東京都檜原村、奥多摩町の廃校休校巡り(2016/06/11) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

檜原村(ひのはらむら)は、東京都の多摩地域西部にある村です。

また、離島を除く東京都の本州における唯一の村でもあります。

村域のほとんどが関東山地の中にあり、9割以上が森林です。

冬の寒さは都心と比べて厳しく、雪の量も都心と比べて多くなるため、
路面凍結や集落の孤立などの雪害に見舞われる地域です。

檜原村は山に囲まれているため、昔は林業や製材業が盛んでしたが、
今は山の石を取る採石業が行われている他、土木・建築等の建設業が多く

なっています。

面積:106 km2 人口:2,194 人 (2016年)

 

奥多摩町(おくたままち)は、東京都の多摩地域北西部にあり、

都内最大の面積を占める町です。
西多摩郡に属し、多摩地域に3つある町のひとつです。(残り2つは瑞穂町、日の出町)

多摩川を堰き止て造られた人造湖・奥多摩湖(小河内貯水池)を擁し、
その下流域に集落が広がっています。

町の大部分は山林であり、東京都で一番山が急峻な地域です。

また、観光客のほとんどは登山が目的で訪れます。
冬はほぼ毎日冬日であり、仙台市や酒田市などの東北地方沿岸部よりも

冷え込みは厳しいところです。
主な産業は石灰岩を採掘する鉱山業です。
面積:226 km2 人口:5,177 人 (2016年)

 

檜原村役場から都道205号を北秋川沿いに進みます。

3kmほどで、大沢集落の沿道右手に郷土資料館が見えてきます。

廃校跡地に建てられたものです。

 

林業の村らしい案内看板ですね。

 

唐箕(とうみ)

手動の脱穀機ですね。

幼少の頃、見た覚えがありますが、各地の農村で広く使用されていました。

 

踏がら(踏み臼)

テコの原理を応用し、柄の部分をを踏んで石臼の穀類を磨り潰していました。

檜原村では米がほとんどとれないので、大麦、小麦、泡、蕎麦を主食としていました。

踏がらは、昭和20年代まで各家庭で使用されていたそうです。

 

手前の空地は、かつての校庭だったのしょうか。

今は、ゲートボール場となっています。

険しい山に囲まれており、伸び伸びと走り回るには窮屈だったかもしれません。

 

トタン屋根の平屋の建物は新築された倉庫か集会所でしょう。

 

校庭の石垣付近には、苔むしたモニュメントが。

コンクリートブロックには、卒業児童の自画像が描かれていたようですが、

ほとんど消えてしまっています。

卒業記念作品ですが、製作年は不明です。

 

危険防止のため、座板や鎖を取り外したブランコ。

存在理由をな無くして抜け殻みたいになっています。

 

小学校跡記念碑の右手にのっぺらぼうの石碑が2基並んでいますが、

学校設立の為に寄付された方々のものです。

刻んだ文字が風化して判読困難です。

 

共励小学校(1982年閉校)

小学校跡記念碑は何とか判読可能です。

校舎は1984年に解体され資料館が新築されました。

跡地には、記念碑や卒業記念モニュメントが残るのみです。

檜原小学校への統合に伴い閉校となりましたが、

終了日の卒業生は8名、在校生は47名でした。

 

さらに都道を2kmほど進むと、小沢集落です。

沿道に懐かしい看板を見ました。

携帯電話が普及している中、珍しいものです。

電波が圏外になってしまうのでしょうね。

 

上流に進むにつれ、北秋川は細く深い渓谷となっていきます。

 

石柱の銘板にはっきりと校名が残っています。

 

反対側の石柱は、「渋谷区檜原自然の家」とあります。

 

フェンスに囲まれた校庭の奥に、赤い屋根の木造校舎が見えます。

 

これといった特徴のない平板な正面玄関

 

側面からは、木造校舎の趣が感じられます。

 

正門の横に使用可能なブランコがありました。

こちらは、座板等は付いていますね。

 

さきほどの共励小学校跡にあったものと類似した石碑が残っています。

 

北檜原小学校(1984年閉校)

赤い屋根の2階建て木造校舎は、1966年(昭和41年)に竣工したものです。

1986年(昭和61年)から東京都渋谷区がこの校舎を借り受け、

夏場を中心に、都心から自然を求めて訪れる人々の宿泊施設として

提供しているそうです。

当日も野鳥のさえずりが聞こえて長閑でした。

 

都道205号をさらに進み、小岩地区の高台に学校跡地が

あります。校舎は解体されて更地となっています。

 

北秋川小中学校(1986年閉校)

かつて、小学校・中学校が同じ敷地にあり、校庭を共用していましたが、

期を同じくして閉校となってしまいました。

 

北秋川上流の最果てに残る学校を訪ねます。

藤倉バス停から杉木立の脇道を上っていきます。

春日神社の境内の竹藪越しに、木造校舎らしき建物が垣間見ることが

できます。

 

上り詰めたところに、小さな空地がありました。

赤いトタン屋根に板張りの建物は管理棟だったようです。

左手の石垣上に、先ほど垣間見た木造校舎の一部が見えました。

それにしても、狭い敷地です。

子供らが走り回るにも窮屈な校庭だったに違いありません。

ボール遊びも満足にできそうにありません。

 

門柱の表札は、目を凝らさないと判読できません。

 

お馴染みの学校跡記念碑ですが、微妙に石の形が異なっていますね。

 

ペンキが剥がれるほど、ボールを毎日投げ続けていたのでしょうか?

あるいは、長い歳月を経て風化したのでしょうかね?

 

木造校舎の1階と2階はこの通路で往来していたようです。

手洗い場も設置してありますが、ここまで水道を引くのも往時は

大変だったことでしょう。

 

高台の校舎の軒下は、敷地が狭く全景を撮ることができません。

 

軒先から眺めた風景です。

奥多摩の深い森林が幾重にも連なっています。

 

藤倉小学校(1986年閉校)

北秋川最奥の藤原集落にある学校です。

藤倉までバスが往来するようになったのは、閉校の年です。

それまでは、小岩地区で折り返していたそうです。

往時は、遠方から険しい山道を歩き続けて通学していたに違いありません。

沿革を調べると、明治7年に檜原学校の第6分校として開校とあります。

長らく分校でしたが、1966年に小学校として独立しました。

その後は過疎化により児童数は減少し、閉校前年の1985年は

18名でした。

 

再び檜原役場に戻り、南秋川に沿って都道33号、都道206号と進みます。

途中の人里の信号でスロープを上がります。

 

人里(へんぼり)とは難読ですが、郷愁を誘う地名です。

 

スロープの先に校舎の跡地があります。

石垣のひな壇の上に校舎があったようですが、

ガードレール越しに薪木が幾束も置かれています。

 

集会所の裏側に目を遣ると、フェンスとの三角地に

3基の石碑が並んでいます。

 

最奥の石碑は、北秋川小学校・中学校跡を刻んだものです。

北秋川小学校は、2度の火災に見舞われ、校舎も再建される間も無く

1985年に閉校となりました。

最終の在校児童は23名でした。

中学校は、翌年の1986年に閉校となりました。

 

人里の信号の横断歩道を渡った場所に自販機があり、

缶コーヒーを買おうとした際に発見しました。。。

愛嬌ある人間らしさが「人里」らしいと感じました。

 

都道205号を西へ進み、人里(へんぼり)地区から数馬(かずま)地区に入ります。

沿道右手に数馬分校記念館の案内を確認しました。

屋根付きの案内板をみると、明治7年、宝積寺の「ダルマ和尚」が子供たちに

読み書きを教えたことに端を発し、明治41年には教員1名、児童71名いましたが、

平成11年 閉校。最終の在校児童は7名でした。

 

石垣に囲まれた坂道を上っていきます。

 

上り詰めたところに、綺麗な2階建て木造校舎があります。

こじんまりとしたモダンな校舎です。1959年(昭和34年)築だそうです。

周囲の山々が間近に迫ってきており、東京都とは思えない秘境と言える場所です。

校庭では、大きな望遠レンズのカメラを三脚に固定し、キャンプを張って野鳥を

撮り続ける人たちの集まりがありました。

受付に管理人の方がおられたので、挨拶をすると館内を案内していただきました。

(土日・祝日のみ開館しており、(9:30~15:30)入場は無料です。)

 

往時の下駄箱

最上部にびっしりと並んだ長靴をみると、

東京都内でも屈指の雪深い集落であることを感じます。

冬場の厳しさは、都心部とは比較にならないものでしょう。

 

各種班分けの名簿

少数でも規律正しく活動していたのですね。

 

1953年(昭和28年)11月の全校児童の集合写真

児童らの笑顔が、檜原村の活気溢れる往時を象徴しているようです。

 

図工室

ストーブから延びるアルミ製の煙突は、冬場の厳しさを伝えています。

 

職員室

ピアノが1台ポツンと隅に置いてあります。

 

年季の入った足踏みオルガン

鍵盤の上のボタンは、音色を変えるための音栓ですね。

 

分校の緯度、経度、標高を記した貼り紙

 

校旗と校章

壁に掛けてある表彰状は、1981年(昭和56年)のソフトボール大会での

栄誉を称えるものです。

 

1999年(平成11年)3月の閉校時の黒板です。

在籍児童数(7名)もしっかり記録されています。

1,2年:0、3年:2、4年:1、5年:1、6年:3

複式、複々式学級だったのでしょう。

 

黒板を消さないよう、時間を止めて保存しているのですね。

村人たちの分校に対する温かい思いが伝わってきます。

 

狭い廊下の壁には、分校の思い出となる写真が数多く掛けてありました。

 

2階へ続く階段では、運動会での児童たちの写真が。

少数のため、父兄も一緒になって活躍していたことでしょう。

 

教壇に向かって弧を描くように配置した机と椅子

アットホームな感じが、木造校舎の温もりと相まって良く伝わってきます。

 

閉校年に児童たちが製作した分校の想い出

ミニチュアですが、とても精巧にできています。

 

檜原小学校数馬分校(1999年閉校)

かつて、檜原小学校の分校は6校ありましたが、

最後まで残ったのが、この数馬分校でした。

125年続いた歴史ある山の分校です。

現在は、記念館として往時の栄光や面影を伝えています。

 

数馬地区を後にして、檜原村から奥多摩町へと入ります。

 

奥多摩周辺道路から臨む奥多摩湖

1957年(昭和32年)に竣工した人造湖です。

深い谷間に湖面が波打つことなく静かに佇んでいます。

ダム建設により、旧小河内村の大部分が湖底に水没しましたが、

その悲しい歴史を物語っているかのようです。

 

国道奥多411号に入り、摩湖の北岸を東へ進みます。

途中、峰谷橋を渡ると左折し高台へと上っていきます。

正門右手に小学校、反対側に中学校の表札が確認できます。

併設・共用していたのですね。

 

石垣のスロープをさらに上ります。

 

校舎の表側と思って上ったら、裏側でした。

中央の吹き抜けになっている箇所を潜って表側に出ます。

 

大きな変化は見られませんが、軒先の樹木がやたらと目立ちます。

 

小学校跡石碑

 

創立百周年記念碑

赤っぽい巨石に「楽山」とあります。

調べたところ、中国の古語で、「仁者楽山」という言葉がありますが、

その意味は、仁徳の備わった人は、欲に動かされず心が穏やかで

ゆったりとしているので、おのずから安定したどっしりとした山を愛する

ものであるという こと、です。
山村集落で育まれる郷土愛といったものでしょうか。

 

校舎の右手に体育館がありますが、

小・中学校で共用していたようです。

当日は、校庭でドローンを飛ばしている人達に会いました。

 

小河内(おごうち)小学校(2004年閉校)

薄いクリーム色の美しい2階建て木造校舎です。

旧小河内小学校は、ダム建設により水没を余儀なくされ、

当地に新築移転しました。
中学校と併設されておりましたが、氷川小学校、氷川中学校への

統合に伴い、時期を同じくして閉校となりました。

現在は、「奥多摩フィールド」として、多目的に利用できるスペースとなっています。
テレビや映画等の撮影場所や、ワークショップ、研修などに

活用されています。

外観上は、目障りな樹木を伐採すればスッキリとするのですが。。。

 

奥多摩町役場から都道208号を、日原川に沿って山奥へ進みます。

上流に進むに連れて谷間が深くなっていきます。

石灰質の岩肌が剥き出しになっているのが垣間見えます。

採掘した石灰岩を運ぶダンプに頻繁に遭遇しました。

景色に見惚れていると危険です。。

 

トンネルを抜けた先に、山腹に折り重なるように家屋が見えます。

日原(にっぱら)集落です。

東京都の秘境集落ですが、路線バスが往来しているのです。

集落の先に鍾乳洞があり、夏場には涼を求めて多くの訪問客が

あるそうです。

 

集落の山手の高台に閉校校舎が残っています。

 

現在は診療所として使用されています。

人影もありませんが、奥多摩町の出張診療施設として週1回は

医師が診察にあたっているようです。

 

木造校舎の横顔

校舎の周囲の敷地が狭いため、正面からの全景は撮れません。

 

木板に「児童昇降口」とありますが、

この扉から2階へ続く階段があったのでしょうか。

 

地元の自然を謳った校歌&小学校跡記念碑

閉校年の1994年(平成6年)3月に記されています。

 

長らく使用されなくなった遊具

 

日原(にっぱら)小学校(1994年閉校)

奥多摩町の最深部にあった小学校です。

沿革を調べたところ、明治初期に氷川小学校日原分校として創立され、

1961年(昭和36年)には、本校として独立を果たし、在籍児童は100名を超えました。

ところが、1966年をピークに児童数は減少の一途を辿り、1991年には8名まで

減少、1994年に閉校を余儀なくされました。

閉校は、集落の過疎化を顕著に示していますが、行く末が集落の消滅に

ならないよう願うばかりです。