番外編120 韮山城(2014年1月10日登城)
【静岡県伊豆の国市】
韮山城の最初の築城については明らかではないが、『北条五代記』によると、文明年間(1469~86)に堀越公方・足利政知の家臣・外山豊前守が城を築いたのが始まりとされているとのこと。
明応2年(1493)、今川氏の客将であった興国寺城の伊勢新九郎盛時(宗瑞・後の北条早雲)が、堀越御所の内乱につけ込んで足利政知の子・茶々丸を討ち、伊豆へと進出。ほどなく伊豆一国を平定すると、伊豆支配の拠点として本格的な築城に取り掛かり、堀越御所の東の天ヶ岳から派生する龍城山と呼ばれる尾根上に韮山城を築いたという。築城の正確な年代は分かっていないが、城内に熊野神社を勧請した明応9年(1500)「熊野三所権現棟札」から、この頃までに築城されたものと考えられているとのこと。早雲は伊豆平定後、さらに小田原の大森氏を滅ぼしたが、小田原城を奪ってからも生涯韮山を本拠としたという。
北条に改姓した2代・氏綱は、相模国小田原を本拠として本格的に関東へ進出していくこととなるが、韮山城は伊豆支配の拠点として、今川氏・武田氏をはじめとする西方大名に対する守りの要として、重要な役割を担っていたということである。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐にあたり、小田原城の支城である山中城へ7万人余、韮山城へ4万4千人の兵を向かわせる。この時、山中城はわずか半日で落城したが、韮山城の城主・氏規(氏政の弟)は3千人余の兵で3か月守り抜き、最後まで落城することなく、小田原城とともに開城したという。
その後、韮山城には徳川家康の家臣・内藤信成が城主として入るが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に廃城となったとのこと。
城は、伊豆半島の田方平野の東にある天ヶ岳とそれに続く尾根上に城砦を築いた難攻不落の大城砦群で、標高128mの山頂に天ヶ岳砦、北西に中心となる本城(主郭部)、城池を挟んで東に江川砦、本城の南に土手和田砦、さらにその南東に和田島砦があり、それらの城砦は尾根を通じて連絡している。
本城(主郭部)は、龍城山と呼ばれる細い尾根上にあり、ほぼ南北に延びる直線連郭階梯式の構造で、北から三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸の4つの曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪がある。
登城にあたり、サンライズ出版「静岡の山城ベスト50を歩く」掲載の図を参考にする。
↓ 韮山城縄張図(クリックで拡大)
(サンライズ出版「静岡の山城ベスト50を歩く」より)
三島駅から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って韮山駅で下車。駅から東に向かって15分ほど歩き、静岡県立韮山高校の東側に回り込むように進むと、城池が現れる。
城池の対岸から韮山城を望む。
現在は城池親水公園として整備されているが、往時の韮山城は沼地とこの池に囲まれていて、対岸から城までは約60mあり、城を取り巻く池や深い沼が自然の防波堤となっていたという。
城池の北側を歩いて登城口の方へ進む。登城口の右手には水濠の跡が見られる。
登城口から散策を開始。今回は、残念ながら時間の関係で、周辺の城砦群は攻めることができず、本城(主郭部)のみの登城。
この登城口からの散策道は、三の丸と権現曲輪を区切る堀切道。(縄張図の②)
写真の左側が権現曲輪跡。かなりの高さがある。木が倒れていてなんかいい感じ。
三の丸跡は現在テニスコートになっている。(縄張図の④)
三の丸は主郭部の中で最も広い曲輪で、先ほどの東側の他、北、西側の三方を高い土塁が巡っている。
テニスコートを右に見ながら西へ進む。現在は、三の丸跡の地面は削平されてかなり低くなっているとのことであるが、本来はこの部分は堀切になっていたはず。
堀切道を挟んで三の丸跡の南側にある権現曲輪跡。(縄張図の⑤)
権現曲輪跡から登城口となっている三の丸跡との間を区切る堀切道を見下ろしたところ。
熊野権現神社の社殿は、権現曲輪東側の一段高い場所にあり、東側から城内へ入る通路や北東一帯を見下ろすことができることから櫓があったことも考えられるとのこと。
社殿のところから三の丸への虎口を見下ろすとこんな感じ。侵入する敵を狙い討ち。
熊野権現神社は、明応9年(1500)9月、伊勢新九郎盛時(宗瑞・後の北条早雲)が韮山城の守護神として創建。天正18年(1590)の開城後は、土手和田村村民の崇敬をあつめて神社の維持経営がなされてきたという。
権現曲輪跡のさらに南に続くのが二の丸跡。かなりの高低差がある。
二の丸跡。(縄張図の⑦)
二の丸跡は土塁の遺存状態がよく、虎口部分を除いてほぼ全周を巡っている。
標高41.7mの最高所に位置する本丸跡へ入る。(縄張図の⑨)
台形状を呈する本丸としては小さな曲輪で、北側と東側に土塁が巡っている。
城がある尾根の北西部の平地は、現在韮山高校の校舎とグランドとなっているが、発掘調査によって、井戸や園池遺構が検出され、大量のかわらけや陶磁器、漆椀などが出土しており、この場所の字名「御座敷」が示すように、城主などの日常の生活空間として使用されていたと考えられるとのこと。(縄張図の⑩)
そして、本丸跡からこの方向には富士山が・・・
午前中は静岡市内からでもきれいに見えていたのに・・・ 雲のバカっ!!
さらに本丸跡からは、源頼朝の流刑地とされる「蛭ヶ小島」も見える。
尾根の南端には土塁に囲まれた2つの小さな曲輪がある。(縄張図の⑪)
15m×10m程のこの曲輪は、小字名からも塩蔵址と伝えられているが、高い土塁や虎口の石積みなどの構造からみて煙硝曲輪の可能性が高いとのこと。
振り返って尾根南端部の塩蔵址を見たところ。その先は大堀切となっているとのこと。
本丸跡の西下を抜け、二の丸跡、権現曲輪跡、三の丸跡と通って最初の登城口まで戻る。
韮山城を後に、近くにある韮山郷土史料館と重要文化財江川家住宅へ向かう。
江戸時代、東国の幕府直轄領を支配するため韮山代官所が置かれ、代官の職は代々江川氏が世襲して勤めたとのこと。
江川家住宅表門。元禄9年(1696)建築の三間一戸の薬医門。
主屋は桁行13間、梁間10間、棟高約12mで、原型となる建物は慶長5年(1600)前後に建てられたと推定されているという。部材の中には室町時代まで遡るものもあり、江戸時代を通じて何度か大規模な改造、修築が行われ、今の形になったと考えられるとのこと。
この主屋北側の現在梅林となっているあたりに代官所の役所の建物があったとのこと。
塾の間。
歴代の韮山代官の中で最も有名なのは、幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍(坦庵)。文化人、開明思想家、革新的技術者として有名で、幕府に対する沿岸警備の建議、農兵制度の建議と農兵訓練、西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、江戸湾内海台場や韮山反射炉築造に関する提案と実行、江川塾における教育など多くのことを行ったとのこと。
この塾の間では、明治時代に活躍した多くの俊英が教育を受けたという。
江川家住宅を見学した後、蛭ヶ島公園へ行ってみる。
蛭ヶ島は、平治の乱で敗れた源頼朝の配流の地と言われている場所。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河、和田島、土手和田等の地名が現存することから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつがこの蛭ヶ島であったことが想像されるという。
しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明とのこと。
公園中央部の「蛭島碑記」の古碑は、寛政2年(1790)に「豆州志稿」の著者・秋山富南の撰文により、江川家家臣・飯田忠晶が建立したものとのこと。
公園に建つ「蛭ヶ島の夫婦」像。
蛭ヶ島に流された頼朝は、治承元年(1177)、現地の豪族・北条時政の長女・政子と結婚したとされている。この像はその2人を表したものとのこと。
この後、歩いて韮山駅へ戻る。