鹿児島県甑島の風景と廃校休校巡り(2023/08/17) | haiko-riderのブログ

haiko-riderのブログ

2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

甑島は、鹿児島県薩摩半島から西へ約30キロに位置し、

東シナ海に浮かぶ上甑島・中甑島・下甑島の3島から

なります。

列島全体の長さは38km、幅は10kmほどです。

甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか

4町と新設合併し、それぞれの村は薩摩川内市の一部となりました。

甑島の呼称は、「こしきじま」と「こしきしま」が混在していましたが、

2014年8月に「こしきしま」に統一されました。

(まだ一般的に浸透していないようです。。)

 

甑島へのアクセスは、高速船またはフェリーを利用します。

川内港ターミナルから高速船で里港ターミナルまで50分、

串木野新港からフェリーで里港ターミナルまで75分です。

小生は、時間の関係で日帰りとし、川内港から高速船で往復しました。

川内港ターミナル

九州産の木材を使用した新しい旅客ターミナルです。

落ち着いた外観、内装もお洒落でゆったりとしています。

 

当日は生憎の雨天でしたが、接岸した高速船へと、釣人、

帰省客、観光客ら多くの人々が桟橋を渡っています。

上り下りとも日に2便しかないので、初便の8:50発に乗船します。

 

2014年(平成26年)4月から就航している新型船です。

 

船内の様子1

お洒落な船内は、旅行気分を高めてくれます。

 

船内の様子2

初めての甑島、胸がワクワクします。

定員200名ですので、余裕で座れました。

 

上甑島の里港に着きました。

9時40分着。所要50分の船旅です。

復路もここから川内港へ帰ることにしました。

16時30分発の最終便に間に合うためには、16時までに戻って

来なくてはなりません。

島内はレンタカーを借りて移動することにしましたが、返車の

手続きもあるので、日帰りの場合はポイントを絞って周らないと

キツイでしょう。。

 

里港の桟橋と高速船

桟橋を渡ると、レンタカー業者が予約者の氏名を書いた

プラカードやステッカーでお出迎えしてくれます。

 

長目の浜

上甑島の北方に位置し、大小3つの池が砂州によって海と

隔てられた景勝地です。

展望所からの眺めですが、どんより曇った小雨混りの天候で、

海も鉛色でした。

長目の浜(近景)

甑島を代表するビュースポットのひとつですが、

快晴の日に訪ねてみたいところですね。。

 

国定公園指定記念碑

 

引き続き県道352号(瀬上里線)を北上し、県道348号を南下すると

穏やかな浦内湾が広がっています。

 

付近は「ふれあいパーク浦内」という公園に整備されて

います。

 

浦内湾は旧日本海軍の特別攻撃隊基地のひとつがありました。

1945年(昭和20年)太平洋戦争末期、本土決戦に備え出現した

決死の特別魚雷艇(震洋艇)の模型が展示されています。

 

真珠を模した記念碑

1947年(昭和22年)浦内湾で真珠母貝の試験養殖が開始され、

2年後から本格的に養殖が始まり現在に至っています。

 

ふれあいパーク浦内の裏に閉校となった校舎が残っています。

校門に往時の銘板が確認できました。

 

かまぼこ屋根の体育館と2階建て鉄筋校舎です。

 

体育館の壁面には、創立百周年記念の文字盤が見えました。

2002年(平成14年)2月17日の式典の際に掲示したものでしょう。

 

体育館の全景

1981年(昭和56年)3月に落成、40年以上経過しており

黒く変色した外観から長い年月を感じます。

 

校舎の全景1

1978年(昭和53年)3月に落成した校舎です。

体育館より外観は新しく見えますが、築年数は体育館より3年古い

のですね。。

校舎の全景2

玄関の近景

ソテツが勢力を拡大し、玄関に侵入してきています。

 

古風な校章

 

校庭は、ソーラーパネルが敷き詰められています。

官民共同で、「甑島・浦内太陽光発電所」を整備し、

離島に再生可能エネルギーを普及させるための
実証事業を2015年(平成27年)11月から実施しているそうです。

 

創立百周年記念碑

 

校歌碑

一、

山脈きよく 色はえて

入江にかげをさすところ

ひとみ明るく元気よく

学ぶぼくらだ わたしらだ

ああ鐘がなる 浦内校

 

閉校記念碑

「永遠に輝け 浦内魂」

 

体育館の入口に掲示した絵には、最後の運動会の様子が

描かれています。

男子児童1名を中央に女子児童2名、先生が両脇に並んで

誇らしげな表情で立っています。

上段には学び舎への感謝の言葉が添えてあります。

最後の児童は3名だったようです。

浦内小学校(2008年閉校)

沿革をみると、

1901年(明治34年)瀬上小学校と小島小学校、桑之浦小学校が

合併し浦内小学校として創立
1945年(昭和20年)戦災にあい校舎全焼
1947年(昭和22年)学制改革により浦内市と改称
1960年(昭和35年)全校児童307名
1978年(昭和53年)鉄筋二階建校舎落成
1981年(昭和56年)体育館落成
1987年(昭和62年)全校児童25名
2000年(平成12年)完全複式学級編成
2008年(平成20年)薩摩川内市立中津小学校への統合に伴い閉校
統合先の中津小学校は、全校児童21名(令和5年4月)と

決して多くはありません。

上甑島を足早に後にし、中甑島へ向かいます。

その際に2本の架橋を渡ります。

最初が甑大明神橋です。

 

甑大明神橋(全長420m、1993年完成)

橋の袂には、甑(せいろ)の形に似た大岩を御神体とする

甑大明神が祭られており「甑島」地名の発祥地と言われています。

 

もう一本の橋は、鹿の子大橋です。

鹿の子大橋(全長240m、1990年完成)

橋周辺が鹿の子百合の自生地となっていることから「鹿の子大橋」と

命名されました。

 

鹿の子大橋を渡り中甑島に入ると、平良(たいら)地区の沿道に

「大敷ばやし」の説明を刻んだ石碑が建っています。

「大敷ばやし」は、平良漁港で活発に行われていたブリの定置網を

揚げるときのはやし唄として伝承されてきました。

集落の奥に平良小学校が建っています。

スロープを上って行きます。

左側が体育館、右側が校舎です。

体育館の全景

入口付近から撮った校舎

コンクリートの門塀に輝く銘板

校庭側から撮った校舎1

校庭側から撮った校舎2

実は、体育館の裏にもう一棟校舎が建っています。

 

薄茶色の柱が印象的な校舎です。

後で調べたところ、先ほどの白っぽい校舎が旧校舎で

こちらが新校舎となります。

元来、この校舎は平良中学校だったのですが、一足早く2001年

(平成13年)閉校となった後は、小学校校舎として転用されました。

そして、白っぽい旧校舎は特別教室として使用されました。

 

正面玄関の近景

目を引くのは校庭に立つセンダンの木です。

学校のシンボルツリーでしたが、今もなお健在です。

1999年(平成11年)9月24日台風18号で大きな被害を受けましたが、

校庭改修後、元気に復活したそうです。

 

校門付近のモニュメント

劣化しており、詳細は不明です。

 

中学校跡碑

1947年(昭和22年)5月 上甑中学校平良分教場設置

1950年(昭和25年)4月 上甑中学校平良分校認可

2001年(平成13年)3月 閉校

 

体育館の入口付近に新しい石碑が建っています。

台座には「ありがとう 平良小学校」

 

平良小学校の閉校記念碑です。

大人びた顔の児童が腰に手を当て立っています。

手前のポールのボタンを押すと校歌が流れるようになっています。

精いっぱい声をあげて歌う児童らの様子が目に浮かび、胸が

熱くなり涙を誘います。。

平良小学校(2011年閉校)

1876年(明治9年)  創設
1950年(昭和25年)全校児童226名
1970年(昭和45年)新校舎、体育館落成
1975年(昭和50年)全校児童35名
2001年(平成13年)併設の平良中学校閉校
2011年(平成23年)中津小学校への統合に伴い閉校、

最後の児童10名

現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで

通っています

中甑島から甑大橋を渡り下甑島へ向かいます。

 

上甑島〜中甑島は「鹿の子大橋」「甑大明神橋」で繋がりましたが、

中甑島〜下甑島は未開通の状態でした。

島の住民も船で往来するしかなかったのです。

2020年(令和2年)8月29日に甑大橋が開通するまでは。

 

車で走行中は気が付きませんでしたが、引いてみると

橋の高さは一定ではなく湾曲しているのが分かります。

下甑島側は鹿島トンネルへと続きます。

下甑島の海岸

 

甑大橋のビュースポット、鳥の巣展望台に着きました。

 

鳥の巣展望台は、下甑島の北端に位置し、紺碧の海を見下ろし

向こう岸に中甑島を眺望できる展望所です。

一直線に伸びる架橋は、鹿児島県内で一番長い1,533mです。

 

丘の上では、遅咲きのカノコユリが、最後の見頃を迎えていました。

 

7〜9月に上品で可愛らしい薄いピンクの花を咲かせます。

花弁に鹿の子模様の斑点があることから、和名は鹿の子百合と

書きます。

 

カノコユリは、九州や四国でも分布していますが、

甑島が最も分布密度が高いそうです。

目の保養だけでなく、訪れる者の心を癒してくれます。

 

奇岩へと続く遊歩道

 

断崖の険しさとカノコユリの優しさが両方堪能できる

魅力的なスポットです。

 

県道349号を只管南下し、青瀬地区に着きました。

青瀬は、下甑島の東海岸の中央部に位置し、漁業を主な産業と

する集落です。

 

新しい石造りの校門の銘板は、右に「かのこ幼稚園」

左に「下甑島保育園」とあります。

青瀬小学校の閉校後に転用されているようです。

 

付近の草むらに往時の校門がありました。

表札は「青瀬小学校」と確認できます。

新しい校門を建てたときに移築したのでしょう。。

体育館と校舎です。

 

体育館の全景

グリーンの蒲鉾屋根、重厚な造りです。

1986年(昭和61年)新築です。

 

校舎の全景

中央部分が3階建ての鉄筋校舎は、巨大な船のように見えました。

1982年(昭和57年)新築、40年以上経過しています。

 

正面玄関の近景

屋根と下地は赤く、柱は薄茶に配色してあります。

 

校庭と遊具たち

 

閉校記念樹

何の木でしょう。。

 

創立百周年記念碑

 

「ふところは 想い出あふれ

青瀬(さと)帰り」

青瀬を故郷とする有志により、故郷への感謝の心を込めて

建立されました。

毎年6月第一日曜日を「青瀬の日」と定めて一堂に会しているそうです。
 

青瀬小学校(2012年閉校)

沿革をみると、

1886年(明治19年)青瀬簡易小学校創立
1889年(明治22年)青瀬小学校創立(4年制)青瀬尋常小学校と改称
1947年(昭和22年)新学制発足に伴い,青瀬小学校と改称
1982年(昭和57年)鉄筋校舎新築
1983年(昭和58年)青瀬小学校附属幼稚園併設
1986年(昭和61年)屋内体育館の落成式,創立百周年記念式典挙行
1987年(昭和62年)全校児童36名
2004年(平成16年)市町村合併に伴い、薩摩川内市立青瀬小学校、

薩摩川内市立青瀬幼稚園となる

2009年(平成21年)長浜幼稚園と統合し「かのこ幼稚園」となる

2012年(平成24年)手打小学校への統合に伴い閉校

最後の児童は16名でした。

キャッチフレーズは、「花と読書と笑顔の学校」。

少人数でも笑顔を絶やすことなく花を育て読書に励んできましたが、

126年の歴史に幕を下ろしました。。

幼稚園は、1983年から併設されており、現在は「かのこ幼稚園」として

存続しています。

 

旧青瀬小学校から、約2㎞南方にある、

「瀬尾観音三滝(せびかんのんみたき)」に立ち寄ってみます。

 

付近はキャンプ場や公園として整備されており、駐車場から

奥へと歩いて行きます。約200mほどの距離です。

 

瀬尾観音三滝

観音三滝は、瀬尾川上流にある緑に囲まれた美しい滝です。

55mの高さから水しぶきあげて落ちる様子は、圧巻です。

当日は雨上がりで水量もあり見応えがありました。

当日撮った動画はこちらへ

マイナスイオンを体いっぱい浴びました。。

 

手打浜

甑島最南端に位置し約1.5kmの弓形をした白い砂浜です。

夏場の観光シーズンになると、釣り客や家族連れ、子供たちで

賑わうそうです。釣りバカ日誌9のロケ地にもなりました。

 

曇りの天候で人影もありませんでしたが、手打湾に打ち寄せる

透明度の高い海水と穏やかな波の音に癒されました。。

 

 

手打湾に沿って県道350号を東へ進むと、沿道の一角に何かの

石碑が目に入りました。

 

「おふくろさん」歌碑とあります。

 

下甑島の手打集落は、歌手の森進一さんの母親の故郷です。

1999年(平成11年)10月31日に歌碑が除幕されています。

台座にあるチャイム用ボタンを押すと、森進一さんが唄う

「おふくろさん」が響き渡ります。

 

手打地区から折り返して、県道349号を北上します。

途中の手打トンネル手前で県道350号に折れて片野浦地区へ

向かいます。

進んでいくと、閉校となった子岳小学校の案内が立っています。

標柱には教育スローガンが書いてありました。

 

片野浦集落の外れ、四方を山に囲まれた中に体育館と校舎が

静かに佇んでいます。

峠道からゆっくりと下りて行きます。

 

学校は谷川の傍に建っています。

遠方には深い山々の稜線が連なり、周囲に民家もなく寂しい場所です。

 

校門に往時の表札がしっかりと残っています。

 

体育館の玄関

茶系統のタイル壁で洒落た外観です。

 

体育館の全景

周ってみると一般的なコンクリートの外観でした。

隣に校舎が並んでいます。

反対側から撮った校舎と体育館

校舎の2本の赤いラインがグリーンの芝生に映えます。

校舎の正面玄関

 

玄関の表札

 

校章

 

奥行きのある校庭

綺麗に手入れされていました。

 

体育館の入口に建つ創立百周年記念碑

 

校庭の奥に建つ石碑

 

閉校記念碑と校歌碑です。

土台に埋め込まれている沢山の玉石は、最後の児童3人が

記念碑として思い出に残る石を一つ一つ集め、自分たちの手で

土台に載せたそうです。

その光景が学校のHPに載っていましたが、胸が熱くなりました。。

 

閉校記念碑

 

校歌碑

一、

黒潮おどる 西の果て

浜田の流れ 水清く

川瀬の音を耳にして

みんな明るく 朗らかに

学ぶ われらの

子岳校

 

子岳(こたけ)小学校(2012年閉校)

沿革をみると、

1886年(明治19年)片野浦簡易小学校として開設
1893年(明治26年)子嶽尋常小学校と改称
1947年(昭和22年)子嶽小学校と改称
1978年(昭和53年)子嶽中学校閉校
1984年(昭和59年)校章制定、校舎・体育館落成
1987年(昭和62年)全校児童12名
2012年(平成24年)手打小学校への統合に伴い閉校
最後の児童は3名

古くは「子嶽」と書いていたのですね。。

統合先の手打小学校は、全校児童14名(令和5年4月現在)

決して多くはない児童数です。

 

16:30里港発の高速船に乗船、川内港に着きました。。

今回のような日帰りの場合は時間管理が重要です。

下甑島の手打地区から上甑島の里港までは、車で1時間15分ほど

掛かります。

もっと廃校を見たかったのですが、初めての甑島ということもあり、

観光ポイントをスルーすることもできず、廃校と観光ポイントを

効率よく周り、帰りの高速船に間に合わせるのが精一杯でした。。

次回は天候の良い日にゆっくりと周ってみたいと思います。