対立点は、実質的には、未成年の出家者であり、憲法上の権利から、出家が個人の信教の自由と認められる成人は、最終的には、問題にならないと考えていた。しかし、坂本弁護士に相談をしている親の中には、子供が成人し、既に二〇代半ばの者も含まれていた。そこで、他の点の交渉が、物別れに終わる中で、坂本弁護士が法律家である以上は、その点だけは妥協を引き出せるのではと思って、その点を問いただした。

 

 しかし結果は、その真逆となった。今思うに、この原因としては、別れ際という落ち着きのないタイミングに加え、私の聞き方が悪くて、売り言葉に買い言葉になったのではないか、ということ。また、もう一つの可能性として、坂本弁護士が、未成年の出家に限らず、オウム真理教という宗教全体に違法性があると考えており、それを私が理解できなかったことがあると思う。

 

 なお、オウム真理教という宗教全体に違法性があるとは、坂本弁護士は言わなかったが、それ以前に私達が会ったサンデー毎日の編集担当者は、そう主張していた。だから、教団批判で、サンデー毎日と協力関係にあった坂本弁護士も同じように考えていたのでは無いかと思うのである。

 


●自分の教団を客観視できていなかったこと

 

 しかし、当時の私は、若さ故の未熟のため、率直に言えば、オウムという宗教全体に違法性があるという主張は、その意味自体がよくわからなかった。教団批判の記事にある、未成年の出家が親の権利を侵害するとか、布教の中に誇大宣伝があるとか、修行の中に社会的常識からして奇異なものがあるという主張はよく分かったが、宗教全体に違法性があるというのは、何を意味するのか。

 

 今思えば、坂本弁護士や週刊誌の編集者が、単に教団の問題点を批判するというよりも、教団を潰す必要があると感じていたと考えるのが合理的だろう。実際に判決の中にも、坂本弁護士が宗教法人の認証取消の働きかけをしていたとある(認証の取り消しは、サリン事件発生後になされたが、逆に言えば、信教の自由を重視する戦後日本では、大事件が起こらない限り滅多にないことだろう)。私は脳天気にも、相手がそう考えているとは理解していなかった。

 

 しかし、今思えば、坂本弁護士やサンデー毎日の方が、教団に属している私よりも、後に本格的に教団武装化を行い、サリン事件まで起こす教団の本質を見抜いていたのである。ただ、当時の私には、自分のやっていることが、良いことだという思い込みがあった(なければやっていない)。

 

 しかし、自己の教団を客観視すれば、その年の初めに、麻原の預言の本が既に出ていた。外部の人がよく読めば危険思想を感じ取るであろう。すなわち、坂本弁護士やサンデー毎日が指摘した問題は、実は、教団の本当の問題から見れば、逆に小さな問題だった。そして、教団内部では、ハルマゲドンの実現のための教団武装化計画が話し合われていた。

 

 しかし、当の本人である私は、ハルマゲドンは、正義のための戦いだし、さらには遠い未来のことである(と思いたかった)し、今現在は何の戦闘も暴力も行っておらず(田口・真島事件は知らなかった)、麻原が是非を問うたサンデー毎日等への暴力行為には私は反対した(他の弟子はしなかったが)と考えていた。

 

 こうして、自分が所属している教団を自分の主観で見ていて、客観視できていなかったことと、その結果として(暴力行為には反対だったこともあって)、自分個人は知らなかった教団の裏側があったのである。

 

 その結果として、私は少なからぬ反感を抱いて、本部に戻った。そして、青山・早川と共に、この交渉の結果を麻原に報告した。なお、共に青法協に所属していることで、坂本弁護士に親近感を持っていた青山も、実際に会って交渉した結果に、私と同じように、失望していた。この結果、折り合えない相手として、三人とも、坂本弁護士について、否定的な印象を麻原に伝えたと思う。

 

 しかし、これも今になって良く考えると、青法協とは、共産系の弁護士の協会であり、共産主義は、宗教はアヘンとして否定する思想なのだから、青山が、同じ青法協に属しているからと言って、坂本弁護士に、宗教への好意を求めるのは、非合理的だったのではないかとい思う。彼も自分を客観視できていなかったのかも知れない。

 


●オウム真理教と共産主義

 

 なお、青山は、オウム真理教に入信する以前は、実は、共産党に属し、入党勧誘も含め、熱心に活動していた人物であった。教団に入った後に、「共産主義から真理へ」という著作も発刊しているくらいだ。その共産党から宗教に転じた青山の方が、共産系の人としては、変わり者であり、宗教と戦う坂本弁護士の方が、普通のパターンだろう。

 

 ただし、オウム真理教の問題には、不思議と共産主義が出てくる。前にも話したが、麻原・青山・早川らの共産主義シンパがいた。彼らは共産主義学生運動の世代で、麻原は毛沢東は神に連なる人物で最も尊敬する近代の人物として、神聖共産主義が理想の国家体制であるとした。そして、共産圏だったロシアや坂本弁護士との縁。

 

 また、95年に麻原と信者の多くが逮捕された時には、権力との戦いには共感を抱く傾向がある共産系の弁護士の方々も、一般大衆を殺害したサリン事件に加え、仲間である坂本弁護士が殺害されたために、教団に強い反感を抱いており、弁護士探しが難航したことがあった。しかし、それでも、教団信者の弁護を受諾した弁護士の中には、最終的には、共産系の方が多かった。

 

 そもそも、仏教の出家教団は、物欲を滅する意味から、私有財産制度は希薄で、仏の万人への平等の愛の精神を重視し、自ずと共産主義的なコミューンとなる。かのダライ・ラマ法王も、仏教的な精神を持った共産主義を支持しているのは興味深い。

 

 さらに、オウム真理教と共産主義は、宗教と宗教の否定で正反対だが、両者とも暴力主義と縁がある点では似ている。また、その言動が穏健では無く、権力などに対する強い否定・批判の点でも同様で、私に広報活動のやり方を教えた麻原は、共産主義者の権力との戦いを参考にしたのだと私は推測している。

 

 さらには、共産主義が宗教を否定していると言っても、ソ連のスターリン崇拝や、北朝鮮の金日成・金正日崇拝などは、端から見ている、宗教と酷似しているし、特に現人神教祖の独裁体制のカルト教団的ですらある。どちらも独裁的・非民主的・抑圧的・暴力的・差別的で、さらには反米など、自分以上の権力への反発が強い。

 


●坂本弁護士事件の前に、暴力行為に反対したこと

 

 話を坂本弁護士に件に戻すと、麻原に否定的な報告をしたものの、私は、あくまで暴力行為には反対で、坂本弁護士殺害の謀議にも加わっていない。そして、自分や青山などが担当である広報手段と名誉毀損訴訟などの法的手段で対応すれば良いと思っていた。

 

 ただし、坂本弁護士に会う前か後かは記憶が定かではないが、坂本弁護士ではなく、サンデー毎日・毎日新聞社に対して、暴力手段を用いることの是非について、麻原から、他の高弟と共に、意見を聞かれたことがある。しかし、どういった暴力手段かの記憶が曖昧で、ポア=殺害ではなくて、新聞社にトラックで突っ込むといった、左翼系の犯罪で過去にあった類の話しが記憶に残っている。

 

 その際は、私は「非常に危険だ」として強く反対した。また、同席していた石井久子氏も同様だった。その場には、村井、新実、早川、岡崎もいた。その後、坂本弁護士殺害に関与する5名のうち、中川を除いた4名だったと思う。彼らは、賛成もしなかったが、明確な反対意見は言わなかったようにと思う。

 

 そして、この後に、裁判の判決からすれば、麻原は、私や石井を外し、他の4名に、中川と端本によって、坂本弁護士事件を行なった。ここで、私が外された理由を推察すると、今述べたように、暴力行為に反対したことと、マスコミ対応の担当だったからだと思う。

 

 
●坂本弁護士事件の発生後も麻原に帰依した経緯

 

 さて、事件が発生し、その報道が流れると、私は、事件発生前後に、村井・新実らを教団内で見かけなくなったことから、教団の犯行ではとの疑惑を深めて、不満を持った。私は、広報活動で、教団批判の影響を和らげるべきだと思っていたからだ。

 

 すぐに、この事件は大きく報道され、大騒ぎになった。最初は、赤報隊などの他団体の犯行の可能性も指摘されたが、そのうちオウム真理教が一番疑われることになった。その最大の理由は、犯行現場に、オウム真理教の法具であるプルシャと呼ばれるセラミック製のバッジが残されていたからである。

 

 こうした中で、私は、麻原と電話で話し、私の抱いた疑惑について問いただした。すると麻原は、教団の関与を明言はしなかったが、(仮にそうだとしても)それは正しいことだという立場を取って、そう考えるように私を説得して、最後に、「もうわかっているようだからな」と言って、教団の関与を暗に示唆したのである。

 

 これを聞いた私は、その後も、不満・わだかまりは残っていたと思う。しかし、前に述べたように、それまでの経緯から、麻原を深く盲信し、帰依する精神状態にあり、さらには、自分が守ってきた教団への愛著もあっため、結果として、麻原に帰依して、広報活動を継続した。

 

 具体的には、仮に教団が関与していたとしても、それは麻原のポアであると考え、関与していても、していなくても構わないと思い切るようにしたのである。なお、この際の心理状態や、麻原によるポアとは何かについては、後ほど、麻原のヴァジラヤーナ活動に加担していった原因を反省する部分で、詳しく述べるので、そちらを参照されたい。

 

 そして、青山も、同じことで悩んでいることが分かったので、彼にも自分と同じように考えるように話すと、青山も不思議と納得したように見えた。

 


●事件の詳細は95年まで分からなかった

 

 しかし、私は、事件が誰によってどう行われたかは、95年に全貌が発覚するまで、全く教えられることはなかった。私は、89年当時に報道されたように、教団がやったにしても、暴力団関係者などに依頼したのではと推測していた。まさか、素人の6人が実行したとは思わなかった。

 

 なお、早川の供述の中では、私が、プルシャが現場に落ちていたことに対して、大変なミスだと批判したとされているそうだが、もし私がそう言ったとしたら、早川のミスという意味ではなく、プロの犯行であればという意味だ。

 

 だから、私は、教団側がプルシャを落としたとは最後まで信じることはなく、テレビで主張したように、プルシャは犯行とは関係なく、被害者の会を通じて、教団の資料として坂本弁護士の方に渡されたものが、弁護士自身が自宅に持って行ったと考えた。

 

 判決が言うように、事件の目的は、教団批判を封じることだったのだろうが、プルシャが落ちていたこともあり、実際には、教団批判は、事件発生前よりも、遙かに大きなものとなった。全くの逆効果になったのだ。

 

 しかし、麻原は、「おかしいな。普通は失踪した人間が出たからといって、こんな騒ぎにはならないのにな」と言って、不服そうだったことをよく記憶している。彼の見方は、あくまで、自分達は特別に弾圧されているという立場だったように思う。



●岡崎の脱会と麻原への脅し

 

 最後に、坂本弁護士事件に関係して、他に私が知っていることは、事件発生から数ヶ月して、岡崎が脱会した後に起こったトラブルである。

 

 岡崎は、脱会と共に、教団の何億ものお金を持ち逃げしようとした。それは、早川らの行動で阻止されたが、その後に、麻原と岡崎は電話で話し、岡崎は麻原に多額の金銭を要求し、麻原は、それを承諾した。断片的な話しが聞こえただけなので不正確かもしれないが、八〇〇万円ほどだった。

 

 私は、それが岡崎に対する口止め料を意味することは、だいたい察しがついた。承諾する前に、麻原は、自分もいる場で、早川に、「(岡崎は)私と差し違えるつもりでしょうかね」と言った。早川も、「(岡崎が)警察に手紙を送る可能性はないでしょうか」と話していたと思う。後から報道から知ったが、実際に、岡崎は、遺体を破棄した場所に関して、警察に匿名の手紙を出していた。

 

 しかし、当時の私は、まさか素人の岡崎が実行犯とは思わなかったので、岡崎が、実行犯と関係があって、そのため、麻原・教団の弱みを知る立場にあったのでは、と推測していた。

 

 これを含め、私の事件に対する認識が抽象的なのは、誰も、私に対して、坂本弁護士事件への関与を明確に告白したり、その詳細を説明することはなかったからである。逆に言えば、実行犯にとって、相手が高弟と言えども、事件のことは、決して他人に漏らすことができないものだったのだろう。

 


(3)選挙の惨敗と陰謀論

 


●教団の陰謀論の開始

 

 この年から、教団の中では、ヨハネ黙示録の終末予言を解釈した書籍『滅亡の日』で、聖徒が弾圧が受けると予言されているように、教団が国家権力・マスコミ等から、いわれなき弾圧を受けている、という主張が始まった。

 

 そして、麻原は、『サンデー毎日』のバッシングは、自分が選挙に出ることを決めたからであり、その背景には、それを嫌がる創価学会の勢力があり(毎日新聞と創価学会には繋がりがあって)、その裏には、JCIA(内閣情報室)やアメリカがいる、とまで主張し始めた。

 

 私は、半信半疑だったが、『サンデー毎日』が、たかが数千人の信者の小教団を7週連続で批判する一大キャンペーンをやったのは、やはり奇異に思えた。今の時点で、当時の教団を客観的に見れば、日本には、馴染みが薄い、①ヨーガ・密教系の宗教的実践への無理解・誤解、②多くの出家者による家族とのトラブル、③多額の布施を取る修行に関する一部信者のトラブル、④宗教法人の認証申請時に信者が大挙して都庁に詰めかけた過激な行為、⑤書籍『滅亡の日』の過激な記載など、さまざまな点で、危険な教団に映る現実があったのだろう。

 

 それはともかく、この点に関して、非常に印象に残っている出来事として、私が、週刊誌の批判が、過激な出家制度が原因ではないかと麻原に言った時の麻原の反応がある。その際、麻原は、滅多にないほど非常に不満げに、「それはあちら側のシナリオだ」と言ったことを覚えている。

 

 ここで「あちら側」というのは、教団を弾圧する国家権力側・ユダヤ・フリーメーソンのシナリオという意味である。そして、私は、麻原のその口調が、滅多にないほど感情的で、ふて腐れたようにも感じたので、私は違和感を覚えた。

 

 また、「シナリオ」とは、麻原の独自の考えで、教団を弾圧する側が、ある種の「計画」を持って、教団を弾圧し、社会を動かしているという見方である。同時に、麻原は、自分のハルマゲドン預言を自分で実現するために、教団の軍事力を形成し、ハルマゲドンを起こそうと考え、「預言とは計画なんだ」と語っていた。その意味で、彼の陰謀論の社会の見方は、自分の考え方の投影だったと思う。

 

 そして、この陰謀論に関しては、私は、帰依の実践として、麻原と同じように考えるべきであるという思いと、自分の合理的な理性による判断が食い違い、その後も、ことある毎に、悩むことになった。

 

 特に、ヴァジラヤーナ活動に入る大きな根拠として、「教団が社会に弾圧されているから、社会と戦わなければならない」という状況認識があったので、これが真実なのか、被害妄想かは、非常に重要な問題と感じられた。特に、この後の1990年の選挙の敗北もが、国家権力による投票操作の結果とされたのは、私には大きい問題であった。  

 

 

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