坂口安吾「特攻隊に捧ぐ」2 | 秀雄のブログ

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もう少し安吾の言葉を傾聴してみましょう。
 
(引用)
彼等(特攻隊員:筆者注)は自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかもしれぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。せめても女との時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄(うた)う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
 
(引用終わり)
 
安吾は特攻隊員の「死を怖れ、生に恋々とし」た「迷う姿」、あらゆるこの世の執着心と格闘する姿、それはいちいち暴かずに、そっとしておけ、と言っているのです。なぜなら「彼等は愛国の詩人」であり「ともかく可憐な花であった」から。
 
(引用)
……特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。
 
(引用終わり)
 
思いますに「そッとしてお」くことができないのが、この批評精神にまみれた私達ではないでしょうか。そうであれば批評精神などは要らない、過去を批評精神から自由たらしめよ。
 
 
 
 
 
 
小林秀雄は「きけわだつみの声」についてこう述べています。
 
「私は、こゝに現れた學生達の手記の内容を云々しまい。觀察や、批判や、感情の未熟を言ふまい。彼等を追ひやつた現實條件について、彼等が正しい眼を持つてゐなかつたなどと言ふまい。さういふことを言ふのは正しいやうで、實は少しも正しくないと思つてゐる。これは追ひつめられた者の叫喚でも、うめき聲でもない。覺め切つた緊張し切つた正しい人間の表現である。誰も彼も、自己といふ現存を、めいめいの才能と意志との限りを盡して語つてゐるのだ。それはそれとして正しく及び難いのである。」(「きけわだつみのこゑ」)
 
後に小林は「きけわだつみのこゑ」の「編集者達の文化觀」について批判するのですが、上の一節はそれとは関係ありません。戦歿者学生達の手記は「内容を云々」するものではない、「未熟」を指摘するものではない、「正しい眼を持つてゐなかつた」と批判をするものではない、安吾の言葉で言うと「そッとしておけ」と言っているのです。「それはそれとして正しく及び難い」のであり、安吾の言葉で言うと「心情だけは疑らぬ方がいい」、「疑るな」と言っているのです。
 
安吾は続けます。
 
(引用)
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣(ぎまん)とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
 
(引用終わり)
 
今回は安吾のこの文章を読むに、小林秀雄を2本目の補助線としました。周知のように安吾は「教祖の文学」で小林を批判していますし、私は2人の最大の相違は歴史についての考え方に在ると思っているので、小林の補助線を引いたとしても、平行線のままではないか、と懸念しましたが、上のように1点で接していることに気がついていただけましたでしょうか。
 
実はもう1本補助線を引きたいので、次回へ続きます。
 
 
 
 
 
つづく
 
引用は新潮文庫より
 
 
 
 
 

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