日本海側へ抜ける交通の要所となっております。
大阪を起点とするJR福知山線と京都を起点とする山陰本線は、
福知山で合流します。
福知山は、戦国時代に明智光秀が丹波地方を平定し福知山城を築いて以来
城下町として発展してきました。
戦前までは、養蚕・生糸の生産が盛んでしたが、戦後の高度経済成長により
衰退しました。現在は、工業団地も整備され、北近畿を代表する中核都市となっております。
福知山市出身の芸能人には、千原兄弟や、元モーニング娘の中澤裕子らがおります。
宮津市は、京都府北部に位置し、広く若狭湾を臨む町です。
入り江は宮津湾、さらに奥は阿蘇海なる内海であり、日本三景の天橋立を形成し
風光明媚なところです。
一方で、丹後半島内陸部は、過疎化にる人口の流出に歯止めがかからず、
廃屋や廃校休校の多い地域でもあります。
国道9号を山陰方面に進み、旧三和町から県道709号に入り、
山間部の中出地区にあります。
平屋建ての小さな木造校舎です。
現在は、「なかで虹の分校」という農業体験を主とした就労支援施設に
なっておりました。
1991年度の在校生生徒はわずか3名でした。
国道9号から国道176号へ入り北上し、福知山市北部の山間集落である行積(いつもり)
地区にあります。
鉄筋3階建ての小さな校舎でかなり老朽化しておりました。(現在は解体、撤去となっております。)
玄関からガラス越しに中を覗いてみると、靴箱や備品に他校の名前が書いた
紙が数枚貼ってあるのが見えました。
他校で再利用するための貼り紙と判りましたが、どのような基準で
選定しているのか気になりました。(早い者勝ちではないでしょうが。)
廃棄せずに大切に使ってもらえると、靴箱らもきっと喜ぶことでしょう。
「金山小学校統合記念碑」は、1991年(平成3年)に市内の天津(あまづ)小学校に
統合された時のものです。
統合時の生徒は18名でした。
公誠小学校(2010年閉校)
福知山市最北部の雲原地区にある学校です。
閉校時の生徒は12名でした。
創立百周年記念の石碑の下に朝の挨拶がありました。
北稜中学校と同じ敷地内に併設されておりました。
公誠小学校と並んで建てられておりますが、こちらは
趣のある木造校舎です。
木々に囲まれ、校舎中央に伸びたフェニックスが印象的でした。
2号機関車(明治6年製造)
福知山から国道176号を北上し、与謝野(よさの)町に進むと、
道の駅「シルクのまちかや」付近に差し掛かると、数種類の蒸気機関車が
目に入ってきます。
丹後地方で、大正期から昭和30年代まで活躍した加悦(かや)鉄道の
蒸気機関車です。
村人の足として、特産物の丹後ちりめんや、大江山で採掘された
ニッケル鉱石の運搬用として利用されました。
戦後は、自動車や電車の普及とともに姿を消しましたが、ここでは大切に
保存されております。
当時は多くの村人らに親しまれたのに、時代の流れに適応できず消えていった
悲しい運命を感じました。
その点は、木造校舎も同じです。だからこそ、愛着を感じるのでしょう。
蒸気機関車も木造校舎も、存在感のある力強い雄姿は共通点です。
国道176号は天橋立付近で宮津湾を南北に囲むように分岐し
国道178号となって延びていきます。
北方に進路を執り、日置地区から県道617号を内陸に入っていくと
突き当りが畑集落です。
20年ほど前に廃校になっているにもかかわらず、赤レンガの校舎がしっかりと
残っておりました。小高い丘の石垣の上にありました。
ここに来るまでは、地元の方に尋ねてやっと辿り着いたのですが、
道案内のお礼を言おうとすると、「折角来たのだから、家にあがってコーヒーでも
一杯飲んでから行きなさい。」と言われ、戸惑いました。
見ず知らずの私を、道を訊いただけで家に入れることは、ありえないことだからです。
他に行く予定もあり、時間が押していたので丁重に断りましたが、
村人の優しい心遣いが胸に沁みました。
通り縋りの者でも、心に鍵を掛けずに触れ合いを大切にする社会が、
ここには残っておりました。
日置地区から県道75号を山間へ上っていくと
世屋地区に入ります。
世屋高原と呼ばれる標高のある狭い道を突き進むのですが、
過疎化により廃屋が目に付きます。
校庭は雑草に覆われ、校舎もかなり劣化しております。
海岸の集落より標高もあり風雪の厳しい内陸の集落は、
堪え切れずに山を下りる村人も多いと聞きました。
世屋高原の曲がりくねった狭い道を下りていく途中で
空家となった家屋の前に残された石碑が目に入りました。
父祖伝来の土地を守れず、若い世代が次々に都市部に転出し
戻って来ない状況を案じ、世屋集落の存続を憂えた内容です。
過疎集落においては、共通する状況ですが、
私にとっては、郷里の実家を思い起こさせる、とても重い内容でした。
世屋高原を下りてから県道621号を再び内陸に上っていき、
奥波見地区の山間にあります。
廃校後は、「地球デザインスクール」というNPO法人の自然体験施設となっているようです。
荒廃した校庭跡に錆付いた遊具が残っておりました。
校舎の窓から突き出た煙突は、冬の厳しさを十分に訴えるものでした。
養老小学校から県道625号を再び内陸へ入っていきます。
内陸の集落同士は山々に隔てられており、一旦海側に下りてから
別ルートで上って行くという大変不便な地形となっております。
日ヶ谷小学校は、鉄筋の外観から見ても、他の廃校に比べて新しく
しっかりとしたものに感じました。
訪れた日は、地区の運動会が催されておりました。
田原地区は、宮津市最北の集落です。
現在は、地区の集会所として使用されている様子でした。
廃校時の生徒数は僅か3名でした。
日ヶ谷地区から県道652号を海側へ下りると伊根地区に着きます。
宮津高校は、ロンドンオリンピック女子マラソンに出場した木崎良子選手の
母校ですが、伊根分校は、本校から26km離れた市外(与謝郡伊根町)にあります。
丹後半島東端に位置する伊根湾に230軒ほどの
独特な造りの民家が密集しております。
1階は船着場や物置、作業場となっており、2階が居住場所となっております。
1階は、車のガレージみたいなものでしょうね。
伊根湾が内海になっていて高波から守られているために、このような構造の家屋でも
破壊されることなく存続していると思われます。
これらは、重要伝統建造物群として指定され、学術上も価値あるものとして
保存対象となっております。
群生した色とりどりのコスモスが短い秋の風に
揺れていました。
10月は海水浴場も閑散として、数人が水上スノーモービルを楽しむのが
見えるほかは、目立ったものはありませんでした。
波は静かで穏かでした。
栗田(くんだ)小学校田井分校(1993年廃校)
伊根地区から国道178号を宮津湾に沿って南下し、
天橋立を回り込むよう東へ進み、県道605号を栗田半島の岬へ
向かう途中にあります。
1991年度の在校生徒は、わずか3名でした。
分校の裏は、砂浜が続き海水浴場となっております。
当時の生徒たちはプールに行かなくても困らなかったでしょう。
外観から、学校ではなく海の家のような施設だと思い込んで
通り過ぎたところ、地元の方に教えていただいてやっと見つけました。
雑草に覆われ容易に近づけなかったのですが、秋風にたなびくコスモスに
誘われるように足を踏み込んで撮影しました。
窓にカーテンが掛かり内部は見えませんでしたが、
校舎の間にある四角い小さな窓枠の中に、海に浮かぶ舟を発見しました。
今でもあの光景は忘れられません。
田井分校の校舎裏側に広がる砂浜