特別展「安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信」(2017年2月18日)
2月18日(土)に、安城市歴史博物館で開催中の特別展『安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信』を観に行ってきました。
安城市歴史博物館では、これまでにも地元ゆかりの武将や大名を紹介する展覧会が開催されてきたとのことですが、今回は、没後400年を迎えた本多正信に関する展覧会です。
本多正信は、天文7年(1538)に、三河国小川(現・安城市小川町)に生まれたとされるということですが、他に西城(西尾)とする説や、駿河久米とする説もあるということです。
徳川家康より4歳年上であり、側近として優れた行政手腕で初期の江戸幕府を支えた人物ということで、昨年の大河ドラマ「真田丸」では、近藤正臣さんが演じておられたのが印象にありますね。
しかし、家康の三大危機の一つとされる三河一向一揆の際には、弟・正重とともに門徒側について家康と敵対するなど、その生涯には紆余曲折もあったようです。
今回の展覧会では、正信の出生から、三河一向一揆後の放浪時代を経て家康の下に戻り、やがて江戸幕府の重鎮になっていく様やその働きを、さらに、弟・正重や息子の正純・政重の動向について、様々な史料から読み解くものということです。
今回も展示図録を購入しましたので、その中からお借りしていくつか紹介。
第1章 本多家の出自
本多氏は豊後国本多の助秀から始まり、その後、足利尊氏に従って尾張に領地を与えられ、その後三河に移ってきたとされる。本多正信の曽祖父・忠正は、三河で生まれて松平清康に仕え、また、正信の父・俊正は家康の父・広忠に仕えたという。
正信の妻は法名を桂芳院殿永昌大姉といい、三男二女を設けたとされ、男子は正純・政重・忠純とのこと。
【本多正信像・本多正信夫人像】
正信の菩提寺である浅草の徳本寺に伝わるものということです。
第2章 本多家の三河退去 ―放浪の二○年―
《永禄7年~天正10年》
永禄6年から7年(1563~64)に起きた三河一向一揆で、正信は一揆方として、松平家内の実力者・酒井忠尚の城であった上野城に籠ったという。
一揆が平定された後、正信は家康のもとに帰参せず、ともに上野城に籠った弟・正重とともに三河を出たとされるとのこと。弟・正重は4年後の永禄11年(1568)には帰参したとされるが、正信は20年近く三河に戻らなかったという。
【上野城古図】
広島藩主・浅野家に伝えられた「諸国古城之図」の1枚で、三河一向一揆で家康に敵対した酒井忠尚の上野城を描いたもの。「三河物語」によると、本多正信はここに籠ったとされるとのこと。
第3章 復帰 ―家康の側近―
《天正10年~慶長8年》
正信がいつ家康のもとに帰参したかには諸説あって確定していないが、確実な史料で名前が見られるのは、天正10年(1582)10月とのこと。
関ヶ原の戦いでは、正信は秀忠や家康配下の譜代衆、甲斐・信濃の大名らとともに東山道を進軍。上田城の戦いでは城を落とすことができず、関ヶ原に参戦することはできなかった。
【真田信幸宛徳川家康書状】
関ヶ原の戦いの際、真田信幸が父・昌幸と別れ、家康に付くことを知らせたことに対する家康の返書ということです。家康は、安房守(昌幸)が背いて上田城に帰ったにもかかわらず、日頃の忠義を違えることなく出仕したのは奇特千万であると真田伊豆守(信幸)を賞し、詳しい指示は本多佐渡守(正信)に申し述べさせるとの内容であるとのこと。
【勝色威黒漆塗仏胴二枚胴具足・黒漆角頭巾兜(木兎形)】
正信の七歳下の弟・本多正重家に伝えられた具足と兜とのこと。関ヶ原の戦いで正重は、本多忠勝の配下として家康の近くで参陣したとのこと。
第4章 江戸幕府の重鎮
《慶長8年~元和2年》
慶長8年(1603)に家康、同10年(1605)に秀忠が征夷大将軍に任ぜられ、家康・秀忠のもとには国政をあずかる年寄衆が形成されていったという。その中で、家康のもとで正純、秀忠のもとで正信が頭角をあらわし、年寄衆の筆頭格となっていったといい、正信・正純は大名政策、宗教政策、外交など様々な分野で活躍したという。
正信の次男・政重は、天正8年(1580)に生まれ、倉橋家の養子となったが、秀忠の乳母の子を殺害して出奔。慶長9年(1604)に上杉景勝の重臣・直江兼続の養子となり、慶長16年(1611)には以前仕えていた加賀前田家に再び出仕して、前田家家老となったとのこと。
政重は、幕府と上杉・前田家の間を取り持つ役割を果たしていたという。
【直江景明宛直江兼続書状】
直江兼続が、江戸にいる息子・景明に、上杉家家臣・武田信清が江戸に上ったことを知らせる書状であるとのこと。大久保長安事件に関するもので、書状の中で、正信が取次役を務めていたことが確認できるという。
【上杉景勝宛徳川秀忠書状】
徳川秀忠が、上洛の供を申し出た米沢中納言(上杉景勝)に対し、その免除を言い渡した書状とのこと。上洛については未だ決定していないが、たとえ上洛することになっても供は無用、だがこの申し出には満足している。詳細は本多正信が申し伝えるとしているとのこと。
【直江兼続起請文案】
直江兼続が、養子となる政重(大和守)に対して出されたと思われる起請文の案とのこと。「さとさま御かいほうわすれ」とあり、この養子縁組に正信が関わっていることが分かるという。
【本多政重起請文案】
上杉家に対し、問題になるような行為を慎み、景勝だけでなく、その後継者である喜平次(定勝)に対しても一筋に奉公することを誓う政重の起請文案とされるものとのこと。
【本多政重宛本多正信書状】
正信が次男・政重に宛てた書状で、試し切りや人を成敗することは極力他人に任せ、自ら手を下すことのないよう諭し、同僚には礼儀正しく、悪口を言ったりしないよう戒める内容。政重が前田家に出仕する際に注意として与えたものと推定されるとのこと。
【真田信幸宛本多正信書状】
真田信幸からの父・昌幸の葬儀についての相談に対する正信の返書。父の弔いを希望する信幸に対し、昌幸は「公儀はばかりの仁」であるので、家康・秀忠の許可を得るべきと指南しているとのこと。
【大坂城古図】
真田信幸の家臣・矢沢家に伝わる大坂冬の陣の布陣図。「本城」と書かれた大坂城本丸の南に突き出した部分に「真田左衛門佐」と書かれている部分が「真田丸」と考えられる。参陣していた真田信幸の息子・信吉あるいはその側近が書き残したと考えられているとのこと。
第5章 本多家の没落
元和2年(1616)、家康は正月に鷹狩に出た際に倒れ、4月17日に死去。その2か月後の6月7日に正信も死去したという。
家康の年寄であった正純は、家康の死後、秀忠の年寄に加わり、元和5年(1619)には下野宇都宮15万5千石の大名となった。
元和8年(1622)、最上義俊の改易に伴う山形城受取の上使として山形に派遣された際、江戸から派遣された正純糾問の使者により、由利5万5千石への所領替えを命じられたが、正純はこれを固辞したため佐竹義宣預かりとされ、後に横手で幽閉の身となったとのこと。
正純の嫡男・正勝も領地を没収され、幽閉されたが、その一方で、正純の兄弟の政重や忠純は罪を蒙らなかったという。
【本多政重宛藤堂高虎書状】
正純の失脚に際し、藤堂高虎から本多政重に宛てた書状。正純と政重の間柄が「悪しき事」をよくよく申し上げておいたので安心するように、委細は酒井忠世と土井利勝から伝えられること、前田利光によく奉公するようになどと記されているとのこと。
この書状の2日前に、酒井・土井から親族にはお咎めなしとする書状が政重・忠純に出されているとのことで、それに高虎が関わっていたことが分かる書状であるとのこと。
【横手城下絵図】
横手の城下を描いた絵図で、本丸の南に「上野台」と記された場所があり、ここが正純・正勝が幽閉されていた場所と推定されるとのこと。
(上の絵図を拡大)
幽閉は寛永14年(1637)、正純が亡くなるまで続いたという。