●麻原の獄中メッセージ

 

 一九九五年の十月に偽証・偽造の罪で逮捕された。容疑は明らかで否定できないものであり、私は、いたずらに争う意味はなく、早く受刑し早く出所した方がよいと思ったが、麻原への依存が依然として深く、自分では決められなかった。

 

 そうする中で、麻原が、いわゆる「獄中メッセージ」を弟子達に出した。その要点は、①自分は、今、食事等を厳しく制限しつつ、ヨーガの呼吸法や密教の瞑想の極限的な修行をしており、②その修行で、陽神(仙道における不死の身体)を作る。それにかかる時間は遅くとも8年である、③96年には奇跡が起こる、97年はやはり真理元年である、といったものだった。ここで、真理元年とは、麻原が見たヴィジョンで、1997年に、日本の国の元号が「真理」に変わるというもので、麻原が政権を取って日本の天皇(神聖法皇)になるという意味である。

 

 こうして、麻原は、「自分は神の身体を得て真の絶対的な存在となり、さらに、キリストになるという予言も成就する」とあらためて説いたのである。そして、弟子達に、自分と同じように、極限的な修行を指示し、私を含めた高弟の一人一人について、今後、さらにステージ(教団の中の位階)を上げるためになすべき修行の課題が伝えられた。

 

 このメッセージを受けて、麻原への盲信が依然として強かった私は、いったん自供していたが、それ以降の捜査には完全に黙秘をすることに決め、麻原が言うとおりの修行を行い、麻原が説いた奇跡が実現するように、自分でも努力しようと思った。そして、自分の裁判でも、麻原は「自分の全てである」などと言い、あらためて麻原への帰依を表明した。

 

 今から思えば、これは、入信との時と同じで、自分自身の誇大妄想が強いために、麻原の誇大妄想の中に巻き込まれていったプロセスだと思う。同時に、麻原への盲信を背景として、麻原の奇跡は起こらないのではという不安よりも、仮に自分が麻原の奇跡を信じなかった場合にどうなるかという不安の方が大きいという意識状態だったと思う。

 

 
●1996年末、麻原が変調をきたす

 

 ところが、1996年の11月頃になると、裁判での麻原の様子がおかしくなった。報道によれば、脱会した高弟達が麻原の関与を次々と告発する証言の中で、麻原は、自分のエネルギーがコントロールできないとして、裁判官に座法を組む(瞑想の際の足を交差する座り方をする)許可を求めるなどしていたが、そうこうするうちに、支離滅裂の不規則発言を始めた。

 

 同時に、当初は、弁護士と話し合い、黙秘する方針で裁判を進めていたのに、突然、教団が事件を起こしたが、自分は関与していない、止めようとしたという趣旨の意見を述べたいと言い出し、弁護士を当惑させ、しばらくすると、弁護士と接見もしなくなった。この結果、教団も獄中の弟子達も、弁護士を通しても、麻原と連絡を取ることが出来なくなった。

 

 そして、1997年4月には、麻原は、先ほど述べた趣旨の意見を不規則発言の中で述べた。サリン事件は、自分は止めようしたなどと述べた(一部の事件には容疑を認めたものもあった)。また、その頃から、麻原の拘置所の様子も、精神異常をきたしたかのようにおかしなものとなり、自分で指示した極限の修行をしているようには思えない様子が報道されるようになった。

 

 私は、指示された極限的な修行をしながら、96年の奇跡や97年の真理元年を期待していたが、実際には、奇跡は起こらず、社会状況も全く変わらなかった。それどころか、全く逆に、麻原が変調をきたし、連絡不能となった事態に、当然の如く当惑した。しかし、それからしばらくは、なおも同じ修行を続けていった。

 

 そうする中で、私は、麻原への帰依として、高裁、最高裁と最後まで争って、有罪判決が確定したので、一九九八年に広島刑務所に服役することになった。服役は、独居の形で、紙袋を作る仕事だったが、その合間に自分なりの修行をしていた。

 


●1999年:心境の変化と教団を巡る社会問題の激化

 

 1999年は、前に述べたとおり、事件の関与を認めず、賠償もせず、パソコン事業で多額の収益を上げながら、予言を信じて、各地に避難所のための不動産を取得する教団に対して、地域住民の反対運動が激化した。信者と地域住民の衝突が起こり、信者の住民票は不受理となり、パソコンショップには度々強制捜査が入り、ついには、団体を規制する新たな法律(団体規制法)が導入された。その一方で、麻原の予言は、97年に続き、99年の予言も成就しなかった。

 

 私は、99年の末に出所を控えていた。その新法も、私の出所に備えた「上祐新法」だという見方も一部にあった。麻原は、不規則発言の中で、改めて、自分の関与は否定しつつ、教団の関与を認める発言をした。私は、99年も予言が成就せず、麻原は不死の身体どころか、精神的異常をきたす中で、麻原の予言は、完全にではないが、ほぼ成就しないものだと思うようになった。このまま予言を信じ、社会と衝突することは、無意味で自滅的であると考えた。

 


●麻原の予言・世界観の特徴に気づく

 

 こうして麻原の予言に対する信仰が自分の中で相対化する中で、私は、なぜ予言が成就しなかったのか、なぜ麻原は、客観的に見れば、あのような妄想的な予言をしたのだろうかと考えた。予言が、麻原の中心的な教義であったために、自分には大きな問題だったからである。

 

 その中で、ある時ひらめいて、自分なりに納得のいく答えを得たと感じた。それは何かというと、麻原の予言は、日本の過去の暗部である大日本帝国の歴史の一部とよく似ているということだった。

 

 第一に、麻原とオウムは、麻原を絶対神の化身とし、神聖法皇と呼び、自分達を言わば神に従う真理の実践者の集団とし、自分達が、世界を統治すべきだと考えたが、これは、まず、大日本帝国が、天皇を現人神とし、日本を神の国として、神国日本がアジアを統治すべきとした点で類似点がある。

 

 もちろん、昭和天皇は戦争回避に最後まで尽力し、戦後も人間宣言を行い、国民を国家神道の思想から解放し、戦争責任はないと判断されており、武力路線を主導し、逮捕後も弟子に帰依を求め、首謀者としての責任が明確な麻原とは全く違う。むしろ麻原と弟子達は、大日本帝国と同盟を結んだナチスのヒトラーによく似ていることは、前(3章)に述べたとおりである。

 

 よって、より正確に言えば、オウムには、大日本帝国とナチスドイツといった第二次世界大戦時代の枢軸国の国家観・世界観の悪い部分を結集させた面があり、今から思えば、それは、多くの人がはまってしまう麻薬的な思想だったと思う。

 

 実際に、麻原は、その予言の中で、麻原・オウムが主導する日本が、ヨーロッパに復活するヒトラー・ナチスと最終戦争を行い、勝利すると主張した。これは、大日本帝国の時代において、陸軍中将として満州事変を主導した石原莞爾などが唱えた世界最終戦論とよく似ている。石原は、熱心な法華経の信者で、法華経の予言を解釈し、仏教国の日本が世界を制するべきだと考え、その戦争の目的に仏教の正法の流布があった。そして、アジアを制する王道の日本と、欧米を制する覇道のアメリカが、最終決戦をして、日本が勝つという構想があった(その過程でドイツが打倒される)。

 

 なお、この構造は、社会現象となったアニメである宇宙戦艦ヤマトも同様である、オウムには、「進めオウムをヤマトのように」という歌があったり、毒ガス攻撃に対する空気清浄機を「コスモクリーナー」と呼んだように、教祖や弟子達の世代に人気があったアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の要素を取り入れた面がある。

 

 そして、このアニメの構図は、敵方であるガミラス・デスラーが、ナチス・ヒトラーのパロディであり、ヒーローとなる宇宙戦艦ヤマトの乗組員は日本人ばかりで、両者が戦って、ヤマト=日本が勝つ物語の構図である。大和が、大日本帝国の誇りと敗北の象徴であれば、このアニメは、敗北した日本の復活・リベンジをイメージさせ、敗戦という暗黒の過去に繋がる面があると思う。

 

 さらに、麻原の予言は、いわゆる60年周期説(干支60年周期)で見て、60年遡ってみると、大日本帝国時代の歴史と似ている。それは以下の通りである。これに加え、麻原は、1996年に日本は右傾化の結果として、天皇制になるといった予言もしている。

 

  麻原の予言         予言から六〇年前の日本
 1997にハルマゲドン    1937に日華事変
 1999にハルマゲドン    1939に第二次世界大戦・ヨーロッパ戦線開戦
 2001前後にハルマゲドン  1941に第二次世界大戦・太平洋戦争開戦
 2006までに広島に原爆   1945年に原爆投下

 

 こう考えていくうちに、麻原とその予言は、日本人としての麻原が持つ、日本の過去の暗部が投影された面があると感じるようになった。

 

 それまでは、オウムは、従来の日本とは、本質的に別の存在で、神の世界から転生してきたキリストとその弟子の集団であり、私達信者は、日本人であることを忘れ、あたかも麻原人・オウム人のような意識になっていた。しかし、そうではなく、オウムが、日本の一部の面があると思うになった。それまでは、聖なる教団と邪なる社会に二分化されていた日本が、一つのものに見え始めて来た。

 

 なお、オウムに反対する地域住民が、「オウム信者に人権は要らない」と主張し、住民票の不受理を含めた厳しい反対運動を行ったが、これは、一時的には、あたかも「オウム信者は日本人ではない(だから人権・住民登録は要らない」という意識だったようにも思う。これは、オウム信者の自業自得だが、自分達と日本社会を分けたオウム信者に対して、自分達とオウム信者を分けた日本社会が現れた。

 


●オウムのテロの日本社会における特殊性:身内のテロ

 

 なお、私は、オウムのテロが、イスラム原理主義などの外国人によるものではなく、同じ日本人=身内によるテロであることが、オウムに対して日本社会がいっそう強い怒りを持つ背景にあるのではと思う。「なぜ自分達の国からこんな奴らが」という思いではないだろうか。

 

 心理学では、近親憎悪が、最も強い怒りとなるという理論や、自分の影(暗部)の投影に強い怒りが生じるという理論がある。実際に、最も強い憎しみは、愛憎あいまった家族の中で起こり、犯罪も家族親族の間が一番多いという。

 

 そして、この日本社会の分裂は、17年経った今も、未だに十分に修復していない。今後は地道な取り組みによって、それが徐々に回復するように努めたいと思うが、これには、長い時間を費やす覚悟が必要だろうと思う。

 

 ある地域住民の方によれば、共産党が武力革命思想を捨てて、市議会に認められるまでには、50年かかったという。また、第二次世界大戦について言えば、北朝鮮はおろか、中国・韓国との領土問題を見れば、その傷跡は、70年経った今も、依然として癒えていない。

 

 そして、オウムと日本社会も、サリン事件前に、麻原が「既に戦いは始まっている」と主張したように、一種の疑似戦争状態にあったのだと思う。その意味で、全ての逃亡犯が逮捕されたことや、本書による告白・反省が、その疑似戦争状態の終結のきっかけの一つとなってくれることを祈りたい。

 


●出所するまでの教団の状態

 

 1999年の12月、私は、偽証・偽造の容疑で有罪判決を受けて服役していた広島刑務所から出所し、教団に復帰した。その時は教団はまだ、オウム真理教という名前のままだった。この時点の私は、麻原への信奉は依然として残っていたが、麻原の予言は信じなくなっていた。

 

 予言を信じなくなったことから、私は、教団が社会を無視して活動し続ければ、存続できないだろうと考えていた。しかし、私の出所前まで教団を主導した人達は、1999年が麻原のハルマゲドン予言の年として、それを相当に信じていた。そのため、先ほど述べたような社会との対立を深め、新たに教団を規制するための法律が制定された。

 

 この団体規制法は、教団の活動を監視するために、教団に、その構成員や施設等を定期的に報告することを義務づける「観察処分」と、教団が報告義務を怠ったり、大きな問題を起こしたりした時などに、教団の施設の使用、勧誘や布施等を禁止する「再発防止処分」の二つの規定が設けられた。

 

 この本来の法的な賠償責任を越えて、教団に賠償をする法的義務を新たに設けるには、教団と破産管財人の間で、賠償契約を結ぶ必要性があったわけで、それが実現したのが2000年ということになる。

 

 教団が賠償を始めたのは私が教団に戻った後だ。その前提として教団が事件に関与しているということを認めたのは、1999年12月で、私が教団に戻る直前だった。私は、広島刑務所にいて、その報道を聞き、ある意味でほっとした。教団が麻原の予言教義などの影響を受け、現実を見ることができず、教団の事件関与を否定し続けるのではと心配していたからである。

 

 私が教団に戻る直前に、教団は事件の関与を認め始めた。この方針転換は、麻原が、裁判で、教団の事件関与を改めて認めたと解釈できる証言をしたことや、麻原の家族を国が保護すべきといった議論がなされ、麻原の家族が、それを回避するためにも、事件の関与を認めて謝罪・賠償すべきだと考えたからだと聞いた。

 


●アーレフ体制の発足

 

 教団に戻った私は、正悟師(この当時の教団の最高幹部)や麻原の家族や社会対応関係の担当者と話し合い、今後の対応を協議した。その結果が、2000年初頭のいわゆるアレフ体制の発足である。

 

 その時の教団のリーダー達の意見は、非常に悲観的で、まとまっていなかった。ある幹部は、国は観察処分をかけた後にすぐに再発防止処分をかけて教団をつぶしてくるだろうと考えており、観察処分を受け入れる意思が乏しかった。私は、これは陰謀説を信じやすい信者の傾向だと考え、観察処分を受け入れれば、すぐさま再発防止処分がかかることはないのでは主張した。

 

 また、麻原の予言を信じ、社会と対立する方向に動いていたため、私は、教団全体に、予言は絶対視できないこと、麻原が全知全能であったりすることはないと話した。ショックを受けた幹部がいたが、現実として予言は成就せず、社会から激しい批判がなされていたので、ある程度は受け入れられた。

 

 しかし、当時2000年の教団では、麻原信仰をなくす発想は、私を含めて誰一人持っていなかった。よって、どの程度、麻原への信仰を目立たせなくするか、麻原と距離をとるかが焦点だった。結果として、①麻原の事件の関与を含め、組織的な関与を認め、謝罪して賠償をする、②麻原の写真を祭壇から外し、シヴァ大神の写真を中心に据える、③事件の原因となった危険な教義は否定・排除する、④教団の名前をオウム真理教からアレフに改めることが決まって、2月4日に、マスコミに発表した。

 

 このアレフ体制では、麻原信仰は続くので、表向きと見られても仕方がないが、信者には、表向きでも、麻原が事件に関与した事実を認め、多額の賠償を約束することは、相当な変化であった。それが絶対性への帰依を重視する信仰である。

 

 一方、ごく一部には、なぜもっと早く謝罪・賠償しないのかと考えていた人もいた。こうして、教団の中で、麻原とその教えに対する見方が一様ではなかったが、この時点では、教団が分裂することはなかった。特に、麻原の家族は、アレフに入会せず、教団の運営から離れたので問題とならなかった。

 

 麻原の家族が教団を離れたのは、ちょうどその前後、麻原の長女と次女・三女との間で争いが起き、長女の住居に不法侵入した容疑で、次女・三女が警察に逮捕されたことがきっかけである。麻原の家族は、違法行為の結果として、離れざるを得なくなったのだ。

 


●アレフ体制の表裏:教団内の不一致・同床異夢

 

 アレフ体制は、裏表が多い体制だった。麻原と教団が事件に組織的に関与したことは認めて、謝罪・賠償をする点についても、一部の信者には、アレフ体制後も、依然として陰謀論を信じ、社会が教団を不当につぶさないためには、認めざるをえない、という人がいた。この考え方は、その後の教団分裂を経て、私がアレフを脱会した後に、今現在のアレフの中で、主流の考え方に復活している。

 

 これは、麻原の信仰を守りたい人は、麻原の主張どおりに考えたいとか、自分の中の麻原の美しいイメージを守りたい人がいるからである。私自身は、麻原の身近で、色々な事を知ったので、美しい平和主義の麻原のイメージは持ちようがない。しかし、裏を知らなかった一般の信者は、自分が形成した、不殺生を説き慈愛に溢れた麻原と教団のイメージと、一連のテロ事件のイメージが、逆に全く一致しなかった人も少なくない。

 

 客観的には、これは、現実を受け入れ、両者を一致させる努力を回避する甘えと言うべきだろう。しかし、いったん依存・中毒状態になると、なかなか抜けられないのが、何かを絶対視する盲信型の信仰である。そして、麻原の事件関与を認めると、実際に、自分の精神が非常に不安定になる人達もいる。

 

 そもそも、2000年まで残っていた信者は、1995年以降に、事件の報道を見て脱会していった大半の信者と違って、とりわけ盲信が深いと思う。彼らにとっては、私を初めとする幹部は、麻原の指示を受けて、坂本事件の89年から約10年間、事件の関与を否定し、時には宗教弾圧として逆批判し、陰謀論や終末予言を説いてきたために、重大な責任がある。それらの長い経緯の後、99年の末になって初めて、教団は関与を認め始めたに過ぎない。

 

 一方、こうした盲信的な信者がいる一方で、2000年の当時からすでに、麻原への思いは依然として残しつつ、麻原や教団の事件関与は受け止め、それに心を痛め、賠償や教団教義の改革が、今後歩むべき道だと理解した人達も、少なからずいた。

 

 もちろん彼らも、一般の人から見れば、麻原への愛著・依存が残っている点で、同じように見えるかもしれないが、こういった人たちは、その後、麻原からの完全な脱却に向けて、変化していくことになり、私を含め、教団分裂を経て、その後アレフを脱会し、麻原信仰を捨て、新しい道を歩むために、新団体・ひかりの輪に参加していく人達が出た。

 

 第二の裏表は、麻原の位置づけそのもので、麻原は、崇拝の対象ではないと発表し、その写真を祭壇から外したが、実際には、ほとんどの信者にとって、麻原は依然としてグルであり、教団内では、「グルを意識する」「グルを観想する」「グルを記憶修習する」と言うが、そのような崇拝の対象として依然として存在していた。よって、麻原の写真が祭壇から外されても、信者は個人で麻原の写真を持つことが許され、麻原の書籍、ビデオ、マントラのテープを所持し、麻原を観想する瞑想をし続けた。

 

 私自身も、アレフ体制発足からしばらくは、「帰依マントラ」と呼ばれる、麻原やシヴァ大神に帰依するマントラを唱えた。予言に関して麻原を相対化しつつ、霊的指導者として麻原を維持していた。分かりやすいように、喩えて言えば、麻原への中毒症状が柔らいで、(予言信仰が無くなり)世界の現実は正しく見えるようになったが、心身は、まだ麻薬を抜けられない状態といっても良いかもしれない。

 

 さて、私が、このヴァジラヤーナ的な思想や麻原への依存を本当に払拭することができたのは、2000年よりずっと後のことだった。完全な払拭は、文字通り、アレフ脱会した2007年より少し前のことだ。

 


●被害者賠償契約の締結

 

 2000年の2月のアレフ発足後、5月に、大きな変化があった。オウムの一連の事件等の被害者遺族に対する賠償を担当する破産管財人の方が、私や村岡(当時のアーレフ代表)を訪ねて、破産管財人と賠償契約を締結することを提案された。破産管財人は、弁護士の阿部三郎氏で、日弁連の会長も務められた人望の厚い方であった。その結果として、賠償契約は7月に締結された。

 

 契約締結には多少の時間を要した。私達が教団の中で話し合う必要があったことと、その一方で、被害者遺族の方の中で、解散を求めて賠償契約に反対する方々もいる中で、阿部管財人が、調整を図る必要があったからだと推察している。

 

 教団の中では、これまでの社会との対立路線のため、総額40億円の賠償を支払う契約に抵抗感を示す者もいた。しかし、その当時は、教団が潰されるという緊迫した状況もあって、大方の理解が得られた(ただ、この状況が落ち着き、私達が脱会し、阿部先生も他界されると、先ほど述べたように、アレフは契約を軽視・無視し始めた)。

 

 一方、管財人と被害者・被害者遺族の方々の話し合いの状況は分からないが、契約は、合法的な限り、教団の事業を認めるものであるから(その趣旨の文書も取り交わされた)、管財人が、様々な状況を考慮し、締結という最終的な判断をしたと認識している。

 

 その当時は、管財人の見解としては、「解散を求める声も強いが、賠償金が必要な人もいる」と報道された。また、後日、管財人からは、個人的に、「被害者の方の中には、解散を求める意見も強いが、一方で、かといって団体・結社の自由もあり、まずは最大限、賠償金を支払わせるのが先決であるという方もいて、一様ではない」と詳しく事情をお聞きした。また、他の被害者関係の弁護士の方からも、「被害者の中には解散を求める声は強いが、同時に賠償金は喉から手の出るように欲しいという方もいる」とお聞きした。

 

 こうした経緯を経て、教団と管財人は、正式に賠償契約を締結し、それは破産手続きを監督する裁判所にも認可された公の枠組みとなった。

 


●教団の変化:賠償支払いと激しい対立の解消

 

 こうして、賠償契約が締結され、賠償金支払いが始まった。この頃の教団の財源は、在家信者からの布施、ソフトウエア事業の収益、一般の外部就労だった。ソフトウエア事業は当初は貢献したが、当局の恒常的な圧力、業界の競争の激化、メンバーの脱会などで徐々に減少した。私は、在家信徒を教化する各地の道場を回り、説法会や連休セミナーを開くなどした。

 

 また、1999年までと違って、社会との摩擦を和らげるように努めた。報道機関、地域住民、公安当局といった外部社会に対して、いたずらに敵対する勢いを和らげた。住民票の不受理の問題は、裁判で勝って、徐々に解消していった。

 こうした中で、2002年1月に、私は、教団の代表に正式に就任することになった。それまでは村岡達子が代表だった。

 


●新しい宗教観の芽生え

 

 代表に就任してまもなく、私に精神的・宗教的な変化が起こり、新たな宗教観が芽生え始めた。それは、その後、2003年に、いわゆる上祐派と反上祐派(主流派)との間の意見の対立=教団分裂の一因となり、さらには、2007年の上祐派の麻原信仰の脱却とアレフからの集団脱会、及び、ひかりの輪としての独立という事態につながっていった。

 

 その第一のものは、その年の6月であった。その時は、私は、群馬県の草津で、かねてから、自分の疑問であった麻原の人格について瞑想しつつ考えていた(悩んでいた)。それは、麻原は、一面では、実際に多くの信者を集めた霊的なカリスマと相当の知性を持ちながら、一方では、ある段階から、狂気的・自滅的な行動を加速させていったため、この二面性を持つ麻原をどう解釈すれば良いかということだった。

 

 信者の場合、前者を取れば、麻原を盲信・愛著し、後者を取れば、麻原に騙されたと憎む結果となる。だから、麻原を信じたい人は、陰謀論を信じたり、思考を停止して麻原には、何か深い考えがあったのだろうとして、後者の麻原を見ない。しかし、一般信者と違って、その両方とも無視できない程に体験した自分は、その板挟みの中で、ある意味で、行き詰まっていた。

 

 しかし、あくまで心の問題なので、言葉で表現するのは難しい。あえて表現すると、理解しがたいと感じていた麻原の部分も、自分の内面を深く考察すれば、自分にも潜在的な類似性があって、仮に、私が麻原と同じような生まれ・境遇を体験をしたならば、麻原と同じようになっていたかもしれないと感じたのである。

 

 そして、それまでの二つの心の働き、すなわち、自分と麻原を区別して、麻原を絶対視し、自分よりも上に見る盲信でもなく、麻原の狂気が、自分には起こりえない不可解なこととして、蔑視・憎悪するでもない心の状態になった。それに伴い、不思議なことに、心が晴れて落ち着き、宗教的な表現になるが、自分の気の流れ・エネルギーの状態が良くなったと感じたのである。

 

 それは、自分が学んでいた仏教の教えに照らせば、自と他の区別が和らいだ状態ということができる。もう少し表現を変えると、私が、麻原のような人物に巡り会い、事件を含めた様々な経験したのも、自分で気づきにくい自分の業の一部であり、心理学的に言えば、表層意識では、麻原の行動は理解しがたい部分があるが、自分の潜在意識(自覚しない無意識)を投影している面がある、とも言うことができるかもしれない。

 

 後になって考えたことも合わせて、もう少し噛み砕けば、麻原は、自己を絶対視し、一連の事件を含めた違法行為を行なったが、弟子達は、麻原を絶対視する中で、自分の自覚としては、グルに無思考に従い、謙虚になる帰依の実践をしているつもりながら、その内奥では、気づかぬうちに、自分と自分が巡り会った宗教を絶対視したい、という自己愛的欲求を満たそうとしていたことは確かだと思う。そういった妄想的な自己特別視・虚栄心・権力欲が、麻原と共通していたのは、客観的に見て確かだと思う。

 


●珍しい虹の現象を体験

 

 この精神的な体験自体が、自分には大きな出来事だったが、それを更に自分に深く印象づける出来事が、その直後に起こった。外に出てみると、空のあちこちに、全部合わせて、7つもの虹が出ていたのである。それは、太陽の周りを囲んでいるもの、その更に周りを囲んでいるもの、そして、太陽の下に棒状になっているもの、太陽から遠く離れているものなど、様々なものだった。

 

 これは、虹が、単に美しい自然現象であるだけでなく、宗教的に神聖な意味を持つことも自分には影響を与えた。例えば、仏教で大陽の周りの虹(日暈)が、ブッダが法を説く前に現れる吉兆とされたり、チベット密教のある宗派では解脱の象徴とされること、さらには、聖書では、神とノアの契約の象徴となっている。そういったこともあって、自分には、虹の前に自分が感じたことが、重要な意味を持つのではないかという気持ちが高まった。

 

 なお、ひかりの輪という新団体の名前の由来の一つは、この時以降、よく見ることになった太陽の周りの虹の光の輪という体験から来ている。ひかりの輪では、輪は、自分と他人の繋がりを重視する物の見方を含め、万物一体平等の思想の象徴ととらえており、仏教で、仏陀や仏法の象徴である法輪や、宇宙・真理・悟りの象徴である仏教の曼荼羅や禅の円相等を初めとして、輪・円・車輪が神聖なシンボルという考え方である(曼荼羅=マンダラとはサンスクリット語と丸いという意味で、円相とは禅で一筆で円を描いたものである)。

 

 その後、私は、郊外の自然の土地で、似たような虹の体験を繰り返した。2002年7月には、太陽の周りを囲む虹と、その外に、スポーク状の直線の虹が、5時間近くも出続けるのを見た。その際は、人の苦しみの裏側には、喜びがある、という仏陀の教えについて瞑想していた時だった。

 

 その虹の鮮明さ、時間の長さ、そして、形などが、非常に珍しいものだったので、強く印象に残った。特に、その形は、仏法の象徴の法輪のようにも思える。

 

 また、その時は気づかなかったが、二回目の虹の日は、7月4日で、麻原の教えを越える上で、非常に重要な教えを学んだ、インドの聖者のラーマクリシュナの弟子であるヴィヴェーカーナンダが死んでから、ちょうど100年後の日だった。

 


●2002年秋、宗教的な体験が続く

 

 2002年の9月ごろには、自分と他人を区別しない仏教的な教えに関する印象的で鮮明な仏教的なヴィジョンを見た。6月の虹の体験と同様に、自と他の区別の柔らかい一元論的な思想に、さらに傾倒していくきっかけになった。

 

 そして、10月になると、自分に更に、大きな影響を与えるヴィジョン(夢)を見た。そのヴィジョンは、最初に火山の噴火があり、その後に龍神のヴィジョンが現れた。その後に、世界中に向けて神聖なエネルギーを発する回転体が現れ、その回転体から、透明感のある赤を中心した美しい色のエネルギーが、私の方に棒のように伸びていた。

 

 私は、それが非常に貴重なものであると感じ、自分の手で掴み、その棒を押すことで、その回転体を回転させた。同時に、その時に、「21世紀の大黒柱」という声が聞こえた。また、その場には、チベットのように赤い服を着た僧がいて、見守っていた。

 

 これが、その時のヴィジョンの概要だが、当時の私は、多くの宗教家のように、これをいわゆる神からの啓示のように受け取った(受け取ってしまった)。この背景には、不思議な体験、神秘的な体験が、連続して起こっていったこともあった。

 


●宗教家が自己の体験を過大視する問題について

 

 これらの体験は、結果として、麻原から自立していく契機となった点では、価値があった。しかし、その一方で、これらの体験に関する2002年の時点の私の解釈は、麻原を含めた宗教家が抱える、自己特別視の問題があったと反省している。

 

 この問題に、一定の答えを出したのは、2005年以降だと思うが、宗教家が、自己の啓示的な体験を絶対視してしまう傾向のことだ。ただし、私の考えは、そういった体験を全て否定し、宗教とその教祖全てを否定するものではない。その場合、そういったヴィジョンに含まれる直感・インスピレーションまで排除されるからである。

 

 私の結論は、そういった啓示的な体験を得たときに、それが、現実を無視した妄想的な自己特別視・絶対視に繋がらないように、バランスの取れた解釈をしなければならないというものだ。さもなければ、自己を神格化するなど、誇大妄想に陥り、本当の悟りからは、離れてしまうと思う。

 

 ただし、現在の宗教界を見ると、教祖の私的な「啓示体験」に基づいて、自己を唯一絶対とみる場合が多く、客観的には、私的妄想と言うべきものだと思う。現代の宗教界は、その信者達のみが共有する私的な妄想が蔓延しているのではないか。

 

 今の時点では、この2002年当時の私と、私を持ち上げた人たちにも、程度の差は大きいが、麻原とその周囲と似た部分があったと反省している。私に麻原の穴埋めを期待した面もあったろう。そして、私は、いくつかの著作を出版することになったが、特に、『覚醒新世紀』と題する本は、自己絶対視の傾向が強かったと反省している。

 

 ただ、長い目で見るならば、これは、自分の失敗・試行錯誤の実体験を通して、バランスの取れた神秘体験の解釈や宗教家のあり方を得るプロセスとなり、麻原に全面的に依存していたのが、少しずつは、自分なりの思想や実践が芽生え始めたことでもあった。

 


●さらに続く不思議な偶然の一致「シンクロニシティ」

 

 さて、大黒柱のヴィジョンを見た後も、色々と不思議なことが起こった。見たヴィジョンと外界で体験するものが、不思議と一致するという現象だった。今思えば、ユング心理学の説くシンクロニシティ(共時性、意味のある偶然の一致)に当たると思う。

 

 大黒柱のヴィジョンを見た後に、何となくフィーリングで、乗鞍連峰に行った時には、現地に到着すると、連峰の多くの山の中で、光っている山が一つあったので登ってみると偶然にも、それは大黒岳という山で、頂上には、その名前が刻まれた柱(=大黒柱)があったりした。

 

 大黒柱のヴィジョンを見た、ちょうど一ヶ月後に、富士山の麓に行くと、富士山の裾野から、まさに柱のように、天に向かって立ち上る、見事な虹を見た。虹は赤色が特鮮やかだった。

 

 そして、この光景全体が、見たヴィジョンとシンクロしていた。まず、ヴィジョンでは火山や龍神が出てきたが、それにシンクロして、赤く染まった富士山や赤が鮮明な虹が出ていた(虹は天かける龍神とされる)。

 

 また、その時ではないが、後に、この虹を見た場所のすぐ近くに、聖徳太子を祭る寺を見つけた。その祭壇に虹の写真があるので、住職に訪ねると、聖徳太子が、この地で虹を見て、聖地であると語ったという伝説(聖徳太子伝説)に基づいて、お寺が建てられたと聞いて、非常に興味深く思った。特に、聖徳大師は、観音菩薩の化身とされ、ヴィジョンに見た赤い服の僧が、観音菩薩の化身の象徴と感じたこととも一致していた。

 

 また、この頃、教団は、大阪の道場の賃貸契約が切れ、移転先の物件を求めていたところ、新しく見つかった物件の最寄り駅が、偶然にも、大黒と同じ発音の大国町であり、近くに、大黒様の神社があったために、私の体験とシンクロしたものとして、大黒道場と呼ばれることになった(日本の宗教文化では、大黑天と大国主命が習合している)。

 

 こういったシンクロ体験は、他にも色々なものがあり、そういった体験と共に、自分の中で芽生えつつある新しい宗教性に突き動かされて、神社仏閣を訪れたり、他宗派の研究を始めた。

 


●柱の信仰、オウムと日本の信仰文化が融合し始める

 

 そして、柱をキーワードとして、ご神木を崇拝する御柱祭で有名な諏訪大社を訪れた。当地の博物館で、諏訪の御柱祭と共通性がある海外の信仰として、オウム真理教の崇拝対象だったシヴァ信仰に関する神柱の祭りが、ネパールにあることが、紹介されているのを見つけた。

 

 私は、ヒンズーのシヴァ神の信仰の本質は、諏訪の神柱の本質と別のものではなく、日本や世界全体に広がる普遍性があるように思った。そもそもが、オウム真理教といえど、日本人の教祖が、日本人の信者と作った宗教であるから、仏教の因果の法則からしても、本来はどこかで、日本の宗教性と縁があるはずだとも思った。一方、麻原は、自分の崇めるシヴァ大神は特別なものであり、一般のヒンズーのシヴァ神とは違うとして、他と区別して、特別としていた。

 

 また、私は、有名な宗教家である出口王仁三郎が、神柱の予言をしていたのに注目し、彼がよく訪れた東北の十和田に行き、そこの神社や、自然でできたピラミッドや、ストーンサークルといった、超古代・縄文時代の遺跡を見た。

 

 特に、ストーンサークルは、中央に石の柱があり、その周りを囲む形だが、それは、ヒンズーの崇拝対象であるリンガとヨニ(シヴァリンガ)によく似ていることに気づいた。この遺跡の名前は、偶然にも、その訪問前に、自分の瞑想の中で浮かんだ名前だったことも印象深かった。また、ある宗教学者が、超古代の環太平洋文明全域において、このストーンサークルと似た遺跡があると報告していることを知り、普遍的な何かを現していると感じた。

 


●インドの聖者にまつわるシンクロ体験

 

 さて、翌年2003年になると、先ほど言及したが、ラーマククリシュナと、その弟子であるヴィヴェーカーナンダに関心をもった。きっかけは、信者の中に、ヴィヴェーカーナンダの容姿や性格・考え方が、私と似ている、という人がいたからだった。

 

 そこで、調べてみると、私だけではなく、私の法友達にも、ラーマクリシュナの教団の弟子達と、その容姿や性格がよく似ている人たちがたくさんいるように感じられ、この類似性を教団で発表したりした。

 

 私は、このヴィヴェーカーナンダの考え方に深く共鳴するところがあった。特に、彼が、師であるラーマクリシュナの死後、師を神の化身として崇拝する兄弟弟子達を叱咤し、その反発を受けながらも、師の崇拝よりも、全ての人々を神の現れと見て奉仕することを唱え(カルマ・ヨーガ)、その教団を改革した点は重要に思えた。

 


●宗教家が語る前生の問題について

 

 ただし、この2003年の時点で、私がこのインドの聖者の生れ変わりでは、という話が出てきたことについては、今思えば、不適切だったと反省している。これは、麻原に限らず、宗教団体にはよくあるが、自分たちが歴史的に偉大な宗教家や人物の生れ変わりという主張は、自分たちを過大視する問題をはらんでいると思う。

 

 今の時点で、この前生に関して考えることは、①第一に、前生や来世というのは、科学的に証明できないことで、ある可能性も無い可能性もあることをわきまえるべきこと、②仮に、ある教祖が過去の偉人の生れ変わりという主張をするならば、少なくとも、唯一絶対の生まれ変わりと主張するのは止めて、他者との闘争に至らぬように解釈して用いられるべきだ(例えば、その偉人の生れ変わりが一人ではなく、多数存在するのであれば争いになりにくい)。

 

 しかし、前生の話を通して、教祖と信者が、自分達が世界全体の救世主であるべきといった錯覚をし、誇大妄想に陥れば、他の宗教や外部社会と争いを起こす。これが正にオウム真理教だったし、植民地侵略時代のキリスト教でだったのだろう。あらゆる宗教・宗派は、自分に自ずと縁のある人たちを救えばよく(来る者は拒まず去る者は追わずの精神)、それ以上に無理に信者を増やそうとすれば、前生の話を含め、何かしらの盲信か嘘、そして、他との争いが生じる。

 


●2003年、教団の改革の試みを始める

 

 こうした体験の中で、教団は、私の権威を高める方向に動いていった。その中で、2月ごろから、私が主導し、麻原をいっそう目立たせなくする教団改革を始めた。

 

 しかし、あくまでも、在家信徒を扱う道場を中心として、麻原を目立たせなくし、新しい信者の反発・違和感を和らげるのが主たる目的だった。その当時の私は、麻原信仰をまだやめておらず、改革とは、麻原の教材の大半は維持する計画であった。

 

 しかし、麻原の家族とそれに従う人達は、後に、この改革を「グル外し」と批判することになった。単に麻原を目立たせなくする程度の改革であっても、なぜ反上祐派がグル外しとして批判したのかというと、その程度でも、彼らにとっては、宗教的に許容できないということだった。彼らの考え方は、グル麻原が絶対であって、表では賠償はしても、内部では、事件の総括・否定さえも拒むものだから、その麻原を目立たなくさせること自体が、その信仰に反する行為だった。

 

 

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