伏見連続講座「発掘調査から見た伏見城」(2017年11月4日) | 城めぐりん

伏見連続講座「発掘調査から見た伏見城」(2017年11月4日)

 11月4日(土)に、伏見連続講座を受講してきました。伏見の魅力を再発見してもらうことを目的に、京都市伏見区が平成23年度から開講している講座です。

 

 今回は、『伏見学舎』という地域の住民の方々のボランティア団体の主催で『発掘調査から見た伏見城』と題した講演会です。

 

 場所は、伏見区総合庁舎1階ホール。定員は150名ということでしたが、用意されていた資料も刷り増ししなければならないほど、机と机の間の通路にも椅子を並べて、満員御礼でした。

 

 講師は、京都市考古資料館 館長の前田義明 氏で、発掘調査の写真を見ながら、これまでの成果について説明いただきました。

 

 伏見城が存在したのはわずか約30年間。その短い期間を4期に分けることができるという。

 第1期 文禄元年(1592) 伏見指月に新屋敷の造営開始

 第2期 文禄4年(1595) 指月城の拡張工事、淀城破壊し伏見城へ

 第3期 慶長元年(1596) 大地震で指月城倒壊、伏見木幡山に再建開始

 第4期 慶長6年(1601) 関ヶ原の戦いで陥落、徳川家康が再建

      元和9年(1623) 伏見城破却

 

 廃城後徹底的に破壊されたため、地上で城郭の痕跡を探すことが困難な状況であるのに加え、城郭の中心部には桓武天皇陵、明治天皇陵、昭憲皇太后稜の三つの御稜が築かれています。

 また、昭和39年(1964)には「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地が建設され、模擬天守も建てられました。もちろん、本来天守が建っていたであろう場所とは異なります。

  

 そのような状況の中、外側にあたる武家屋敷区域や町家区域では開発に伴う発掘調査が実施され、また、最近では指月城推定地の発掘調査で、堀や石垣が検出されており、今後の調査の進展も期待されているところです。

 

【指月城調査位置図】

 指月城は、南側を宇治川北岸の崖、東側を舟入りと呼ばれる窪地、北側を現在の立売通、西側を豊後橋通に囲まれている区域になるそうです。

 

 近年の発掘調査で、東から西へ傾斜する地形をひな壇状に造成し、石垣を備えた堀で区画されていることが判明したそうです。

 

 

 木幡山伏見城の城郭中心部は御稜となっているため未調査ですが、御稜の周辺部では調査が実施されているとのことで、北堀公園整備工事に伴う調査では、堀の石垣が長さ40m、高さ3~4mの規模で検出されているそうです。

【北堀公園で検出された石垣】

 

 御稜の参道内では、下水道設置工事に伴う立会調査で石垣の石材が発見されたということで、現在は刻印や矢穴があるその石材が参道脇に並べられているとのことです。

 

 武家屋敷区域では、昭和52年(1977)に宅地造成中、偶然に石垣が発見されたということです。石垣の全長は41m、高さは0.8m~1.2mで、石が2段分残存していたそうです。

 

 同じく武家屋敷区域の伊達街道では、路面と石組みの側溝・礎石建物が検出され、2回の火災を受けていることが判明したとのことです。

 

 上板橋通りの拡張工事に伴う調査では、路面・石組み側溝・石垣が約300mにわたって検出されたそうです。

 

 御香宮の西側の桃山町金森出雲では、武家屋敷の門跡が良好な状態で検出されたということで、門跡は西側の南北道路に面し、遺構は焼け瓦を含む焼土層に覆われ、火災を受けていることも判明したとのことです。

 

 御香宮神社の表門は、伏見城大手門を移築したものと伝わっていますが、大手門にしては小さいので、どこかの武家屋敷門であったのではないかとおっしゃられていました。

 

 桃山町松平筑前の調査では、礎石建物・掘立柱建物・柵列・井戸が検出されているとのことです。

 

 城下町の西部にあたる京町・両替町・今町・東組町の町家区域の発掘調査では、桃山時代から現代まで、重複して建物・井戸・柵列・土壌などが検出されているとのことです。

 

 立売町の調査では路面と側溝が検出され、道路に面して町家跡が並んでいることが判明しており、町家跡は小さい礎石を用いた建物で、土間と床張りが認められ、カマドも付設されているとのこと。建物は火災を受けており、地震による地割れも検出されているそうです。

 

 現存する伏見城からの移築といわれる建造物の紹介されていました。

 福山城の伏見櫓は、解体修理の際に、梁の陰刻に「松の丸東やぐら」とあるのが発見され、伏見城からの移築であることが明らかになったとして知られていますね。

 

 この日は、伏見城だけでなく、淀城についても紹介されていました。

 戦略上の要所として、承久の乱(1221)、明徳の乱(1391)では軍勢の集結地となり、15世紀には拠点としての城館(淀古城)が築かれたといいます。

 淀古城は、山崎の合戦(1582)に勝利した豊臣秀吉の支配下に置かれ、天正17年(1589)には、側室・茶々の産所として修築・整備されます。

 文禄3年(1594)、指月城の拡張・整備に伴い淀古城は廃城となりますが、元和9年(1623)、今度は伏見城の廃城に伴い、改めて淀に新しい城郭(淀新城)が造営されたということです。

 

 寛永元年(1624)には、二条城の天守が淀城に移築され、伏見城からも建物や石垣の石材が運ばれて再利用されたということです。

 

 淀城本丸天守台の発掘調査では、天守地下の石蔵が発見され、整備がされているとのことです。

 

 京阪電鉄高架工事などの発掘調査では、内堀や中堀の石垣・米蔵・道路跡が見つかっており、東曲輪跡で検出された米蔵の規模は、梁行10m、桁行40mと推定される長大なものだそうです。

 

 平成27年(2015)7月の台風の影響で、桂川河川敷の土が流出し、石列や木樋が露出したため調査が実施され、池跡・木樋・石組み遺構が検出されたそうです。

 

 淀城といえば「水車」があったことで有名ですが、検出されたのは桂川に設けられた「淀の水車」に関連する遺構と推定されているそうです。

「都名所図会 淀」に描かれた「淀の水車」

 

 伏見連続j講座では他にも興味深いものがありますので、機会があればまた参加したいと思います。