キューバ音楽との出会いの旅/イエレスエロ・ファミリー(その2) | 土方美雄の日々これ・・・

キューバ音楽との出会いの旅/イエレスエロ・ファミリー(その2)

2002年5月11日発行の「そんりさ」VOL.73に掲載された原稿です。

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カリダ・イエレスエロがプロの歌手として歌い始めたのは、『COMO YO QUERIA』のライナーノーツによれば、一九四七年、彼女が二三歳の時で、二つ違いの弟のレイナルド・イエレスエロと、もうひとりのメンバーによる「トリオ・トラディシオナル・バラグア」の一員としてだった、という。一九五〇年に「コンフト・マラビージャス・デ・パンチョ・ベルトラン」しいうグルーブに参加、そのころの、まだ二〇代の若々しい彼女の写真が、前記アルバムのライナーノーツに掲載されている。

その後、サイティアゴ・デ・クーバを中心に、いくつかのバンドで歌っていたが、決して全国的にその名を知られた存在とはいえなかったカリダが、文字通り「全国区」となるのは、一九七〇年代の後半、彼女が五〇代になってからのことで、一九八一年には「第三回民音ラテンアメリカ音楽の旅」のメンバーの一員として、来日公演も果たしている。

カリダがこれまでに一体何枚のアルバムを出しているのか、私にはわからないが、一九九八年には『CON SABOR』(ECD001)を、そして、同じレーベル(endirecto)より、前記『COMO YO QUERIA』を二〇〇〇年に出すなど、このところ、その順風満帆の活躍が目立っている。実に晩期大成型の人だ。

彼女の歌はそのスケールの大きさ、豪快さが身上で、それがキューバの「肝っ玉かあさん」風な風貌とあいまって、彼女の実に元気のいい歌は聴く者を勇気づけてくれること、請け合いである。

その彼女が、前記アルバムの中で、弟のレイナルド・イエレスエロと共に、万感を込めて歌いあげているのが、「ベインテ・アーニョス(二〇年)」である。同曲は以前書いた通り、マリーア・テレーサ・ベラが自ら作曲した名曲中の名曲で、カリダの兄ロレンソとのデュオでよく知られている。その後もオマーラ・ポルトゥオンドら多くの歌手によってカバーされているが、やはり同じイエレスエロ・ファミリーのカリダとレイナルドによるデュオは、強く胸に迫るものがある。

一方、弟のレイナルド・イエレスエロの方も、現在、ビエハ・トローバ・サンティアゲーラの中心的メンバーとして、その活動は順風満帆であるように思える。前号で紹介した『PURA TROVA』は、ヴァージン・エスパーニャ移籍以前の曲を集めた二枚組ベスト・アルバムだが、移籍後にヴァージンから発売された『LA MANIGUA』(8468652)や『DOMINO』(8491352)などが、大手CDショップで入手可能である。また、私は残念ながら持っていないが、移籍以前のアルバムには、カリダ・イエレスエロがゲスト参加したものもあるようだ。レイナルドはまた、ビエハ・トローバ・サンティアゲーラの活動とは別に、「レイ・カネイ」の別名でも自らの楽団を率いて活動しており、こちちらの方では一九九九年に『ENAMORADO DE LAVIDA』(8479282)という最新録音盤が、ヴァージンから発売されている。

ビエハ・トローバ・サンティアゲーラはライ・クーダのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ同様、スペイン人のマヌエル・ドミンゲスの企画によって、かつてサンティアゴ・デ・クーバで活動し、今は引退状態の老ミュージシャン五人を集めてつくられた、伝統的なソンの復権を目指すバンドで、そういった意味で、彼らは自発的に集まって、活動をし始めたわけではない。しかしながら、その演奏活動が主に欧州で高く評価されるにつれて、自らの音楽に対する自信や誇りもまた強まり、今、最高にイキのいい演奏を聴かせてくれるグループのひとつになったといえる。