番外編128 玖島城(大村城)(2016年8月26日)
【長崎県大村市】
玖島城(大村城)は、大村湾に突き出した玖島崎に築かれた平山城で、北・西・南を海に囲まれた海城である。
キリシタン大名として知られる大村純忠は、豊臣秀吉の九州平定の際にはいち早く降伏し、嫡男・喜前を秀吉軍に参陣させ領土を安堵されたという。、喜前は朝鮮出兵にも参陣し、喜前もまたキリシタン大名であったが、キリシタンへの弾圧が強まるとあっさり改宗するなど、機を見るに敏な対応で所領を守り続けたとのこと。
慶長3年(1598)、秀吉の死後、文禄・慶長の役から帰った喜前は、それまでの居城・三城城に替わる新城の築城に着手、翌年完成したのが玖島城(大村城)で、以後、明治維新まで12代にわたり大村氏の居城であった。
喜前は、慶長の役の際に立て籠って明・朝鮮の大軍を撃退した順天城を参考にして築城場所を選んだといわれている。
縄張は、本丸の南に二の丸、その西に三の丸を配した梯郭式で、天守は建てられなかったという。築城当初は北側を大手としていたが、2代藩主・純頼のときに大修築が行われ、角堀、長堀などを掘削し、北側から南側に大手門が付け替えられたとのこと。
明治維新後に廃城となり建造物は破却され、明治17年(1884)に旧藩有志により本丸跡に大村氏歴代を祀る大村神社が創建された。昭和14年(1939)に城跡は大村公園となり、平成4年(1992)には二の丸南西隅の板敷櫓が復元されたという。
遺構としては、本丸、二の丸、三の丸の石垣や土塁、空堀のほか、三の丸南西部には全国的にも珍しい御船蔵跡の石積遺構が現存している。
珍しく長崎出張などという機会がありましたので、時間は限られていましたが玖島城(大村城)へ行ってみることにしました。久しぶりの番外編ですね^^;
この日もとても暑い日だったので、JR大村駅からバスに乗るつもりが寸でのところでまさかの乗り遅れ。仕方がないので歩いて向かいました。自分の計算では城跡の大村公園までは1.8km程のはず。暑さの中でも耐えられる範囲かと…
駅から南に向かって15分程歩き、大村幼稚園のところを西へ曲がる。大村小学校の南側のこの通りが本小路跡とのこと。
初代藩主・大村喜前は築城時、城下に五小路を設け武家屋敷を配置したといい、その一つがこの本小路。大手入口を起点として、正面400m余りの通りで、大村藩会所、藩校五教館、上級家臣の屋敷が並んでいたとのこと。
その藩校・五教館御成門がこの通り沿い、大村小学校の南側に残されている。
大村藩が設立した藩校・五教館の起源は、4代藩主・大村純長が寛文10年(1670)に大村城内に創設した藩校・集義館にさかのぼるとのことで、武士の子弟だけでなく広く一般にも聴講が許されていたという。元禄7年(1694)には性静寿園と改められ、学寮としての五教館と武芸場としての治振軒と、文武両道を学ぶ藩校として整備されたとのこと。その後、入学者の増加により、天保2年(1831)に現在の大村小学校の位置に移転され、明治6年(1873)に廃校となった。
この御成門は通称「黒門」と呼ばれ、藩主が来校した時の専用門として使用されたとのことで、現在は、大村小学校の入学式と卒業式の時だけこの門が開かれ、生徒がくぐることになっているのだという。
本小路を西へ歩いて行くと、国道34号に突き当たり、その向こうに城址の大村公園が見えてくる。
ここから城址を散策する。
↓長崎県中近世城館分布調査報告書から縄張図をお借りして加筆
↓国立国会図書館蔵の日本古城絵図 西海道之部 大村城図で見ると…
国道を横断すると、公園入口の所に大村神社の一の鳥居が建っている。この場所が大手入口門跡とのこと。(縄張図の①)
大手入口門跡の北側に広がる広大な池が角堀跡(縄張図の②)
北・西・南の三方を海に囲まれ、唯一地続きとなっている城の東側には慶長19年(1614)の改修で広大な角堀が掘られ、城を陸地から切り離しているという。南側へ移された大手口との連絡は細い通路のみとなっていたとのこと。
角堀跡の南西部にあるのが、同じく慶長19年(1614)の改修時に掘削された長堀跡(縄張図の③)
長堀の外側の通路が二重馬場跡(縄張図の④)
大手入口門から大手口に通じる2本の道で、これも慶長19年(1614)の改修時に造られた。一方の道は荷物の運搬と騎馬兵の通行用で、もう一方の道は歩行専用と分けられていたとのこと。
二重馬場跡の通路を真っ直ぐ歩いて行くと、右側に大手口の石垣が見えてくる。
二の丸南西部、大手口南側に突出する櫓台上に、平成4年(1992)、二重の板敷櫓が復元されている。(縄張図の⑥)
かつては、この板敷櫓前面に舟入が設けられ、大手口と舟入を監視する役目を担っていたという。初重は下見板張で、隅に石落しが設けられている。板敷の名は地名に由来するとのこと。
板敷櫓台の石垣。
2代藩主・純頼は、城の改修にあたって肥後の加藤清正の設計指導を受けたといわれており、この「扇の勾配」はその成果でしょうか。
現在、四の鳥居が建っている場所が大手門跡。(縄張図の⑦)
慶長19年(1614)の改修の際、それまで本丸北側に配置されていた大手口はこの二の丸南側に移設されたという。
東側から大手口へ至る高さ約3m、幅約2mの埋門で、南側の正面からこの通路は見えず、隠門的な存在であったという。
東側(外側)から見たところ。上から石が落ちてきそうでちょっとくぐるのに勇気がいる。
大手口は城内で最も複雑な虎口となっているとのことで、枡形内部に西側に突出する石垣を築き、単なる枡形空間よりさらに複雑な通路を形成しているとのこと。
二の丸の西側、三の丸との間は空堀で区切られる。(縄張図の⑩)
二の丸跡から本丸跡へ向かう。本丸には東、南、北の3箇所の虎口が設けられていた。この3つの虎口の形は、慶長19年(1614)に大手を北側から南側に移したときに固まったとのこと。
本丸跡へ南側の台所口門跡から入る。(縄張図の⑪)
藩主の住居を俗に御台所と呼んだことから、その出入口にあったこの門を台所口門と称したとのこと。
本丸跡(縄張図の⑫)
本丸は西半分、現在大村神社本殿がある一帯に大広間や侍詰所など政庁があり、東半分、現在玖島稲荷神社がある一帯には藩主の居館があったとのこと。
本丸の広さは3,527坪で、その内建物敷地は648坪とのこと。周囲は高さ5尺8寸の塀で囲まれており、塀には矢狭間121箇所、鉄砲狭間123箇所、石火矢狭間6門が設けられていたとのこと。
キリシタン大名・大村純忠の長男として生まれた喜前は、自身も幼くして洗礼を受け、その後、佐賀の龍造寺隆信のもとで人質として過ごしたという。
純忠から大村家を相続し、秀吉の薩摩天草攻め、朝鮮出兵に従軍した後、慶長4年(1599)に玖島城を築いて新たな城下町を造り、徳川幕府が開かれると、初代大村藩主となった。藩政の基礎固めを進めた喜前であったが、元和2年(1616)、48歳で急逝したとのこと。
この碑は、大正4年(1915)に建立されたものとのこと。
本丸跡の東半分は玖島稲荷神社となっている。(縄張図の⑬)
その場所に建つ「藩主の御居間跡の碑」
説明によると、明治初期に、戊辰の役で戦死した少年鼓手・浜田謹吾の父・浜田弥兵衛重義によって建立されたものとのこと。
本丸跡北側の搦手門跡(縄張図の⑭)
その他、本丸跡に建つ「大村彦右衛門純勝碑」
大村彦右衛門純勝は、純忠から純信までの4人の当主に仕え、玖島城築城や御一門払いといった重要な政策に関わるなど、大村家発展に大きな役割を果たした人物であるとのこと。
この碑は彦右衛門の忠節を称え、明治40年(1907)に建立されたもの。
上に大小2つの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝の音を出すのでこの名があるとのこと。
天正年間に龍造寺隆信が萱瀬村を襲撃した時、同村の郷士たちが藩主・純忠の命を奉じて管無田の砦に立て籠り、隆信と戦う時この石の穴を吹いて合い図の陣具に代用し、敵を追い退けたという伝説があるという。
こちらが二の丸から本丸へ入る正面口であり、石垣によって狭めた鉤の手状の通路となっており、厳重な枡形虎口となっている。
こう見ると、大手門から二の丸を経て本丸へ至るルートは厳重で、高石垣に囲まれ、つづらに折れを繰り返すという、いかに複雑であったかがわかる。
浜田弥兵衛重武は、江戸初期の朱印船貿易家で、長崎代官・末次平蔵配下の船長であった人物であるとのこと。弥兵衛の子孫は代々大村藩に仕えたといい、戊辰の役で戦死した少年鼓手・浜田謹吾もその一人であるという。
二の丸跡から大手門跡を出て西へ進む。
板敷櫓の南西に見えるのは、貞享3年(1686)に新設された新蔵波止と呼ばれる防波施設(縄張図の⑯)
幕府が官米三千石を筑前から運んで預けた時、2棟の新蔵を建て、この波止が築かれたといい、以後も藩船などの船着場として利用されたとのこと。
本丸、二の丸の西側の三の丸跡は、現在、長崎県教育センターの敷地となっている。(縄張図の⑰)
その三の丸跡の西端には、全国的にも珍しい御船蔵跡の遺構が残っている。(縄張図の⑱)
4代藩主・純長が元禄年間(1688~1703)に築造したもので、藩主の御座船をはじめ、藩の船が格納されていたという。元は外浦小路の入口にあったものが、この板敷浦に移されたとのこと。
御船蔵はドック形式で、南から大・中・小と3基並んでいる。最大の船蔵は約30m×10m、次いで約15m×8m、最小のものは約15m×5mの大きさとのこと。
当時は、風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われるとのことで、石垣には柱穴が残っている。
江戸後期に、大村藩10代藩主・純昌が別邸として建築したもので、廃藩置県後、分家の大村男爵家の住居となっていたものが、昭和38年(1963)に県の施設に、平成2年(1990)に大村市の施設となり、現在は大村市教育の館として使用されているとのこと。
暑さと格闘しながら、とりあえずひと通り散策を終え、帰りもバスに乗り遅れ、大村駅まで歩いて戻る。