●国土法違反事件の裁判闘争の開始:1991年

 

 1991年は、国土法違反事件の初公判が行われた。国土法違反事件とは、国土法において、土地を売買する時は、事前にその届け出を出す義務があるところ、それを怠ったという事件である。

 

 本来は、交通違反のように軽微な事件で、罰則も非常に軽いのだが、本件は、教団が熊本県波野村に進出したことに対する地元の強い反発に関係しており、早期から大々的に報道されるなどして、大問題となり、最終的には、全国一斉の強制捜査や幹部信者の逮捕といった大事件の様相を呈した。

 

 教団は本来は届け出を出せば済んだのだが、ヴァジラヤーナ活動を早急に進めたいとする麻原の指示があり、真実は土地の売買なのに、届け出が不要な土地の贈与と偽って、取得した。取得に関わったのは、早川や青山らだった。

 

 正確には、土地に関係する債務を教団が引き受けるという負担付贈与なので、全く無償で贈与を受けたと主張したわけではないが、真実は負担付贈与ではなく、売買であり、裏金が渡されていた。この裏の事実が、90年の8月末頃までに、警察の捜査を受けた地主が自白して発覚したのである。

 

 軽微な違反が大事件となったのは、教団と波野村の激しい対立が背景だが、波野村は信者の住民票を不受理にするなど、信者の人権を侵害する事例が少なくなく、麻原の指示で、青山が私と共に対応した。青山は、毎週のように熊本に行き、人権侵害の事例を告訴し、記者会見を行い、私も外報部長として、同席した。

 

 実は、この時期、青山は、麻原から、「マハームドラー」の成就のために、「たった一人になっても真理を守りなさい」という課題を与えられていた。そして、麻原は、教団進出に反発する波野村・熊本県に対して、当初から非常に闘争的な対応をし、青山や私から見ると、問題を激化させているようにも映った。

 

 ただし、波野村が、住民票の不受理などを含め、非常に激しかったことも事実で、一般信者には、麻原が主張するように、村や県が教団を弾圧している、宗教弾圧と映る状況があったと思う。

 

 実際に、住民票の不受理に対して、教団は訴訟を行い、波野村が高額の解決金を支払うことで和解した。そして、一般の有識者や人権運動家には、教団側を擁護する人たちも少なくなかった。その中には、後に教団が大変なご迷惑をかけることになる宗教学者の島田裕巳氏らもいた。しかし、彼らは、教団の裏側に、ヴァジラヤーナ活動があり、その一環として波野村の土地を取得したなどは、当然知ることはなかった。

 

 私は、裏金の存在が発覚する8月末までは、この件には一切関与しておらず、関与し始めたのは、主に摘発された後から裁判が始まった時である。私は、麻原の指示のもとで、教団側が無罪を勝ち取れるように、逮捕・起訴された信者と話し合うと共に、その中で偽証や偽造の違法行為を犯すに至った。

 

 偽証等をしてまで無罪判決を得ようとしたのは、麻原の指示であると共に、教団は、波野村・熊本県との摩擦を宗教弾圧と主張しており、国土法事件で教団側の罪を認めれば、教団の主張の正当性が揺らぐためだった。

 

 裁判は1991年に始まり、サリン事件が発生した95年まで続いていたが、その際に、別件の強制捜査で押収された資料から、この偽証・偽造が発覚したため、裁判で偽証した信者と私は逮捕され、起訴された。

 

 国土法事件の強制捜査・逮捕のために、教団は、ヴァジラヤーナ活動の休止を余儀なくされ、裁判に対応しつつ、しばらく、通常の布教活動であるマハーヤーナの活動を行うことになった。例えば、「死と転生」という音楽・舞踏イベントや、説法祭などを行い、1991年半ば頃からは、多くの書籍を出版したり、幸福科学の批判や、『朝まで生テレビ』に出演するなどの広報活動を行い、インドの巡礼ツアーを行なった。

 

 また、私は、麻原の突然の指示があって、10月頃から、地中で5日間を飲食無く過ごす「アンダーグラウンド・サマディ」の準備修行に入った。11月にそれを無事に終えると、その後は、麻原に指示され、「シャクティーパット」と呼ばれる宗教的な儀式を信徒に行い始めた。これは、1992年の末まで約1年間も続き、その期間は、ヴァジラヤーナ活動には関与しなかった。

 


(8)1993年:第二期の大量破壊兵器の製造実験:炭疽菌製造

 


●1992年の出来事:ロシア活動の始まりとシャクティパット

 

 私がシャクティパットに専念している間、1992年の1月に、教団が松本市に賃借した土地について、建物の建設禁止を命じる仮処分が、長野地裁松本支部で決定し、これが後の松本サリン事件の遠因となるという出来事があった。

 

 そして1992年は教団のロシア活動が開始される。創価学会の池田氏のモスクワ大学での講演を手配したと言う日本人に勧められ、同様に麻原の大学講演が計画されたのが発端だが、その結果として、ロシア政界の有力な人脈と繋がり、エリツィン大統領との面会の話しにまで拡大した。

 

 結果として、3月に、教団は在家信者を含めたロシアツアーを行い、大統領との面会こそ実現しなかったものの、副大統領や最高会議議長(国会議長)などの政府要人との面会が実現し、クレムリンホールで「死と転生」の講演も行った。また、同じ人脈を使って、国営テレビ放送やラジオ番組の時間枠を買い取って、教団の宗教番組が放映されることとなり、6月には、ロシア支部を開設するに至った。

 

 なお、この年は、ロシアを含め、ラオス・スリランカ・ザイールなどの発展途上国に行った。その主な目的は、日本では、それまでに色々と批判されているために、海外の政府要人や有力な宗教家に会って、麻原と教団に箔を付けることだった。当然、面会の機会を得る条件として、多額の献金を約束した。

 

 そして、1993年には、私は、シャクティーパットを終えて、教団では、石井久子、松本知子(現在松本明香里)に次いで、3番目の「大乗のヨーガの成就者」として認められた。

 


●再び抵抗感を持って、大量破壊兵器の製造実験へ

 

 こうした中で、その1月に、ヴァジラヤーナ活動を本格的に再開する話し合いが、麻原と弟子達の間で行なわれた。

 

 ところが、この時に、麻原は、個人的にではあるが、私がヴァジラヤーナ活動に、ためらいを持っている、嫌がっているという主旨のことを言い、私を批判した。私自身は、麻原の指示していることに対して、何か明確に反対した訳では無いので、そのように批判されるまでの理由はないとも感じた。

 

 しかし、麻原の話しに対して、麻原の回りに集まって、身を乗り出して、食い入るように聞き入っていた他の弟子達に比べると、確かに、私は、それほど熱心にはなれずに、微妙に話し合いの輪の中心から外れていたので、これを感じ取った麻原が、私を批判したのだろうと思う(ないしは今は記憶していない何かあったかもしれないが)。

 

 また、この前には、私の「大乗のヨーガ」の成就を祝う式典が行なわれたが、その際の麻原の講話の中には、私に一部批判的な内容があり、講話の主旨も、私にヴァジラヤーナの活動(「大乗の逆の道」と表現された)の積極的な実践を促すものだった。現に、この際の講話で麻原は、「当然わたしもいずれ彼(上祐)を離さなければならない時期が来る。離さなければならないとは、一人立ちしそして多くの衆生のリーダーとしその世界の救済をしなければならないということである」とは述べたものの、私も他の高弟も、その文脈から今生のこととは全く解釈しなかったし、麻原も、「百生ぐらい先のことだ」と述べたことがある。
 

 さて、なぜ自分が他の弟子と温度差があったかは、よく記憶していないが、その当時でさえ、良く自覚していないのかもしれない。抽象的な記憶としては、熱心に見える他の弟子を見ながら、自分の自尊心が満たされないのを感じていたことである。

 

 そもそも、教団の中では、ヴァジラヤーナは、最も高度な修行であり、限られた者だけが実践が許される秘密活動であるから、その担当者として麻原に選ばれて、その秘密会議に参加できると言うことは、信者にとっては、大変な名誉と解釈される。このことは、サリン事件の実行犯に選ばれた林郁夫も、著作の中で書いている通りだ。

 

 そして、それまでにヴァジラヤーナ活動の経験が無い者にとっては、フィクションの世界の出来事のように、刺激的なその活動内容が、他の修行より遥かに強い関心を惹き付けるのも、ある意味で当然だった。

 

 一方、私自身は、前に述べたように、当初から、ヴァジラヤーナ活動には、その現実性に疑問を持っていた。言い替えれば、現実性を考えずに、ともかく全力を尽くせば良いものだとは思えなかった。もう少し詳しく言えば、単に突っ込めば良いなら=熱心にやれば良いなら、自分が活かされないと感じていたと思う。

 

 ただし、前にも述べたとおり、教団では、グルが指示することは、おかしいとか、抵抗感を感じるものでも、それを自分のエゴのためだと考え、無思考にグルに従うことが、修行を飛躍的に進めるという教義がある。だから、突っ込もうとする弟子の方が多いのは必然であり、それが弟子が、自尊心を満たすパターンでもある。ところが、自分は、その普通のパターンから外れている一面があったのだと思う。

 

 しかし、それ以前の段階で、ヴァジラヤーナ活動を受けれた以上は、麻原に、その実行をためらっていると批判され、その通りだとすれば、それもまた自己矛盾であって嫌なわけで、微妙に複雑な心理を抱えながら、私は93年のヴァジラヤーナ活動に参加していくことになった。

 


●ロシアに関するヴァジラヤーナ活動

 

 さて、この時期に再開されたヴァジラヤーナ活動の内容は、一面的ではなく、様々な武器・兵器の開発計画が含まれていた。その一つは、自分は直接担当せず、話を聞いていた程度がだが、小銃の製造であった。裁判資料によれば、この93年の2月には、教団関係者が、ロシアに行って、自動小銃を持ち帰ったとある。これは、まだ私がロシアに赴任する前のことで、当時の自分は知らず、後で知った。

 

 また、私のロシア赴任後では、ロシア国軍の許可を得て、短銃やライフルなどの射撃訓練ツァーを行った。なお、教団やオウム報道では、射撃訓練と呼ぶが、ロシア国軍側の認識は、日本の一般人を受け入れた射撃体験ツァーであり、いわゆる遊びの範疇だったと思う。

 


●炭疽菌の製造とその失敗の理由

 

 そして、この年の前半で、最大のヴァジラヤーナ活動は、炭疽菌の製造・噴霧実験であった。そして、私は、主に菌の製造の部分のまとめ役・進行管理を担当した。私の管理の下で、遠藤誠一が、技術者として、炭疽菌の培養による製造を担当した。一方で、村井が噴霧器の製造と噴霧の実行を担当した。麻原は、主に村井と共に、噴霧器の製造に関心を持っていた。

 

 なお、噴霧器とは、培養された菌を含んだ液体について、それを超高圧ポンプで微細な霧状に噴霧するというものである。一時期は、市販の超高圧ポンプの購入・使用も検討され、私が購入の検討を担当したが、それは取りやめとなって、村井らの自主製作に委ねることにした。

 

 炭疽菌の培養は、教団の亀戸施設で行われた。しかしながら、ボツリヌス菌の際と同様に、結果として、有毒なものはできなかった。その理由は何か。

 

 まず、遠藤は、有毒な炭疽菌が手に入らないために、家畜用の無毒化されたワクチン株というものを入手して、それを彼の遺伝子工学の技術によって再び有毒化しようとした。遠藤によれば、無毒化されたワクチン株と、本来の有毒な菌は形が違うので、遺伝子工学の技術によって、無毒のワクチン株を有毒な菌と同じ形にすることで(戻すことで)、同じように有毒になるということだった。

 

 しかし、数年前に、このオウムの炭疽菌の製造に関して、米国政府に関係するテロ防止の調査研究チームが調査を行なった際に、その調査に私も協力した経緯があるが、その中で、米国の生物兵器の専門家は、遠藤は生物兵器の真の専門家ではなく、彼のやり方では有毒化は出来ないと語っていた。

 

 確かに、遠藤は生物学や遺伝子工学を専攻し、大学院博士過程に在籍したが、それだけであって、生物兵器の専門家ではなかった。よって、彼が言う同じ形にすれば有毒化するというのは間違っていたのかもしれないし、実際には、同じ形にさえならなかったのかもしれない。

 

 なお、その当時は、村井と主に超高圧ポンプの製造に当たった広瀬健一などが、噴霧器の超高圧が、菌を破壊したと推察したが、そうではないと思う。その根拠としては、先ほど述べたように、①米国の専門家の研究結果でも、そもそも有毒な菌が製造できなかったという結論であること、②この後に超高圧ポンプでは無く、高速回転する円盤による噴霧を試みたが、やはり結果は出なかったからである。

 


●製造噴霧実験の経緯

 

 しかしながら、私を含め、当時の製造作業の現場にいた者達は、(麻原が遠藤に主張した通り、ワクチン株から)有毒なものができる可能性を考慮し、万が一のために、体内に入った菌を殺すための抗生物質を服用し、防護マスクや防護服を身につけて、大変緊張しながら作業していた。

 

 そして、この亀戸での炭疽菌の製造と噴霧の実験は、二回にわたって行なわれた。ところが、その中で相当の異臭が施設近辺で発生したので、後に、亀戸異臭騒動と呼ばれることになった。ただし、異臭が発生したのは、炭疽菌のせいではなく、同時に発生した雑菌が放つ異臭が原因である。

 


●車載型の炭疽菌の噴霧実験

 

 また、この時期には、麻原が皇室をターゲットにし始めた時でもあった。麻原は、(科学的には有毒な炭疽菌は出来ないにも関わらず)その当時話題となっていた皇太子結婚の儀パレードに対して、炭疽菌を噴霧せよと指示したたので、私達は、噴霧のための拠点を捜した(結果としては構想だけに終わる)。

 

 また、皇居を含めた都内中心部に、10トントラックから(実際には無毒の)炭疽菌を噴霧する実験も行なった。その際には、超高圧ポンプでは無く、高速回転する円盤を使った噴霧装置を自動車に掲載して噴霧した。しかし、いずれにせよ何の被害も出なかった。

 

 そして、こうした失敗の連続という結果のために、当初は緊張感が高かった弟子達も、慣れも合わさって、徐々に緊張感が薄れていった(=有毒ではないだろうと思うようになった)と思う。

 


(9)サリンの製造へ

 


●サリン製造を決めた会議

 

 この年の8月頃には、裁判資料によれば、化学を大学院で専攻していた土谷正美が、フラスコ内で少量のサリンの生成に成功したとされている。私は、この経緯は知らず、麻原と土谷から、その結果だけを聞いた。

 

 そして、教団では、成果のない炭疽菌などの生物兵器ではなく、サリンの製造をするべきだという話し合いがもたれた。私も参加したその話し合いの中では、サリン製造のプラントは、その頃に建設工事が完了した「第7サティアン」と呼ばれる建物に作ることや、70トンのサリンを製造する構想が出た。

 

 なお、後にサリン製造の場として知られることになる「第七サティアン」とは、それまでは、実は、私が主に管理していた建物で、そこでは、超大型の発電機の製造を試みており、私も素人ながら、それに参加していた。

 

 発電機は、炭疽菌にもサリンにも関係がないが、動力の供給源として、将来の様々な兵器の開発に必要だからという理由だったと思う。記憶が定かではないが、レーザー砲を開発するためにも必要だという話しもあったと思う。

 

 サリンが、私の管理する第七サティアンで製造されるということになったので、私は、その際にサリンの大量製造の担当者となった幹部信者から、プラントの構想や製造工程に関する構想について、かなり詳しく聞いて話し合った。

 


●ロシア行きを命じられたことと、その理由の推察

 

 しかし、その直後に、私は、麻原から、ロシアのモスクワにおける布教活動をするように指示されたので、ロシアに赴任することになった。そのため、私は、その後にサリン製造が具体化・本格化した後のことは良く知らず、また、サリン事件やVXといた殺人事件にも、全く関与することがなかった。さもなければ、私も、他の男性の高弟と同じように、死刑にあたる重罪を犯していた可能性があると思う。

 

 そのため、巷でも、なぜ麻原が私をロシアに行かせたのかに関心を持つ人が多いが、それは、私にも残念ながら分からず、麻原本人のみが知ることだ。まず、私が、ロシアに行くように言われた時に、麻原から聞いた理由は、単純にロシアでの布教は大きな可能性があり、それに比べれば、日本でのヴァジラヤーナ活動は遊びのようなものだという主旨の話を聞いた。

 

 しかし、私に限らず、高弟達は、ヴァジラヤーナ活動が教団の最も重要な活動だと考えていたので、納得のいく話しではなかった。麻原の説明も上手く、左遷とは思わなかったが、教団の中心的な活動から外れるという印象は確かにあった。そのため、私は、若干の抵抗を示したが、結果として、それは最初だけで、麻原の説明を聞くうちに、ロシアの活動に価値も感じたので、比較的に直ぐに行く気持ちを固めたように思う。

 

 そこで推察される理由は二つほどあって、一つは、預言に基づく温存説である。麻原の回りの高弟が、私がロシアに赴任した際に、麻原から聞いたことであり、また、私自身も、赴任した後しばらくして聞いたことであるが、麻原の神通力に基づいたノストラダムスの預言の解釈によれば、私は、翌年の1994年に日本にいると身に災いが及ぶので、日本にいない方がいいということだった。

 

 後で調べると、確かに、麻原が、あるノストラダムスの預言詩について、私に伝えたような解釈をした痕跡があった。94番という番号がついたある預言詩だが、麻原の解釈に基づく翻訳文には、高弟が倒されるといった主旨の表現があった。

 

 当時の麻原から見れば、94年以降が、ヴァジラヤーナ活動が本格化し、危険な年になることは分かっていた可能性がある。そもそも、武器・兵器が手に入れば、それを使用するかは、麻原が決めるのだから。そして、これが正しければ、私を何らかの理由で、危険から守り、温存する意図があったということになるが、何のためかを含めて、これ以上のことは、やはり本人以外は分からないだろう。

 

 第二は、巷で良く強調される左遷説であり、それは、麻原に異論を呈したり、ヴァジラヤーナ活動に消極的な面がある私が、ますますヴァジラヤーナ活動に突っ込んでいきたいと考えていた麻原にとっては、面倒な存在になっており、そのために、ロシアに移動させたというものである。

 

 ロシアには、私を含めたマハームドラーの成就者以上の地位にある最高幹部の高弟が4名、他にも高弟が派遣されたのだが、その後に、麻原が説法で、自分の指示が現場に直接届くようになり、風通しが良くなったという主旨のことを語っている。これは左遷説を裏付ける話しだ。

 

 どちらかはともかくとして、このロシア赴任は、運命を分けた出来事だったことは間違いがない。

 

 

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