土方闘騎のブログ -25ページ目

出会い系サイト利用についての個人的見解

 若い部員の中でもごくわずかであるが、新しい異性の出会いを期待して「出会い系サイト」を利用するものがいるので、一度はこの問題を提起し、私の個人的な見解をはっきり述べておきたい。


 まず、「新しい出会いがしたい」という気持ちで読み取れる人間性について、若者であれば誰もが持っているものではあるが、仏法的な言い方であれば西方のはるか彼方に極楽浄土があるという考えに類似していると思う。つまり、他の場所にいけばいいことがあると期待するのと同じではなかろうか?


 出会い系サイト利用については、匿名性の高いネットの世界において、相手の人間性が読めず、さまざまな問題や犯罪に巻き込まれるなどのリスクがある。こういう問題が一切ないのなら、いくらでもやってよい。しかし、現実はそう理想通りにはなかなかいかないもので、「いい出会いがしたい」という欲が自分にある以上、非常に無防備な状態で悪人にいつ利用されてもおかしくない状態にあることを、重々、受け止めなくてはならぬ。


 自分の欲に翻弄されている人間がいるから、性悪な人間の活躍場があるというのだ。出会い系を利用する人間というものは、まさにその集合体だといってよい。もし、悪い人間に出くわしたなら、100パーセント本人の責任である。


 自分の信心に確信があるなら、サイトなど利用せずとも必ずよい相手が見つかると信じきれるものだ。あせっていては不幸になるばかりではないか?


 学会では「出会い系サイト」については一切関係ないし、また個人の自由を制約する権限を持っているわけではない。あくまで「信心の世界」であるということで、ここで明確にしておく。

アメブロから引越しの可能性

 よくよく考えたら、アメブロではなく他社のブログを使ったほうがよかったかもしれないと考えている。


 アメブロの場合、同じ趣味などのブロガーさんとの交流するには適しているが、研鑽ブログとしては個人的にあまり適しているとは思えない。


 まだ検討中。

創価学会は指導主義

 学会は指導主義である。指導と教授とは違う。教授とは教えるということであり、指導とは導くことである。

 創価学会は、最初から、御本尊を信ずることに導くのである。しこうして、信じた後には、信心のあり方を進んで指導するのである。また、信仰即生活であることを指導して幸福へと導くのであって、指導者は、一日も早く会員一同が、幸福であらんことを願うべきである。


(戸田先生の巻頭言・「指導者」より)



 最近、面白い話を聞いた。


 東京のある学生寮の管理人の中で、「警察官・学校の先生・寺の坊主」の子どもに限って、おかしな人間が多くて困っているというのだ。これらの肩書きは本来、人を指導していくべき立場の人間である。学会でも、会員を指導すべき幹部が、自分の子どもに信心の継承ができていないケースが急増している。


 これが近年の創価学会で、若手の育成が進まない要因となっているのだが、なぜこのような問題が起きてしまうのか?大事な点なのではっきりしておきたい。


 戸田先生のお言葉にあるように、学会は「指導主義」であり、明確に指導と教授とは違うことを指摘されている。教えることはもちろん大事だが、根本は「導く」だ。


 私も人材育成という大仕事に大きな決意を抱いている。


 自分の子どもに信心の継承ができない幹部には、まず「指導主義」とは何なのかが本質的にわかっていない。口では会員に向かっていいことを並べ、弁は立つもののいるが、そもそも幹部の仕事って一体なんであろうか?会員を幸福に導くことではないのか?この一点がずれると幹部の存在価値はない。むしろ立場利用であろう。


 会員一人一人が一日も早く幸福になるように導くことが指導主義なのだ。


 自分と会員が御本尊に向かって、師匠と同じ心と誓願をたもち、ともに成長していこう!ともに幸福になろう!と導くのが幹部の仕事である。幹部が本来の仕事を忘れると、会員に対して上からの目線で「教えてやる」のような教授主義に偏り、必然的に親分・子分の関係になってしまう。厳しく言うが、これは立派に「師敵対」だ。


 ともに成長しよう!ともに幸福になろう!という信心の世界に、上下関係など存在しない。この一点だけはどこまでも厳格でなくてはならない。会員・後輩を子分のように扱うような根性では、人材を育てることはできないのだ。