番外編117 野田城(2013年11月30日登城)
【愛知県新城市】
野田城は、永正5年(1508)に、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼新八郎定則によって築城されたといわれる。天文13年(1544)には2代・定村が家督を継承。弘治元年(1555)に定村が雨山の戦いで討死すると、3代・定盈が家督を相続したという。
大永6年(1526)から今川義元が桶狭間で戦死する永禄3年(1560)までは、遠州と西三河の狭間でその帰属先を転々とするが、義元の死後は徳川方となり、元亀4年(1573)までの間に、今川方や武田方からたびたび攻撃を受けたという。永禄4年(1561)には今川氏真に攻められ落城するが翌年奪還。城の修復のために大野田城に移る。元亀2年(1571)の武田軍の襲来の際には、定盈は大野田城に火を放って開城したとされ、武田勢が兵を収めて帰国すると定盈は修復なった野田城に戻ったという。
元亀4年(1573)の野田の戦いでは、武田軍と籠城戦を強いられている。武田軍は甲州の金掘衆に坑道を掘らせ、井戸水を抜く戦術を採ったといい、水の手を断たれ、定盈は降伏・開城したとのこと。
この野田の戦いは、武田信玄最後の戦いとしても知られる。野田城が落ち、徳川方の三河防衛網が崩壊しつつあったが、武田軍は信玄の病状が悪化したため、侵攻を止めて甲斐へ引き返すが、その道中で信玄は亡くなったとされる。ところが、異説として信玄の死因は、野田城を包囲していた時に鉄砲で狙撃された傷を原因とする説が伝えられているという。
天正18年(1590)、徳川家康が関東へ移封となると、定盈もそれに付随。吉田城へ入った池田輝政によって野田城は廃城とされたという。
城は、本宮山麓からなだらかに派生した丘陵が舌状に張り出した先端部に位置する。北側を伊那街道が通り、東三河の山間部と平野部の中間地で街道を押さえる拠点的な役割を果たしていたと考えられるという。東側を桑淵、西側を龍淵と呼ばれる淵によって挟まれ、南北に延びる丘陵地に北から三の丸、二の丸、本丸と三つの曲輪を配した連郭式の縄張である。
いつものように、サンライズ出版「愛知の山城ベスト50を歩く」掲載の高田徹氏作図の概要図を参考に登城開始。
サンライズ出版「愛知の山城ベスト50を歩く」より(高田徹氏作図)
JR飯田線の野田城駅から歩いて向かう。伊那街道へ出て南西へ10分ほど歩くと左手に野田城跡が見えてくる。
その先の信号のある交差点に大きな案内看板が立っている。その信号を左へ入る。
左折した道路の左側が城跡になる。手前から三の丸跡、二の丸跡、本丸跡と続く。
しばらく行くと、三の丸跡の標示が立てられている。そこから中へ入る。
三の丸跡は約40m四方の大きさということであるが、整備はされておらず遺構は確認しづらい。(縄張図の②)
三の丸跡南側部分。二の丸との間を区切る土塁と堀跡と思われるがやはり確認しづらい。(縄張図の③)
その先に野田城跡と野田の戦いの説明板が立てられており、その横に二の丸跡への入口がある。(縄張図の④)
二の丸は南北約50mの方形を呈しているが、全体的に後世の開墾等で地形が改変されているとのこと。(縄張図の⑤)
この土橋とその両側の空堀が、ある意味この城の最大の見所かも。
土橋上から本丸北側の土塁を見たところ。本丸の虎口に対して横矢が掛かる形となっている。
二の丸から土橋を渡ってつながる本丸北西虎口跡に建つ模擬冠木門をくぐって本丸跡へ入る。
竹で組まれた柵や小屋組は、上の写真で幟が見られるが、9月に開催された「新城笛の盆 野田城伝」というイベントの名残のようである。
本丸は東西約60m、南北約47mの大きさとのこと。(縄張図の⑨)
野田城を落城させた後、武田軍が帰国したのは信玄の病が重くなったためというのが通説であるが、異説として野田城からの銃撃により信玄が深手を負ったという説が伝えられているという。
僅か400の兵で籠城する野田城主・菅沼定盈を、武田軍3万の兵で取り囲んだ野田の戦い。その激しい攻防の中で伝説が生まれたという。
夜になると武田軍の激しい攻撃も止み、野田城は静けさに包まれる。籠城する中に、伊勢山田の住人で笛の名人・村松芳林もいたといい、芳林は毎夜笛を吹き、静けさの中、城内から流れてくる笛の音は、武田軍本陣にいた信玄の耳にまで届いていたという。ある日、紙が付いた竹が堀端に立ったのを、菅沼方の火縄銃の名人・鳥居三左衛門がいぶかり、この竹を目当てに鉄砲を放つと、竹の辺りで「大将撃たる!」と叫ぶ声がしたという。
甲斐へ戻る途中で没した信玄の死因は肺結核や胃がんなどの病死ということが有力で、銃創死因説は異説とされているが、果たして真相はどうだったのでしょうね。
井戸は素掘りで、現在水は枯れているようである。
信玄は、なかなか城が落ちないことで力攻めを諦め、甲州の金掘衆に側面の谷から坑道を掘らせ、井戸水を抜いて水の手を断つ戦術を採ったのだという。
本丸跡南面の土塁。こちらは高さが低くなってしまっているのか、ちょっと分かりづらい。(縄張図の⑭)
縄張図を見ると、本丸南東側の虎口の前面には馬出し状の広場となっているのが分かるが、写真ではちょっと分かりづらいですね。(縄張図の⑯)
本丸跡南側の空堀。やはり写真では分かりづらい。(縄張図の⑰)
南側の登り口に建つ鳥居。この辺りは侍屋敷になっていたとのこと。
中へ入って行くと、大きなイチョウの木の下に「信玄が鉄砲で撃たれたという場所」の案内板が立っている。
龍淵を挟んで城と向かい合う高台の上に、信玄が撃たれたという「笛聞場」とされる場所があった。(縄張図の⑱)
この「笛聞場」から野田城跡の方を見たところ。これくらいの距離であれば鉄砲で狙えるかなと思う。
なお、この時、鳥居三左衛門が信玄を撃ったとされる「信玄砲」と呼ばれる火縄銃が、設楽原歴史資料館に展示されており見ることができる。菅沼氏の菩提寺・宗堅寺に伝わるもので、木部が失われ銃身のみとなっている。
日本に残る火縄銃のうちで最も古いものの一つとされるが、野田城の攻防当時のものかどうかはわからないらしい。
散策を終え、この後野田城駅へ戻る。