アメブロを退会することにしました。
東日本大震災の影響で、全国各地に転々と出張が重なり、ブログ更新どころではありませんでした。
自分や身内などは無事でいますが、仕事が大変!学会活動すらできていないのが現状です。
こんな状況下で、ブログを続けるのは難しいと判断し、退会を決意しました。
ぐるっぽも解散となります。
そんなわけでして、大変申し訳ありません。
どこの組織、地域でも、どんな人も自分より優れたところを持っています。それを学ぶことを忘れなければ、退転することはありません。
昨日よりやっと連休になりましたが、本当に疲れました。
同時中継が始まりますが、久々に皆さんのお顔を拝することができるので、安心します。
どうか、学会員ブロガーさんもお元気で!!
学会員系の掲示板は、くだらない書き込みが多い。
しばらく、東京・大阪に出張だったので、ブログも放置気味でした。
たまにですが、ティーカップ系・ライブドア系での「創価学会員系の掲示板」を見ていると、くだらない書き込みが多すぎます。
法華講などを破折するならまだしも、学会員同士で批判の撃ち合いには、本当に悲しくなります。
悪い問題に直面すると、「あいつはこうだ!」などという他人の悪い行為ばかり批判するが、自分自身の決意や誓いについては皆無に等しい。こういう流れというのは非常に危険極まりないもので、「破和合僧」につながる可能性もあるため、厳に戒めなくてはなりません。
他人の悪い行為に批判ばかりするが、自分自身が決意表明できない状態では「退転状態」そのものです!魔に負けた姿というものです。法華講の人間性と何ら変わらないのです。
「私が責任もってやります!」
「厳格に戒めていきます!」
この決意に立てば半分の勝利です。後は行動のみ。
法華講の書き込みなんて見てごらん。
学会批判ばかりで、「私が責任もって広宣流布します!」とはどこにも書いていないから(爆笑)。
こういう批判しかできない人間というのは、「責任」と「定見」がないから、好き勝手に言えるのです。だから「責任力」もつかないし、人を感動させるだけの「感動力」もない。
批判力が強すぎる人は「無責任な人」とも言えるのです。
「ダメ」という言葉は他人に対して言うより、自分に対して言うのが本来です。
感動のない信心は権威主義そのもの
2月アタマから出張で東京・大阪に行くので、1週間ほど更新できないので、よろしくお願いします。
ある某幹部から以前にこんなことを言われたわ。
幹部 「土方さん、牙城会をお断りすることは、池田先生にお断りすることですよ」
土方 「なぜ池田先生にお断りしたことになるんですかね?人材育成というのは、何が何でも人材グループに入ったかどうかで決まるもんですかね?」
幹部 「そうじゃないけど、池田先生の作られた牙城会は、やらせていただくものではありませんか?」
土方 「それは貴方がそうすればいいのであって、他人に向かっていうものではありませんね?」
幹部 「それはそうですけど・・・」
土方 「聞きますが、人材育成とは、人材グループに入ったかどうかで決まるのではなく、自分と後輩とが、同じ人間として共に成長していこうとする魂と魂のぶつかり稽古ではないのか?」
最近の牙城会や創価班の勧誘ときたら、本当にいい加減ですな。一体、何がしたいのだ?「私が責任もって、後輩を育てて見せます!!」くらいいわんかい!その勧誘の仕方はワンパターンで、
「池田先生の作られた牙城会(創価班)だよ」
「やらせていただくものだよ」
「君が偉くなって、変えていけばいい」
「実践すればわかる!」
・・と、こんな感じときたもんだ。
普通の部員なら、ここまで言われると「ハイ」しかいえなくなる。それだから、人材が育たんのだよ!そんなことを簡単に口にする幹部なんて、信用できないぞよ(爆笑)。絶対に「自分が責任もってやります!」という決意表明をしないから。
だいたい、後輩が上に対して「ハイ」しか言えないようでは、人材が育っているとはいえない。こういう状態は「イエスマン組織」といって、組織利用魔に汚染されるリスクが高いことすら知らない。
複眼の意見を軽視する組織ってのは、必然的に甘えが慢心が増長するもんだ。
これが、学会員をいかに「断り下手」にしているかがよくわかる。「断り下手」「断れない人」というのは、悪にだまされやすいのだ。だから、土方はきっぱり断る。
幹部には最後にトドメの一発を刺す。
「貴方の信心には感動がない!」と。
だいたい、池田先生があー言った、こー言ったで何が何でも魔法の言葉みてーに、人を動かすことができるものだと勘違いしているんじゃないだろうな?いいか、たとえ100%の正論であっても、その中身に「感動」がなかったら「師匠利用」だということがわからんか?
信心に「感動」がなくなると、人間というのは傲慢で権威主義的になり、他者批判ばかりや、他人に向かって「あーしろ、こーしろ」みたいな命令口調になる。日蓮正宗の田舎法主がいい例だ。あいつらの信心というのは、「感動」がなくなったから、信伏随従しろ!と言ってきたんだよな。感動があったら、こんなことを言う必要ない。
なぜなら、感動のある信心には、言葉で「従え!」と言わなくても、人々は喜んでついてくるからだ。これが本質だ。
法華講の言い分なんて聞いてごらんよ。あいつらの信心に「感動」なんてこれっぽっちもないし、感動がないから他者(学会)批判しかできないのだ。
学会も油断して「感動」がなくなると、日蓮正宗の二の舞になるよ(爆笑)。