兵庫県養父市、朝来市の廃校休校巡り(2017/01/07) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

養父市(やぶし)は、兵庫県北部に位置する市です。

2004年 4月1日、養父郡八鹿町、養父町、大屋町、関宮町の4町が

合併して養父市が発足しました。

一級河川円山川が南東から北東の方向に流れ、その支流の八木川に沿って

八鹿、関宮地域が、大屋川に沿って養父、大屋地域が位置しています。

西部には県下最高峰の氷ノ山や鉢伏山、ハチ高原、若杉高原が、
北部には妙見山がそびえるなど、雄大で美しい自然に囲まれています。

 

朝来市(あさごし)は、養父市と同じく県北部に位置しております。

2005年(平成17年)4月1日、朝来郡生野町・和田山町・山東町・朝来町が

合併して朝来市が発足しました。

中国山地に属し、山間部が多く、出石糸井県立自然公園および

朝来群山県立自然公園があります。
気候は日本海側気候・内陸性気候であり、寒暖の差が大きく、

豪雪地帯に指定されています。
 

今回は、養父市で5校、朝来市で1校訪れました。

再訪した学校もありますが、前回から約6年ほど経っており

懐かしい思い出となりました。

2010年10月末~11月に訪れた際の記事です。↓
http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11510787677.html
http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11520565308.html
http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11515732309.html
http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11506424848.html

 

養父市旧関宮町大谷地区に閉校となった校舎を改装した新しい学校が

あります。

赤煉瓦の門柱は往時のものですが、表札は入れ替わっています。

 

白亜の外観、屋根の裏側にオレンジのラインやロゴが入った斬新な校舎です。

 

第一学院高等学校養父本校は、2008年4月6日に開校した私立通信単位制高等学校で、

全国から入学することができる高等学校です。

 

往時の小学校百周年記念碑

 

百葉箱も往時のものでしょう。。

 

学校付近の風景

遠く西方に雪を戴いたハチ高原が見えます。

 

大谷小学校(2004年閉校)

養父市への合併による学校統合により閉校後、養父市議会議場として

暫定使用された校舎を私立通信単位制高等学校として改装し

利用しております。

閉校校舎の再生利用の好例でしょう。

国道9号沿いにありますが、人影もない静かな場所で勉学に

最適な環境ですね。

 

次に向かったのは旧大屋町です。

閉校となった高校の分校校舎が残ています。

 

校舎は今も誇らしく輝いていました。

 

閉校後は、「おおやアート村 BIG LABO」と言う、アートを通して

地域の活性化の拠点となっています。

アトリエや創作品の展示会場として利用されています。

3つの棟で構成されており、手前から、展示場 ラボ×ラボ、

アトリエ棟 ときめきラボ、創作棟 ひらめきラボとなります。

 

入口のアートも木彫りの作品ですね。

 

壁画は、地元の児童らの描いたものと思われます。

 

アトリエ棟と創作棟は中央の渡り廊下で繋がっています。

 

ピザを焼く窯もありました。

 

奥の創作棟は木造校舎です。

パステルピンクの板張りに木枠の窓は、木造校舎の魅力を

十分に引き出していますね。

 

芸術作品ではないですが、跳び箱が教室に置いてありました。

地元の小学校で使用していたものでしょうか。。

 

廊下も綺麗に手入れされています。

壁には、各年度の卒業記念写真が掲示されています。

 

アトリエ棟には数々の創作品が展示されていました。

 

養父高等学校大屋分校(2010年閉校)

こちらも廃校活用の好例ですが、アート施設「おおやアート村 BIG LABO」として

2012年春にオープンしました。

アートの手作り体験や、アーティストの制作の場として活用したり、

ワークショップを開催したり様々なアート活動に力を入れているそうです。

 

大屋川に沿って県道48号を上流へと進みます。

旧大屋町西谷地区に閉校となった校舎が見えてきました。

 

塀の表札は往時のままです。

 

正門から目の前にあるのは醸造所の設備です。

閉校後に但馬醸造株式会社が研究、事務、倉庫として利用しています。

こちらも廃校活用の好事例ですね。

 

校舎は、鉄筋3階建てのしっかりとした校舎です。

 

隣の建物は、体育館です。

 

正面玄関の表札も往時のままですね。

西谷小学校(2006年閉校)

閉校後の2008年2月29日に但馬醸造株式会社が

廃校跡地において操業しました。
体育館を醸造蔵にし、校舎は職員室を事務室として、

理科室を研究室として、その他は倉庫として使用しています。

 

旧大屋町中心部に戻り、明延川に沿って県道6号を南下します。

途中の門野地区に閉校校舎が残っています。

塀の表札も往時のままです。

 

右側の塀には、現在、工場として使用している会社名があります。

リーフレタスなどを栽培する完全人工光型植物工場だそうです。

 

校舎は鉄筋3階建ての重厚な建物です。

 

工場の入口に小さな庭園がありました。

そこには、百周年記念碑と校歌を記した石碑が建っています。

 

閉校記念碑

石碑の裏面をみると、閉校への無念さが伝わってきます。

南谷小学校(2006年閉校)

オリックス農業(株)により植物工場施設として活用されています。

計画の発表は2013年9月で、翌2014年7月から出荷し始めたそうです。

こちらも、廃校活用の好事例ですね。

 

県道6号をさらに南下し、旧大屋町南部の明延(あけのべ)地区に入ります。

かつて明延鉱山は日本一のスズの鉱山として栄えました。

 

元協和会館

近代的な建物は、1957年に建てられた鉱山従業員のための娯楽・集会施設です。

 

案内板がすぐ傍に立っています。

 

往時の鉱山電車が展示してありました。

 

とてもこじんまりとした可愛らしい外観です。

 

フロントには「白金号」とあります。

 

乗車料金が1円なので「一円電車」の名前で親しまれました。

正式名称は明神電車で、明延鉱山~神子畑選鉱場までの約6kmの区間を

運行していました。

 

一円電車の説明と案内図

 

さらに進むと丘の上に別の電車が展示してありました。

 

「くろがね号」は明神電車で最大の客車です。

 

客車の内部は簡素な造りでした。

案内板をみると、定員23名とありましたが、窮屈そうです。。。

 

一円電車は、1987年に閉山に伴い運行を終了しましたが、

2010年に「一円電車明延線」として復活し現在は多くの観光客を

乗せて走っているそうです。

ただし、当日は人影もなく閑散としておりました。。

 

明神電車は、養父市の指定文化財として保存されています。

 

次に訪れたのは、あけのべ自然学校です。

あけのべ自然学校は、明延小学校が閉校されたのち、

その施設を有効利用し子どもたちへの自然体験の場を提供する目的で

設立されました。

 

あけのべドームは閉校後の学校跡地の校庭に新築された木造の

屋内運動場です。

 

あけのべドームの全景

雨や雪の心配もなく利用できるのが最大のメリットです。

また、木造で温もりの感じられる外観となっています。

 

案内板もあります。

2000年に完成したドームは、地元のスギ・ヒノキをフルに活用した大型木造施設です。

 

ドームの軒下に鉱山電車と運搬用のトロッコが展示されていますが、

全体的に錆が酷く保存・管理されている様子はないようです。

 

トロッコ一杯で鉱石が約1トン積めたそうです。

 

ドームの奥に旧校舎があります。

山奥にある旧鉱山集落ですが、鉄筋3階建ての重厚な校舎です。

 

校歌を記した石碑

 

学校の教育スローガンを刻んだ石碑

 

巨大な鉱石は何かの動物に見えますが、背中?の上に載っている丸い石が

閉校記念碑となっています。

 

さらに奥にある建物は旧体育館か講堂と思われます。

 

明延小学校(1988年閉校)

明延鉱山の閉山に伴い学校も閉校となりました。

学校の歴史は、明延鉱山の繁栄や衰退とともに時を刻んでいったようです。

 

明延集落の風景

明延川に沿って家屋が連なっています。

錆びたトタン屋根の集合住宅のような家屋も見えますが、

鉱山従業員の家族らが住んでいたことでしょう。。。

 

かつての明延鉱山の中心地跡に来ました。

 

案内板をみると、往時は山の上まで一円電車が運行しており、鉱山関連の事務所や

操車場、倉庫などがありましたが、今はゲートは閉鎖されひっそりとしています。

ここから採掘した鉱石を神子畑(みこばた)まで運んでいたようです。

 

急勾配の山肌に鉱車のレールが残っていました。

 

スロープを下りていくとモダンな建物が目に入りました。

 

鉱山労働者や家族が利用した無料の共同浴場です。

明延地区に6ヶ所ありましたが、最初に建てられた浴場なので

「第一浴場」と呼ばれています。

往時は青い屋根だったのですね。。

 

県道6号をさらに南下し、宍粟(しそう)市を経由して国道429号を東へ進み

朝来(あさご)市神子畑(みこばた)に入ります。

明神電車ならば約6kmの道程ですが、現在は県道と国道を経て

大きく迂回するしかありません。

ここにも一円電車が展示してありました。

中央の赤と黄色の客車は「わかば」号です。

 

こちらは牽引車でしょうか。

1円電車の由来を説明した案内看板

当初は50銭でスタートし、昭和27年から昭和62年の廃止までずっと

1円で運行していました。

 

神子畑選鉱所跡にやってきました。

ここは、三菱合資会社→三菱金属→明延鉱業の選鉱所という変遷を

辿っています。

 

約6年振りですが、変わらぬ迫力と存在感があります。

 

案内看板もあります。

1919年(大正8年)に、神子畑選鉱場は、養父市の明延鉱山の選鉱場として

建設されました。

 

ローマのコロッセオを彷彿とさせる円形競技場のような外観ですね。

 

昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期は約3000人が働いたといわれ、

規模、生産量ともに東洋一と称されるほど栄えたそうです。

明延鉱山で採掘された鉱石を選り分け、16キロ南東にあった生野鉱山併設の生野製錬所や国鉄播但線経由で飾磨港から直島の精錬所へ送る中継拠点の役割を担っていました。

 

ムーセ旧居 県重要有形文化財(建造物)

神子畑選鉱場の袂に洋風の邸宅があります。

ムーセ旧居は、明治4年12月ごろから翌年以降にかけて生野鉱山に

建設されたであろう5棟の外国人宿舎のひとつです。

鉱山開発に携わったフランス人技師たちのうち、ムーセやコワニエたち

幹部妻帯者の居住宿舎として使用されていたとのことです。

 

ムーセ旧居の手前の雑木林の中に古い校舎が隠れるように

残っています。

窓ガラスは割れて資材倉庫のようになっています。

 

横からは校舎のように見えましたが、旧体育館です。

小学校跡の石碑がしっかり立っています。

 

1972年(昭和47年)閉校ですから、45年も経っていますが、

明延鉱山の閉山や神子畑選鉱場の操業停止となる1987年より

15年も前に閉校となってしまったようです。

その頃から児童もいなくなってしまったようです。

 

旧体育館の反対側です。

 

錆びた遊具は遊ばれなくなっておおよそ半世紀も経ち、

枯れ木と同化してしまったようです。

 

昭和40年度(1965年)の卒業記念作品

銘板は基礎部分に残っていますが、ポールは根元から

折れていました。

 

児童の手洗い場と思いましたが、奥に神社があるのでこれは

参拝者用の手水舎でした。

 

神子畑(みこばた)小学校(1972年閉校)

校舎は取り壊されたようですが、体育館のみ残っています。

神子畑選鉱場の歴史と共に歩んだ学校ですが、

明延小学校のように活用されることはなかったようです。

選鉱場と同様に昭和ノスタルジーを感じる遺産の一部としてみれば、

修復するのは野暮かもしれません。。。