今回は、静岡県3都市の廃校休校巡りです。
主に、浜松市天竜区春野町を訪れました。
帰路に磐田市、豊橋市で各1校訪れました。
春野町(はるのちょう)は、かつて静岡県西部(遠州)の山間部に存在した町です。
2007年4月1日に浜松市が政令指定都市へ移行したのに伴い、天竜区の一部となりました。
磐田市(いわたし)は、静岡県西部地区の市です。
かつては、遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の政治文化の中心都市であり、
戦国時代から江戸時代にかけては、東海道宿場町である「見付宿」があった見付地区が発達しました。
近年は、Jリーグのジュビロ磐田の本拠地として有名です。
豊橋市(とよはしし)は、愛知県の南東部にある都市です。
東三河地区の中心都市であり、同地区の人口の約半数を占めます。
中核市に指定されています。
犬居小学校領家分校(1966年閉校)
浜名湖北岸の三ケ日から国道362号を東北に進み、山間部へ入って行きます。
静岡県の北西部に位置する春野町は、全国品評会や世界緑茶コンテストで
上位入賞する地域であると同時に、有機栽培茶の産地です。
春野町は天竜川の水源にも位置し、標高300m~600mの冷涼な気候と山に
囲まれているおかげで、農薬を使わないでもおいしいお茶が出来る環境になっています。
校舎は、春野町領家地区に入り、秋葉神社へ向う秋葉橋を渡って坂道を登り
程無く高台にあります。
広場には、製茶工場の資材が置かれていましたが、その奥に平屋建ての
木造校舎がありました。
屋根の右半分は緑色、煙突が高く伸びており工場として改築されておりましたが、
左半分は当時のまま瓦屋根の校舎の面影を残しています。
正面玄関の屋根には、「学」の文字が刻まれ、学校であったことが確認できます。
その横のタンクには茶摘姿の娘が可愛らしく描かれていました。
国道362号を北上、春野町宮川地区の沿道に小学校跡が
ありました。校舎は撤去され「春野文化センター」が建っています。
真っ赤で巨大な天狗のお面に圧倒されて立ち寄ったのですが、
春野町は各地に残る天狗伝説の残る町です。
校門は「川宮文宮川」とゴシック体の文字が刻まれ、そばに校歌の石碑、
二宮尊徳像があり、かつて小学校があったことが判ります。
そして、その傍らに首を傾げたお地蔵さんが立っており
足元に栗が一杯おいてありましたが、詳細な意味は判りませんでした。
国道362号と別れ、車一台だけしか通行できない狭い小石間トンネルを潜り抜け
気田川に沿って春野町最北部に入って行きます。
県道389号沿道から遠方に小さな集落と赤い屋根の建物が見えました。
近付いてみると、廃校となった校舎でした。
校門の表札に校名が残っており、二宮尊徳像も健在でした。
そして、屋根の上には「豊」の校章がはっきりと確認できました。
前日から降り続いていた雨のため、灰色の濁流でした。
勝坂は勝坂神楽で有名です。
勝坂神楽は、五穀豊穣・子孫繁栄などを祈願し、毎年10月下旬の日曜日に奉納される神楽で、
天竜区春野町豊岡の勝坂地区におよそ360年前から伝わるものです。
地区内の清水神社と八幡神社の神前では神楽獅子舞が、そしてそれぞれの場所への
移動中には道中舞が舞われます。全て男性が演じることと決められており、牡丹柄を
あしらった女物の赤い着物に獅子頭という出で立ちが特徴です。
春野町最北部にある校舎です。
勝坂大橋を渡り、集落を見下ろす高台にあります。
この度、最も訪れたかった校舎の一つですが、ピンクが鮮やか過ぎて
圧倒されました。ペンキの剥げ欠けた味わい深い木造校舎を見たいと思って
おりましたが、今年の夏に塗り替えたそうです。
これは、これで村人の活気と校舎を長く大切にしたいとの思いが伝わってきて
微笑ましく感じました。
正面玄関から校庭へと、カラフルな提灯が吊り下げられ祭りの準備が整えられて
いました。法被姿の村人達が三々五々集まってきて祭りの打ち合わせをされておりました。
勝坂祭りが盛大に繰り広げられる前に校舎を後にしました。
国道362号から県道389号に入り、春野町五和集落へ向います。
山深い峠を登りきった場所に、小さな案内が沿道にあります。
進んでいくと草むらの中、木々に埋もれんばかりに
廃校舎がひっそりと残っていました。
牛舎と見紛うくらい朽ち果てており、近付くのは容易ではありません。
分校跡の石碑も年季が入っていました。
さきほどの勝坂小学校とは対照的に、見向きもされず朽ちていく小さな分校が
そこにありました。
国道362号沿道の坂道を登った場所、杉集落の外れにあります。
閉校になって7ヶ月ほどしか経ていないためか校舎も朽ちておらず
今でも子供らが教室から出てきそうな感じです。
ただ、校庭は延びきった芝生や雑草だらけで特に手入れもされていないようです。
この4月から気田小学校への統合に伴い閉校となりました。
閉校時の在校生徒は、僅か7名でした。
国道362号は山間部へ進むにつれて道幅も狭くなっていきます。
川根本町から県道263号に入り、田河内集落にあります。
広場の奥に自治会館、手前に鉄筋2階建ての校舎が残っていました。
校門付近に大きな銀杏の木が立ち、黄色の実を地表に絨毯のように
敷き詰めており、独特の匂いを放っておりました。
教室の天井は鋼材で補強されており、室内にはオルガンや黒板、椅子が
当時のまま残っておりました。
廊下には卓球台が進路を防ぐように無造作に置かれていました。
県道263号も奥へ進むにつれ狭くなっていきますが、
小さな集落を抜けようとした坂道に広場があり、
小さな小屋が3棟あるのを見付け立ち寄りました。
校門はしっかりと校名が刻まれており、学校跡の石碑もありましたが、
校舎本体は撤去された後でした。
地元の方に確認したところ、かなり老朽化していて
そろそろ取り壊さなければ危険だと感じていたところ、
自然と崩壊してしまったそうです。
3つの廃屋は、学校の付帯施設のようです。
青い屋根の建物は、屋根に尖がった角のような塔があり、
庇もギザギザになっていて独特の様式です。(大正時代の建物だそうです。)
窓ガラス越に中を見ると、机や椅子が積み上げられていました。
倉庫か教員宿舎か何らかの目的で使用されていたのでしょう。
校舎本体が見られなくて残念でしたが、取り壊される前に
自ら終焉を迎えた校舎の悲しい運命を思いつつ後にしました。
大時公民館
花島集落から峠を降りる途中の小さな集落に
洋館風の建物がありました。
分校かなと思い、地元の方に聞きましたところ、
当初から公民館とのことです。
花島小学校跡地にあった青い小屋と同じ様式の建物です。
こちらも大正時代の建築物です。
櫓の上まで登って鐘を叩いて急を告げたものでしょうが、
いつごろまで使われたいたのでしょう。
かつて各地の山間集落では、このようなものがたくさんあったと思われます。
胡桃平(くるみだいら)小学校(1969年閉校)
曲がりくねった峠道を下っていくと傍らに小さな広場があり
重厚で立派な校舎が鎮座しておりました。
山深い中に不相応なモダンな校舎です。
高級な宿泊施設のような雰囲気ですが、よく見ると屋根瓦の上に「学」の
文字があり、学校であったことが確認できます。
想像以上に新しい外観の校舎とは対照的に、木陰の陽のあたらない場所に
錆びた遊具がひっそりと残っていました。
磐田のシンボルともいわれるとても美しい歴史的建造物です。
旧見付学校は明治5年(西暦1872年)の学制発布を受け、翌年8月仮校舎として開校しました。
新築工事は、名古屋の堂宮棟梁 伊藤平右衛門(後の9代目伊藤平左衛門)に委嘱し、
明治7年(西暦1874年)10月に工事着手、翌年1月11日に上棟式を行い8月7日に落成、
開校式が挙げられました。
現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎で、国の史跡に指定されています。
5階建ての洋館風の館内は教育資料の展示や授業風景を再現しています。
豊橋市多米町に残る木造校舎です。
市内で唯一残っている木造校舎だそうです。
1978年から豊橋市民俗資料室収蔵室として使用されております。
校舎の窓は、金網で防護され近寄り難い雰囲気です。
中庭には、右手を上げ遠くを指し示す姿や飛び立とうする鳩のモニュメントが
ありました。
校庭では、子供等がボール遊びをしていました。