■全国に飛び火する教団反対運動

 

 1999年に入ると、反対運動はさらに拡大していきました。

 

 山梨県高根町に教団が取得した物件も、地元の反対にあい、地元に売却することで手放しました。

 

 茨城県三和町にもともとあった教団施設については、そこに新たに転入しようとした信者の転入届の受理が拒否され、住民登録がされないという事件が起きまし た。これが、全国の自治体に猛スピードで波及し、教団施設が存在しない極めて多数の自治体までもが、信者の転入届の不受理を公に宣言するに至りました。

 

 これは法律上は明らかに違法なのですが、当時、教団が全国に進出しようとしているかのような報道がなされていたので、教団進出におののく地元の不安を静めるための各自治体の苦肉の策だったと理解しています。

 

 これにより、教団の出家信者は施設間を移動するたびに転入届が不受理になり、住民票を喪失する信者が刻々と増えていきました。一時は100名以上の信者が住民票がない状態になりました。

 

 やがて、教団施設がある全国の自治体が「オウム真理教対策関係市町村連絡会」を結成し、全国規模の反対運動を連携して行っていくようになりました。

 


■反対運動への教団の対応

 

 これに対して教団では、地域問題緊急対策室という、全国の反対運動に対応するための部署を設置して対応を開始しました。

 

 「オウム真理教対策関係市町村連絡会」や各自治体に話し合いを申し入れたり、国に仲介を申し入れたり、記者会見やテレビ出演、ビラの配布等をしたりして、 教団に危険性はない旨を訴え続けました。しかし、当時の教団は、事件への真剣な反省や謝罪どころか、一部信者の事件関与すら正式に認めていなかったため、反発を招くだけで、反対運動は拡大する一方でした。

 

 そのうえ、教団へ理解を求めるビラ配りをしていた信者が、マンションに無断侵入したとして逮捕される事件が相次ぎ、家宅捜索など、警察による強制捜査が続発するようになっていきました。

 


■街頭パフォーマンスで批判を受ける

 

 こうしたさなか(99年5月頃)にも、新入信者を勧誘する道場活動の部門では、街頭で勧誘のためのパフォーマンス活動を派手に展開したため、さらに激しい社会的批判を受けることになりました。

 

 このあたりを振り返るに、教団全体で全くといっていいほど連携がとれていなかったことはむろん、それ以前に社会一般の気持ちというものに対する想像が全く欠けていたといわざるをえません。

 


■「サバイバル」に多額の金銭を消費

 地球規模の破局に備えて、教団が前年から避難のための施設を山間部に用意しつつあったことは前記の通りですが、それ以外にも、破局時の生き残りのために、様々なことがこの時期に行われました。

 

 これら一連の行動は「サバイバル活動」などと呼ばれましたが、たとえば1999年5月頃からは、物資の大量購入がなされました。米100トン、塩1トンなど用意し、出家信者全員が助かることを前提にし、ついでに在家信者も助かればよいという認識でした。

 

 それらの物資は、関東周辺の複数のコンテナに保管し、その場所は教団の中でもごくわずかな人しか知りませんでした。いざというときは、出家信者はいくつかのグループに分かれて、そこに行くというプランでした。

 

 ヘリコプターも買ったという情報があります。

 

 こうした物資購入には、CMPにおける多額の収入を費やしたのでした。

 


■1999年の予言が当たらず崩壊へ

 

 このようにして社会の猛反発を受けながらも、事件被害者には一切の賠償をせず、多額の金銭を投入してサバイバル活動を行ったのは、教団上層部や多くの信者が、麻原のある予言を頼りにしていたからでした。

 

 それは、

 

「1999年7の月にキリストが世界に散っている真理の弟子たちを呼び集める。」

 

というもので、麻原の著書『キリスト宣言PART2』に載っている予言です。

 

 つまり、1999年7月にはキリスト=麻原が世界中から弟子を集め、世界的な破局の中で教団の現状を打破するので、それまでは社会の批判にも耐え続けようということだったのです。

 

 しかし結局こうした予言は、全く当たることなく、やる気を失った信者らは、一人また一人と教団を脱会していったのでした。

 


■教団活動の「休眠宣言」

 

 一方、前記のような全国的な反対運動の盛り上がりを受けて、国は、教団を新たに規制するための法律(オウム新法)の制定に向けて動き出しました。

 

 こうした動きや、99年に起きると思われていた世界規模の破局が起きなかったことから、教団でも、ようやく事件について謝罪・賠償すべきではないかという現実的な議論が浮上してきました。

 

 しかし、長老部体制のもとでは、はっきりした意見がまとまらないまま、結局9月末に「休眠宣言」を記者会見で発表するにとどまりました。つまり、在家信者指導の道場活動や、新入信者の勧誘活動等をしばらく休止し、その間、出家信者らが中心になって今後のことを話し合うという趣旨でした。

 

 なお、このとき、道場活動は休止すると言いつつも、現実には、在家信者にABCのランク分けをして、絶対に公安当局に情報を流さない人に会って、お布施を受け取るということもしていました。また、一時閉鎖した教団道場の代わりに、在家信者の家を借りて道場施設の代替にしようとしたりしていました。こうして、教団は、この期に及んでも社会にウソをつき続けていたのでした。

 

 
■ようやく形式的な謝罪・賠償へ

 

 そして12月1日になって、教団は「教団正式見解」を発表しました。

 

 つまり、信者の一部が事件に関与していたことを認めて謝罪し、被害者賠償に取り組んでいくということを、1995年の地下鉄サリン事件から4年以上経って、ようやく表明したのでした。

 

 とはいえ、まだ麻原の事件関与までは認めておらず、被害者賠償の方法も具体化していなかったことから、テレビ出演した村岡代表代行らは、他の出演者から相当の追及を受け、まだまだ真剣な謝罪・反省にはほど遠いという印象を社会に与えました。

 

 正直なところ、この謝罪・賠償表明は、近々制定が予定されていたオウム新法をかわすために、苦し紛れに行った要素が強く、真の反省に基づくものとは到底言えませんでした。

 

 まだまだ信者の多くは、教団は事件に関与しておらず冤罪であるとか、事件に関与していても何かグルに深いお考えがあったに違いないと考えているかのいずれかだったので、到底反省できる状態ではなかったのです。

 

 こうした信者の意識状態に決定的な変化をもたらすことになったのが、12月29日に刑務所から出所して教団に復帰してきた上祐氏でした。

 

 オウム新法は、「無差別大量殺人行為を行なった団体の規制に関する法律」という名で、上祐氏が出所してくる2日前の12月27日に施行されましたが、これは上祐氏が教団に復帰することによって、教団が過激化していくことを恐れての措置でした。

 

 しかし、上祐氏が行っていったことは、抱かれていた恐れとは全く正反対のことでした。

 

 つまり、麻原も過ちを犯すこともある人間だったのだと信者らに語り、麻原への絶対視をやめさせることを始めていったのでした。

 

 それは2000年以降のアーレフの総括の中で詳説してあります。

 


■1995年から99年までを振り返って

 

 以上の通り、ごく一部の上層部を除いた大部分の一般信者は、95年の初めの段階では、教団の事件関与を全く信じていませんでした。

 

 しかし、裁判の進行とともに徐々に事件関与の事実がわかってくるにつれて、マハームドラーの考え方に基づいて、「グルには深いお考えがあったに違いない」 と考え、事件を宗教的に肯定するようになっていきました(または、事件は陰謀だと考え続ける信者も一方でいたことは、前記の通りです)。

 

 これはグルの神格化の結果といえますが、それはまた同時に自分自身を神格化していたということができます。ある特定の存在を神と認定できる能力が自分にあるということは、自分も神と等しいということになるからです。そこには限りない無智と傲慢が潜んでいます。

 

 あるいは、グルを否定することで、自らのアイデンティティーの崩壊を恐れるあまりに、遮二無二グルを肯定するしかない心理状態だったともいえるでしょう。

 

 しかし、こうしたことに気づかずに、事件を肯定し、自らをも神格化するあまりに、社会の不安を考えず、社会に対して嘘をつき、事件被害者に目もくれずに自らの利益だけを追求し、社会の滅亡と自分たちだけの生き残りを考えた結果、オウム新法という形で、結局は自らの破滅を招いたのでした。

 

 これが1999年までの私たちの実態でした。

 

 この傾向は、上祐代表が復帰してアーレフを設立した2000年以降、徐々に変化していくことになります。

 

 以上が、「オウムの会」から「オウム真理教」時代の教団の事実経過等でした。