再訪 No.50彦根城 その2前編(2011年6月4日登城) | 城めぐりん

再訪 No.50彦根城 その2前編(2011年6月4日登城)

(前回の登城記録は こちら


 「もう一度国宝の城を訪れてみよう」シリーズ(?)の今回は、彦根城へ行ってきました。ただし、ひこにゃんは出てきません。あしからず^^;


 ↓ いつもの地図で今回歩いたコース(クリックで拡大)

城めぐりん-彦根城地図

     小学館「週刊 名城をゆく」城めぐりMAPより
 

 京橋口駐車場に車を置いてスタート。まずは中堀に沿って、中堀東西通りを北西に向かって歩いていく。


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 右手に中堀を見ながら進んでいくと、木々の間から国宝天守が顔をのぞかせる。


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 少し左へ目をやると、西の丸三重櫓も見える。


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 城町二丁目東の交差点を右に入り、左側に滋賀大学のキャンパスを見ながら進むと、正面に船町口の石垣が見えてくる。二の丸の4つの城門のうちのひとつ。


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 船町口を入ると内曲輪跡。正面に彦根西中学校が建っており、右へ曲がって南東の方向へ進むと、右側に家老岡本黄石屋敷跡の碑が建っている。岡本黄石は、文化8年(1811)に彦根藩家老・宇津木兵庫の三男として生まれ、16歳で同じく家老の岡本業常の養子となって家督を継いだとのこと。桜田門外の変で井伊直弼が倒れた後、長野主膳と宇津木六之丞を斬刑に処して藩政を主導し、藩を勤王に転じさせ、幼少の藩主・直憲を助けて維新を乗り切ったという。


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 左側は内堀。腰巻石垣が見える。奥の橋は大手門橋。


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 内堀に見られる御用米門の船着の石垣。その奥に17棟の御用米蔵が建っており、この水門(埋門)から御用米を搬入したとのこと。


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 史跡保存用地となっている広い空間。当時の城下町は、内堀、中堀、外堀によって4郭に区切られており、内堀と中堀の間の部分は、内曲輪と二の丸に分けられ、重臣屋敷や藩主の下屋敷があった。この場所は、内曲輪に位置し、大手門前の要害の地となっていたとのこと。


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 さらに南東へ進み、左側の大手門橋を渡る。大手門は内堀に面して開いていた5つの門のうちのひとつ。創築当初、彦根城は京都に向かって南西を大手としていた。


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 大手門には城内最大の枡形門が構えられていたという。枡形を抜けたその先で道は急角度に右へ曲がり、大手道の真っ直ぐな坂道が天秤櫓の下へ通じている。


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 まだ時間が早かったので、大手門跡でUターンして、もう一度内堀の外へ戻る。


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 南東側から見た大手門橋。


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 内堀に見られる鉢巻腰巻石垣。土塁の上に石垣を乗せた鉢巻石垣と、土塁の下に石垣を設けた腰巻石垣の併用で、江戸城などにも見られるが、西国の城では彦根城にしか見られないという。


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 内堀にいる白鳥にヒナが生まれたらしい。「醜いアヒルの子」ですね。


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 そのまま内堀沿いに南東へ進んだところ、現在彦根東高校が建っている場所が家老長野伊豆屋敷跡。井伊家第3席家老の長野十郎左衛門家の屋敷があったところ。初代・業実は徳川家康に召し出され近習となり、天正8年(1580)には箕輪で井伊直政の小姓を務めた。その後、関ヶ原の戦いの功で2000石、大坂の陣では槍奉行を務め3000石と次々に加増され、庵原朝昌とともに井伊家家老職となり、最終的には4000石が預けられた。


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 彦根東高校の北西の大津地方裁判所彦根支部の前に建つ附袖塀と高麗門。裁判所が建っている場所には、知行高3500石の井伊家老中・西郷藤左衛門家、その西隣には知行高5000石の井伊家次席家老・庵原助右衛門家の屋敷があったとのこと。


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 裁判所敷地の東側、京橋口に面して建つ旧西郷屋敷長屋門。解体修理工事で冠木に墨書が発見され、寛保2年(1742)に西隣の庵原家によって建立されたものであることが判明したとのこと。明治16年(1883)に裁判所が整備されることに伴って、現在の場所に移されたと考えられるという。


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 旧西郷屋敷長屋門の南、京橋口門の多聞櫓が建っていたところの内側には雁木が見られる。


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 京橋口門跡。中堀に面して開いていた4つの城門のうちのひとつで、中堀内側の第2郭の重臣屋敷と外側の第3郭の本町筋の間にあり、大手門にも通じる要所に位置している。枡形には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていたという。門の上に二重二階の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びていたとのこと。


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 外側から見た京橋口門跡。ここを抜けて一旦中堀の外(第3郭)へ出る。


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 京橋の上から夢京橋キャッスルロードを眺める。


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 京橋を渡って中堀沿いに左へ進む。


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 立花町西の交差点のところを左に折れ、さらに中堀に沿って歩く。


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 しばらく行くと右側に旧鈴木屋敷長屋門が建っている。この中堀に面している付近は、かつて中級武士の屋敷があったところ。天保7年(1836)の「御城下惣絵図」によると、屋敷の規模は間口10間5尺、奥行27間半で、その頃の居住者の鈴木権十郎は、禄高350石で大津蔵奉行であったといわれているとのこと。長屋門は棟束に文久2年(1862)の墨書銘があるという。


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 さらに中堀に沿って北東に進む。


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 そのまま進み、中堀が直角に北西に折れ曲がるところまで来ると、堀の先に佐和口多聞櫓、その上に天秤櫓、さらにその上に天守の姿が見える。


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 中堀と道路を挟んで北東側は護国神社となっており、その東の駐車場のさらに東側には外堀跡が残る。今は埋まって空堀のようになっているが、かつては車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えた水堀であったとのこと。この外堀はさらに城下町の北東まで真っ直ぐに伸びて、御船入で松原内湖につながり、その先琵琶湖に通じていたという。

 彦根城では現在、内堀と中堀は良好に残るが、外堀については戦後に埋め立てられて道路となり、この場所のほか数ヶ所が残るのみである。


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 ここから佐和口に向かって登城道を北西に歩く。道の左側、中堀沿いの松並木は「いろは松」と呼ばれる。かつては47本あったところからこう呼ばれたとのこと。松は地上に根を張り出さず人馬の往来の邪魔にならない土佐松で、高知から移植されたものという。


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 右側に護国神社を見ながら進むと、中堀が右に折れ曲がる手前のところに「井伊直弼歌碑」が建っている。


 「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」


 安政7年(1860)正月、正装姿の自分の画像を御用絵師・狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられるとのこと。直弼はこの2ヵ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れることとなる。


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 正面に佐和口が見える。南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの門のうちのひとつで、表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに重要な城門であった。枡形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓。


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 向かって左側が重要文化財となっている現存の佐和口多聞櫓で、端に二重二階の櫓が建ち多聞櫓に連接している。建立について詳細は明らかではないが、彦根城がおおよその完成をみた元和8年(1622)までには建てられていたと考えられ、その後、明和4年(1767)の火災で類焼し、現存するものは明和6年(1769)から8年(1771)にかけて再建されたものとのこと。


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 向かって右側の多聞櫓は、明治初年に解体され、昭和35年(1960)に井伊直弼没後100年を記念してコンクリート造で復元されたもので、内部は開国記念館となっている。堀水に接して犬走りが見られる。


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 ここで中堀を渡って佐和口へ続く土橋の手前を右へ入っていく。左に開国記念館を見ながら進んで行くと、右側に埋木舎がある。井伊直弼が17歳から32歳までの15年間、300俵の捨扶持で過ごしたところ。自らを生涯花咲くこともあるまいと埋もれた木にたとえて埋木舎と呼んだという。


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 右側に佐和口多聞櫓を見ながらもう一度土橋のところまで戻る。


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 土橋を渡って佐和口の枡形の方へと進む。現存する左側の多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れている。かつてはこの部分に二重二階の櫓門が枡形を見下ろすように架かっていたという。


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 佐和口の枡形を抜けて二の丸跡の方へ入っていく。


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 門跡を抜けた右側が家老木俣屋敷跡。知行1万石の井伊家筆頭家老であった木俣清左衛門家の屋敷跡。木俣氏は三河武士で、彦根藩木俣氏初代守勝は、井伊直政と同じく徳川家康の家臣であったが、徳川氏の武田氏攻略後、武田遺臣を井伊直政の付属とした時、家康の命により甲州侍の物頭として直政の与力に付けられたという。直政が関ヶ原の戦いでの鉄砲傷がもとで翌年他界すると、嫡男・直継がまだ若年であったため、守勝が藩主に代わって家康との交渉役となり、彦根城築城の命を受けたという。築城当初は山崎曲輪に屋敷を構えていたが、大坂の陣後の元和普請時にこの地に移転したとのこと。木俣家は江戸期を通じて彦根藩筆頭家老を務めた。


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 佐和口門跡を入って左側、佐和口多聞櫓の北西に、内堀と道路を隔てて建っているL字形に細長い建物が馬屋。近世城郭に残る大規模な馬屋として例がなく、国の重要文化財に指定されている。


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 馬屋は、佐和口門櫓に接する東端に畳敷の小部屋、西端近くに門がある以外はすべて馬立場と馬繋場となっており、藩主などの馬21頭が繋がれていたという。


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 城内側から見た佐和口多聞櫓。手前に雁木石段がつづく。


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 多聞櫓に接続する佐和口二重櫓。


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 二重櫓から佐和口多聞櫓の中へ入る。


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 中へ入ってすぐのところに展示されている彦根城の模型。


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 佐和口多聞櫓の内部。


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 佐和口多聞櫓の窓から佐和口の枡形とその先の登城道を眺める。


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 佐和口多聞櫓を出て、内堀越しに表御殿を復元した彦根城博物館を望む。


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 いよいよ表門橋を渡って内堀に囲まれた本城域へ入る。


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 ↓ 本城域(第1郭)を描いた「御城内御絵図」(クリックで拡大)

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 表門跡を抜けて中へ入る。彦根城は、内堀に面して5つの門が開いているが、大手門と表門と、城の正面を意図して築かれた2つの門が相対する位置にある。創築当初は大坂への備えとして、南西側に大手門が開口していたが、その後大坂の陣で豊臣家が滅亡し、徳川体制になると、江戸方向の南東側の表門の利用機会が増え、実質的に表門が大手門の役を担うこととなったのだという。


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 表門跡の枡形から左上を見ると、鐘の丸の東まで伸びる登り石垣が見られる。石垣の左側の溝状の窪みは竪堀。登り石垣は、斜面を移動する敵の動きを阻止し、山上と山下を一体化して防御する目的で築かれるもので、彦根城ではこの全国的にも珍しい登り石垣が5箇所に築かれているとのこと。


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 券売所で城と玄宮園と彦根城博物館のセット券を購入し、表坂を登っていく。


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 表坂を登っていくと天秤櫓が見えてくる。


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 坂を登りきると天秤櫓の真下へ出る。この部分は、鐘の丸(写真左側)と太鼓丸(写真右側)の間の巨大な堀切にあたる。


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 この場所は、表門からの道(写真奥)と大手門からの道(写真手前)が合流する場所で、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所。堀切には橋が架けられている。かつては屋根と腰壁が付いた廊下橋であったという。

 堀切に立って天秤櫓の石垣を見ると、右側は築城当初の「牛蒡積み」、左側は幕末の嘉永年間に積み替えられた「落し積み」となっているとのこと。


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 大手門から大手坂を登ってくるとここへ至る。


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 堀切から左の石段を登って鐘の丸跡の方へ向かう。


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 鐘の丸はいわば巨大な馬出曲輪となっている。築城当初、ここに時報鐘が置かれていたためこの名があるという。しかし、鐘の音が城下北方に届かなかったため、現在の太鼓櫓門下に移設されたのだという。鐘の丸には大広間や御守殿などの建物が存在したが、大広間は享保17年(1732)に解体されて彦根藩江戸屋敷の広間として転用されたとのこと。御守殿は明治初期までこの場所に存在していたという。


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 鐘の丸跡に残る南西隅櫓台。


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 鐘の丸跡から見た天秤櫓。上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に二階建ての櫓を設け、中央に門が開く構造となっている。このような左右対称の姿から天秤櫓の名がある。


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 しかし、よく見ると両隅の二重櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も違うなど、完全に左右対称とはなっていない。

 左側の二重櫓の上階屋根は妻入。


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 右側の二重櫓の上階屋根は棟入。

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 「井伊年譜」には、天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものであるとの記述があるとのことである。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることが判明し、井伊家の家紋とは異なる「上り藤」や「三つ柏」などの紋瓦も確認されているが、長浜城大手門と断定されるまでには至っていないとのこと。

 
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 門をくぐって太鼓丸跡へ入る。


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 門を入って右の方へ曲がり込み、東側の二重櫓から天秤櫓の中へ入る。


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 天秤櫓の内部。壁は防火や防弾のため、竹小舞を骨組みに藁縄を絡め、荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねた厚い土壁で、外面は大壁造りとなっているが、内面は真壁造りとなっているとのこと。さらに大堀切に面した外側は二重壁となっており、30cmを超える厚さとなっているという。


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 天秤櫓を出て太鼓門櫓の方へ坂を登っていく。


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 坂を登ると左手にあるのが、築城当初は先ほどの鐘の丸にあったものをこの場所に移設した時報鐘。この鐘は12代藩主・直亮の弘化元年(1844)に鋳造されたものという。現在は、午前6時、9時、正午、午後3時、6時の1日5回つかれているとのこと。


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 時報鐘を左手に見ながら右へ曲がった先にあるのが本丸への入口、天守を目前にした最後の門である太鼓門櫓。門櫓の南側に「く」の字に曲がった続櫓が付設されている。

 長い間、太鼓門櫓は彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられてきたというが、昭和31年(1956)から32年(1957)にかけて行われた解体修理工事によってその説は否定されたとのこと。建物部材調査により、どこかの城の城門であったことが判明したというが、どこの城であったかは不明のままだという。

 
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 太鼓門櫓の背面の東壁面は開放され、柱間に高欄を付して1間通りを廊下にしている。櫓としては大変稀な例で、一説には櫓の中に置かれた太鼓の音が広く響くようにするための工夫とも考えられるが、明確ではないとのこと。


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 太鼓門をくぐって本丸跡へ入っていく。


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 太鼓門櫓の中へ入ってみる。


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 太鼓門櫓の内部。


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 太鼓門櫓を出る。

 慶長9年(1604)の築城開始から3年後の同12年(1607)頃、本丸に天守が完成し、天守前には新たに台所や長局が付設された御広間が建立されたという。現在御広間の建物は存在しないが、天守前広場の地面をよく見ると、建物の礎石を確認することができる。元和元年~8年(1615~22)の普請の間に、麓に表御殿が建てられるまで、御広間はその機能を維持したとのこと。


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 天守は三重三階で、櫓の上に望楼をあげた古い形式の天守。昭和32年~35年(1957~60)にかけて行われた解体修理により、建築材を克明に調査した結果、元々は四重五階の旧天守を移築したものであることが判明し、大津城天守の移築・改造説が有力視されるとのこと。


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 切妻破風、入母屋破風、唐破風を多様に配し、二階と三階には花頭窓、三階には高欄付きの廻縁を巡らせ、変化に富んだ優美な姿を見せている。


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 本丸跡北東隅の着見台(着見櫓跡)。眺望の良いこの場所には二重櫓が建っており、眼下の佐和口、京橋口の看視に当たるとともに、遠く中山道から分岐して佐和山を越え、城下に入る切通道(彦根道)を望んだという。櫓は明治初年に取り壊されたとのこと。


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 着見台から佐和口多聞櫓と表御殿(彦根城博物館)を見下ろす。


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 着見台から佐和山を望む。


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 着見台から琵琶湖を望む。


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 着見台から見た天守。


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 着見台からの眺望を楽しみ、次に天守の中へ向かうが、長くなってきたので前編はここまで。



 (再訪時の記録 彦根城その2後編は こちら