三重県玉城町地域学講座「 築城680年田丸城 名城の謎と魅力」(2018年3月10日) | 城めぐりん

三重県玉城町地域学講座「 築城680年田丸城 名城の謎と魅力」(2018年3月10日)

 

 

 3月10日(土)に、朝日カルチャーセンター名古屋教室で開講された講座 <三重県玉城町地域学講座 『築城680年田丸城 名城の謎と魅力』 を受講してきました。

 

 

 会場は、名古屋市中区栄1丁目の朝日新聞名古屋本社15階の朝日ホール。 講師は、もうおなじみ、奈良大学教授の 千田 嘉博 先生です。

 普通、こういった講演会の時間は、長くて90分くらいですが、今回は2部構成で、合計180分とたっぷりの時間です。

 自治体や公立の博物館などが主催の講演会だと受講料は無料の場合が多いですが、今回はカルチャーセンターの講座ですので、受講料が2,160円です。その料金に見合うだけの内容か心配になるところですが、そこは講師が千田先生ですので、心配するには及ばないでしょう。

 

 それはそうと、最初、なぜ我が三重県の玉城町地域学講座が、名古屋の朝日カルチャーセンターで開講されるのか不思議だったのですが、ハッと気がつきました。玉城町は、朝日新聞社の創始者・村山 龍平 氏の出身地なのです。町には「村山龍平記念館」もあります。その縁で、朝日カルチャーセンターでの開講となったようです。

 

(講演中の撮影は禁止ですので、写真は開演前のこれだけ。)

 

 玉城町は、ちょうど伊勢市と松阪市に挟まれた場所に位置する人口15,000人ほどの町です。

 田丸城は、延元元年(1336)、後醍醐天皇が吉野遷幸の際、伊勢に下った北畠親房が地元の愛洲氏、度会氏などの助力を得て、南朝方の拠点とすべく城を築いたのが始まりとされ、以来680年を経ています。

 室町から戦国期には、伊勢国司・北畠氏の拠点のひとつとして、領域支配の重要な役割を果たし、愛洲氏、田丸氏が治めていたが、永禄12年(1569)、織田信長の進攻による北畠具教との攻防の果て、和睦により信長の二男・信雄が養子として北畠へ入ることとなります。

 天正12年(1584)には、松坂城主となる蒲生氏郷の支配下となり、江戸時代初頭には、稲葉道通が入って田丸藩となりました。その後、藤堂氏の支配地となりましたが、元和5年(1619)、松坂・田丸などは紀州徳川家領となって、家老の久野家が田丸城を預かることとなり、明治維新まで田丸を治めることとなりました。

  平成29年4月6日には、「続日本100名城」にも選定されました。

 (田丸城の訪城時の記録は こちら を参照)

 

 講演は二部構成でした。

 前半の第一部は、「織豊系城郭としての田丸城」と題して、田丸城の歴史や構造についての内容でした。

 近代以降の変遷を、何枚もの航空写真をを使って説明していただいたのがなかなか興味深かったです。

 この写真は、1953年に撮影されたものです。城へと繋がる城下町の鉤型路の様子がよく見えます。

 

 それから、安土城、豊臣大坂城、倭城、熊本城のような連続外枡形が、田丸城でも使用されているという話がありました。そのことから、文禄・慶長期に現在の田丸城の姿が完成したのではないかということです。

 

 

 本丸北端にある天守台

 残念ながら、石垣は積み替えられていて、本来の形状は不明とのことです。あっ、なるほど、よく見ると石が斜めに積まれている落とし積みになっていますね。この積み方は近代以降の積み方ですからね。再発掘して石垣の再修理が必要だということです。(先生は、今の石垣が壊れたら再調査して正しい形に直せるのに…早く壊れないかなぁ… なんておっしゃってました。)

 穴蔵を備えた構造なのですが、穴蔵の中の石段も本来はなかったものだそうです。(そりゃそうですよね。)

 

 

 まとめとして、

 

・田丸城は織豊期の城郭遺構をよく留めた貴重な城閣跡であり、本格的な調査によって織豊系城郭の過程を解明することができる、国指定史跡(現在は県指定)に相当する学術的価値をもつ城郭である。

 

・全体は、稲葉時代(文禄・慶長期)に成立したと考えられ、今の天守台も稲葉時代の天守のものと考えられるが、その前身の、天正3年の信雄の「天主」があり、安土城に準じた最古級天主の可能性がある。

 

・天正期に遡る古式の石垣を残す貴重な城郭であり、計画的な発掘調査を行い、本来の石垣に戻していく必要がある。

 

ということでした。

 

 後半第二部は、「田丸城から安土城へ」 と題して、信長が生まれたとされる勝幡城を例に「室町期から戦国期にかけた尾張の城館」 → 「小牧山城」 → 「岐阜城」 → 「安土城」 と信長の城の変遷についてのお話でした。

 一般的な戦国の城は、大名と他の有力武士が拮抗した横並びの関係であったが、信長は、例えば岐阜城では麓に政庁機能を置き、自身は山上に暮らしたように、家臣との差別化を図る、圧倒的に隔絶した存在の自分を示すような城造りを行っていったということでした。

 

 本日のキーワード:「連続外枡形」「重ね積み」 (#^.^#)

 

 それにしても、前後半合わせて3時間でしたが、さすが千田先生の話術、あっという間に感じました。

 先生もおっしゃられていましたが、10年くらい前であれば、このような講演会の参加者といえば、ほとんどが「オーバー50」のおぢさんばかりで、会場も暗~い感じでしたが、昨今のお城ブームで参加者の年代も広がるとともに、女性の姿が格段に増えましたね(喜ばしいことです)。この日は、小学生の姿もチラホラ窺え、頼もしい限りです。御夫婦やカップルで参加されている方もおられ、こちらはうらやましい限りですね。(^_^;)

 また、田丸城にしても、それこそ以前は、「どこそれ?」という感じでしたでしょうが、千田先生が、「田丸城、もう既に行ったことあるよという方?」と尋ねると、半数以上の方が手を挙げておられました。「続日本100名城」の効果もあり、これからますます訪れる人が増えるでしょうね。

 

 玉城町の観光パンフレットが入っていたクリアファイル

 こういうのは嬉しいですね。