番外編91 勝瑞城(2012年1月7日登城) | 城めぐりん

番外編91 勝瑞城(2012年1月7日登城)

【徳島県板野郡藍住町】


 勝瑞は、室町時代の阿波国守護・細川氏及び、その後三好氏が本拠としたところである。築城年代には諸説あるが、一説に正平18年・貞治2年(1363)に細川頼春によって築かれたという。細川氏によって守護所が、それまでの秋月から勝瑞に移され、守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えたという。

 勝瑞城は、京都の管領屋形に対して、阿波屋形または下屋形とも呼ばれたとのことで、応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子・晴元党の拠点となったという。

 天文22年(1553)、家臣の三好義賢が守護・細川持隆を殺害し、その実権を奪う。この頃、三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせたとのこと。

 天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親が十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せる。十河存保は中富川の合戦で長宗我部元親軍に大敗を喫し、勝瑞城に籠城するがやがて城は落ち、存保は讃岐へ敗走。以後廃城となったとのこと。

 その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移され、町も衰退したという。


 県道松茂吉野線を挟んで北側の勝瑞城跡と、その南西側の勝瑞館跡を合わせた範囲が、勝瑞城館跡として国の史跡に指定されている。現在、北側の勝瑞城跡には、三好氏の菩提寺である見性寺が建ち、土塁と堀の一部が残る。



 一宮城からバスで徳島駅へ戻り、時間があったので勝瑞城へ行ってみることにする。

 JR徳島駅から高徳線で3駅、10分ほどで勝瑞駅へ到着。駅を出て北西に500mほど歩いて行ったところが勝瑞城跡。城跡南側の入口に城址碑が建っている。


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 城跡は、東西約105m、南北約95mの不整方形で四周に水濠が残り、城跡内全体が三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっている。

 従来、この勝瑞城跡が細川氏の守護所跡、三好氏の居城跡であるとされ、昭和31年(1956)に徳島県の史跡に指定されて保護されてきたとのことであるが、平成6年度(1994)以降行われた発掘調査の結果、この勝瑞城跡は戦国時代末期(16世紀末)に築城され、短期間のうちに廃絶したものであることが判明し、従来いわれてきたような細川氏の守護所跡や三好氏の居館跡とはなり得ないことが明らかになったとのこと。

 大規模な土塁を有し、大量の瓦が出土していることから、土塁上に瓦葺きの構造物が存在する防御を最優先に意識した堅固な構造であったと考えられ、築城形態や築城時期、勝瑞を取り巻く当時の情勢から、この勝瑞城は、長宗我部氏の勝瑞侵攻に備えて十河存保によって築かれた、いわゆる「詰の城」であった可能性が高いということである。


 城跡南側に残る水濠。


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 北東側の水濠。


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 北側の水濠。


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 北西から西側にかけての水濠。この部分には土塁が残っている。


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 城跡北側の駐車場に建つ休憩施設。中に入ってみたが、説明パネルが1枚掲示されているだけで、何もなかった。もう少し活用方法を考えればいいのにと感じた。


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 休憩施設が建っているところから、水濠に架けられた橋を渡って城内へ入る。


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 城跡に建つ三好氏の菩提寺である見性寺。当時は城の西方にあったが、江戸時代中期にこの場所へ移転されたという。

 現在の本堂はコンクリートの近代的な建物で、歴史ある三好氏の菩提寺としてはちょっとイメージが異なる感が・・・^^;


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 城跡西側に残る土塁。

 現在は一部に土塁が残るのみであるが、当時は周囲に巡らされていたことが発掘調査で確認されたといい、濠を掘った際の土を盛り上げ、つき固めて構築されており、基底部の幅は約12m、高さは約2.5m、濠は上部の幅が約14mの規模であったとのこと。濠からは多くの瓦も出土したという。


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 城跡北側の復元土塁と矢竹。

 矢竹は、イネ科タケササ類の植物で、節間が長く、矢を作るのに適するのでその名があるという。


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 城跡北東に建つ「勝瑞義冢 碑」。

 四国正学といわれた徳島藩儒官・那波魯堂の撰により、三好家の盛衰と戦没者の慰霊文が記されている。天明3年(1783)の建立とのこと。


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 城跡南側の三好氏代々(之長・元長・義賢・長治)の墓。


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 次に、城跡の西側へ出て南へ進み、県道を挟んで城跡の南西にある勝瑞館跡の方へ向かう。写真のマンションの向こう側が館跡。


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 間にある交差点のところから振り返って勝瑞城跡を望む。


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 勝瑞城跡の南西約150mにあるこの場所は、三好氏の居館跡でないとする勝瑞城跡の調査成果を受けて行われた地籍図調査で、大規模な方形館の存在が想定されたところで、平成9~12年度(1997~2000)にかけて7次にわたる発掘調査が行われ、幅約12mの濠に囲まれた南北約150m、東西約120mの方形館跡であることが判明したという。

 館内南西部では枯山水式庭園と園池、これに面した会所跡と想定される4間半×7間の礎石建物跡が検出され、また北西部においても、3間×4間以上の礎石建物跡が検出されたとのこと。建物跡は焼土層に覆われており、焼土層中からは、多量の土師器皿、青磁・白磁・青花碗皿、天目茶碗、銭貨、金箔かわらけなどが出土しているという。

 庭園の下層からは、館を区画すると考えられる濠跡が確認されており、この濠は16世紀中葉に埋められ、館が拡張されているとのこと。この時期は、天文21年(1552)の三好義賢の政権奪取の時期に相当し、このことに館の規模と庭園の存在を合わせて考えると、三好氏の居館跡である可能性が高いと考えられるとのこと。

 
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 館内の区画溝。

 南西部の枯山水庭園と礎石建物跡の東側に、建物跡と軸を同じくした溝が検出されたとのこと。この溝から東側は生活面が一段低くなっており、出土する遺物も、鍋・釜などの煮炊具や壺・甕などの貯蔵具が多くなるなど、様相が異なるという。庭園のある空間が「ハレ」の空間であるのに対し、この溝から東側はおそらく日常生活の空間、「ケ」の空間であったと考えられるという。


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 礎石建物跡に復元された会所建物。

 建物は、最大で南北7間×東西4間半で、礎石には30cm~50cmの砂岩が使われているという。構造として、礎石の大きさから5間半×4間半の身屋と、庭園に面したおよそ1間半×4間半の付属部に大別されるとのこと。想定される間取りや、その南面に庭園があることなどから、会所跡と想定されているという。


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 中世の会所は今でいうサロン的な役割を果たす建物で、公卿や武家、僧侶など上級階級で盛行していた連歌会、茶寄合、花会せ会など、親しい間柄の人々が寄り集まって優雅な社交と遊興に興じる場であり、また会食や飲食としての饗宴の場としても使われたという。

 身屋の礎石は焼けた壁土と大量の炭化物を含んだ層に覆われていたことから、この建物は焼失したことが窺われるといい、出土遺物から廃絶年代は16世紀末頃であることが推定されるとのこと。 


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 枯山水庭園跡。

 発掘調査では、庭の景石として、緑色片岩(阿波の青石)9個、砂岩2個、チャート1個の計12個の石が見つかったとのこと。いずれも50cm~1mほどの小振りな石で、これらを組み合わせずに単独で配置している点が特徴的であるという。


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 その他東側では、東西20間以上、南北8間の礎石建物跡が見つかっており、その規模や想定される間取りなどから、勝瑞城館の中枢施設である主殿跡と想定されるとのこと。また、その南側には東西40m以上、南北約30mの池庭跡も見つかっているという。


 勝瑞城館跡の見学を終え、この後、勝瑞駅へ戻る。