トヨタ自動車が本社を構え、企業城下町として発展してきました。
市名の読みは濁らず、「とよた」市ですが、豊田一族の姓は、「とよだ」です。
人口42万は県下2位、面積は平成の大合併により県下1位で県の約20%を
占めております。
国道301号を走り、豊田市役所を過ぎ矢作川を渡ると
巨大な要塞のような建物が目に飛び込んできました。
後で調べたところ、球技場であることが判明。
J1リーグの名古屋グランパスが準ホームスタジアムとして
利用している立派な球場です。
沿道の鯉のぼり
国道301号を、市内から郊外へ入っていくと田んぼの土手沿いに
数本の鯉のぼりが泳いでおりました。
民家の庭や軒先に立てるものと思っておりましたので、
意外な感じです。
ただ、沿道からの鑑賞には最適です。
4月半ばのGW前で少し気が早いようですが。。
国道301号を東進し、国道473号との分岐点にありました。
小さな木造校舎ですが、品格のある外観です。
綺麗に整備されており、地元の方々の郷土への強い思いを
感じました。
正門から構内への通路に「今日も笑顔でおはよう三巴」と
独特のの掲示に思わずニンマリ。
正門前には、二宮尊徳像、閉校記念之碑、学校の沿革を
刻んだ石碑が整然と並んでおりました。
「三巴のさと」と施された植栽は、温もりのある手造りの宣伝です。
国道473号と420号の分岐点に位置し、標高400mほどの
山間部にあります。
高台にある平屋建ての木造校舎です。
校庭は雑草も無く整備されておりました。
「我らの学び舎」と刻まれた石碑の上方には、
翼を広げた鳩とボールのオブジェ、「努力は人をつくる」と書かれた
ユニークな石柱がありました。
見慣れた二宮尊徳像と異なり、新鮮に感じられました。
国道420号から県道367号に入り、滝沢地区にあります。
閉校後は、「鼎(かなえ)工房」なる館となっており、
木工、竹細工、陶芸等のアトリエとして利用されておりました。
校舎の表と裏側でまったく異なった表情です。
校庭には、「学び舎の跡」と刻まれた立派な石碑が鎮座しておりました。
付近は、神越渓谷と呼ばれる自然豊かな場所です。
神越渓谷の渓流
切り出された材木を薪にする作業場
冬場の燃料用でしょうか。
国道420号を足助町方面に北上し、大見橋の手前の
下り坂、右手に見えます。
現在は、「日総工産㈱」の研修場として使用されております。
校舎の下の空き地が校庭となっておりましたが、
雑草に覆われ、サッカーゴールが残っておりました。
黄色い屋根の小屋(倉庫)の壁には子供達の投げるボールの的が
描かれてました。
正門の古代遺跡のように積まれた石のモニュメントをよく見ると
「大見学校跡」と刻まれた記念碑でした。
1991年度の在校生は、17名でした。
足助町は、東加茂郡に属しておりましたが、2005年4月1日付で
豊田市に編入されました。
歴史的な町並みは、平成23年に重要伝統的建造物群保存地区に
選定されました。
江戸時代から太平洋岸各地と山間地方を結ぶ要所として栄え、
飯田街道(三州街道)の宿場町でした。
この街道は、三河湾の塩を信州へ運んだ「塩の道」でもありました。
足助では、馬で塩を運搬しやすいように小分けして包み替えたことから、
「足助塩」、「足助直し」と呼ばれました。
訪れた日は、足助春祭りが催され活気に溢れてました。
足助春祭りは、元弘の乱(1331年)に、南朝・後醍醐天皇を守り、
笠置山(京都府)で奮戦した足助次郎重範公(あすけじろうしげのり)を称える祭りです。
お祭りは、花車を出し、町内を引廻します。
足助川に掛かる橋を渡り、花車を旋回するのは、若連と呼ばれる20代が中心の男衆です。
足助の町並みは、軒先に日本の伝統色である浅黄色と白のストライプの幕が張られ
祭りを厳かに演出しておりました。
大正12年に建てられた愛知県蚕業取締所足助支所を利用して
昭和62年に開館しました。
町内から出土した縄文土器や、三河地方の郷土品を展示しております。
風格のある玄関ポーチが印象的な美しい木造建築物です。
校舎は鉄筋ですが、講堂は立派な和風木造建築です。
町並みを見下ろせる高台にあります。
椿立小学校(1995年閉校)
国道153号から県道33号へ入り、観光・福祉施設「百年草」の
裏手の細い道を上っていきます。
付近は、人家も無く寂しい場所ですが、山のてっぺんに別荘のような建物が見えました。
現在、「足助里山ユースホステル」という宿泊施設となっております。
ここにも、「学び舎の跡」と刻まれた重厚な石碑がどっしりと置かれておりました。
澄んだ空気と小鳥のさえずり、少し冷えた春風を感じ、後にしました。
里山の秘境にある美しい木造校舎です。
1991年度の在校生徒は、僅か6名でした。
椿立小学校の校庭からの眺望
大多賀小学校(1987年閉校)
県道33号を東進し、奥へ入っていくと沿道に薄いピンクの木造校舎が
右手に見えてきました。
壁を塗り替えたばかりのようで斬新に感じられました。
現在は、「日東醸造㈱」の所有として使用されているようです。
ここは、隣町の設楽町にも近く、豊田市の辺境にありますが、
「大多賀渓谷」や「ねびそ岳」なる美しい自然に囲まれた集落です。
正門前の石碑に刻まれた校歌は、自然豊かな里を称える素朴なものでした。
県道11号を矢作川に沿って上っていき、阿摺発電所付近の
高台にあります。
現在、「ルネサンス豊田高等学校」として使用されておりますが、
正門の門柱には、「豊田市立藤沢小学校」と残っておりました。
正門下の坂道には、創立百周年記念の「なかよしの像」がありました。
もっこりとした男女児童が頬寄せ合う独特のポーズが印象的でした。
藤沢小学校から、矢作川の対岸へ渡ると大河原地区となります。
田んぼと山に囲まれた長閑な山村集落です。
農道のような細い道を奥へ入っていくと丘の上に立派な鉄筋校舎が
ありました。
現在は、「足助資料館分館」となっており、町内の民俗資料等を展示して
いるそうです。でも、このような場所に資料館があるとは少し驚きました。
地元の方に聞いたところ、縄文土器が多数出土しており、
古代には大きな集落があったようです。
「おおがわらっ子」と刻まれた台上には、13名の小さな像が表情細やかに
造られておりました。背丈もそれぞれ違います。
閉校時の生徒達と思われます。今も校訓のとおり、誠実さを保って欲しいと
思いながら校舎を後にしました。