今日はちょっとお出かけして、100年前の関東大震災時の朝鮮人虐殺について、静岡市内某所で開かれた講演会に参加してきました。

 

私自身、ザックリとした知識しかなく、細かな点についてはあやふやなところも多かったので、いろいろと勉強になりました。

しかし、新たな知識を得るだけではあまり意味がなく、本当はそこで一人一人が何を考えたのか・その意見を交換し合う時間をもつことが重要なのではないかと思います。特に、関東大震災時の朝鮮人虐殺問題については、「普通の人々」が虐殺行為を行ったというところに特徴があり、現時点・現在の立場で批判をする人も、その場にいたら虐殺側に加わったのではないか、という疑念があるし。

 

ただ、とはいっても現実問題として、多くの人が参加している講演会のような場所では、それは難しいのかもしれませんね。

また、(質問ではなく)意見を求めるとなると、予期せぬ発言が噴出して場が荒れるのかもしれません。

まぁ、荒れたら荒れたでいいんじゃないかと思いますが、その辺は主催者の考え方次第ですね。

とりあえず、講演会に対するお礼がてらに、私が考えたことを記しておこうと思います。

(考える「よすが」として、2016年までは寄せられていたという、東京都知事による追悼の辞を用いたいと思います。)

 

さて、現在の東京都知事は小池百合子さんですが、小池さんも2016年までは追悼式典に追悼の辞を寄せていたそうですね。

てっきり、毎年「追悼の辞を寄せない」旨のニュースを見聞きしていたので、一度も寄せたことがなかったんじゃないかと思っていました。

では、何故寄せなくなったのか。

どうも、2017年3月2日の都議会で、自民党の古賀議員から質問が出されたことが切っ掛けになっているそうです。

では、古賀都議は何といったのか。

詳しくは議事録をご覧いただきたいのですが、①案内状に記載がある虐殺された人の人数(6000余名)には疑問がある、②したがって、都知事がそのような歴史をゆがめるような行為に加担することは避けた方がいい、といったものだと私は認識しています。

そして、実際に小池さんは2017年から追悼の辞を送付することを控えるようになり、

今年2月23日の都議会では、「何が明白な事実か」については「歴史家がひもとくもの」として例年通り、追悼の辞を寄せませんでした。

 

まぁ、小池さんの言い分もわかりますよ。

それに、小池さんは誤解されているようにも思えて、ちょっと同情もします。

小池さんは歴史上の事実・特に虐殺された人数については、歴史家に判断を委ねてべきだと発言しているだけであって、小池さんだって、虐殺の事実を認めないわけでもなければ、虐殺された朝鮮人に対して追悼の意がないわけではないのだろうと思います。

 

ただ、以下はそれを踏まえての私の意見になります。

まず、「歴史家がひもとく」といいますが、それって紐解けるものなんですかね?おそらく、虐殺された正確な人数については、天才的な歴史家(そもそもそんな人がいるのかどうか・現れるのかどうか疑問ですけど)であっても、今後もわからないのではないかと思います。

それに、そもそも「歴史家」だけをことさらに持ち出すことが、はたして妥当なのかどうかと、疑問に感じます。

多くの人が問題だと思っているのは、なぜ一般の人々が虐殺行為に加わったのかであり、そこは歴史家だけが判断するのではなく(むしろ畑違いではないかと思います)、社会学者や社会心理学者なんかも交えながら、一般の市井に生きる人たちがむしろ中心となって徹底的に話し合うことが必要なんじゃないかと思います。

つまり、歴史家には今後も史実を明らかにすることはできない。では、何をするべきかということを考えたときに、どうしてそうなったのかを解明すること・そしてその姿勢をみせることが(本当の)政治家には求められていることなんじゃないかと思います。

 

まぁ、とはいっても都知事は東京都民が選ぶ話なので、静岡市民である私には口出しをする資格もないのですけれど。

あの程度でも都知事になれるんだなぁ、というのが私にはちょっと不思議です(笑)

まぁ、その分きっといいところもあるのでしょう。

 

下↓は関東大震災の時の静岡新報(静岡新聞の前身の一つ)の記事。

この時のことをしっかりと反省しておかないと、悪気はなくても似たようなことを今後も繰り返すんじゃないんですかね。

 

今年は関東大震災100年ということもあって、何かと朝鮮人虐殺についても目にする機会が増えました。

小池さんを評価するとしたら、波風を立てたことによって議論を産んだことですかね。

追悼の辞自体は、半世紀前の1973年から2016年まで毎年都知事により出されていたそうですが、多分、小池さんが古賀都議の質問を無視していたとしたら話題にもならず、私が関心を持つこともなかったのではないかと思います。

私からすれば、小池さんの答弁は形式的であって満足のいくものではありませんが、行動により議論を引き起こしたことについては、政治的レガシーとして評価したいと思います。