さて、前回の続きになります。

今回のブログでは、ウィキペディアの「安倍川花火大会」の説明を批判しようと思います。

 

もっとも、ウィキの説明は大会本部自身による説明を根拠としているので、大会本部自身の説明が間違っている以上、ウィキの説明が間違っている点については仕方がない面も多々あるのですけれど……。

 

とりあえず、ウィキ(2023年7月24日閲覧)を書いた人自身の説明として問題がある点を挙げておくと、「昭和28年に行われた第1回安倍川花火大会」の説明と、「占領下(昭和20年から昭和27年)に行われた花火大会」の説明をごちゃ混ぜにしているところですかね。

この点については、大会本部はそうは言っていないので、ウィキを書いた人の読み間違いに問題があるのだと思います。

安倍川花火大会の歴史について大きく見れば、①江戸時代、②大正時代、③占領下時代、④第1回以降の現在につながる時代

の4つに分けられますけれど、ウィキは③を「第1回」と紹介しているので、そこがおかしいですね。

 

もっとも、ウィキ全体について見れば、昭和28年以降の安倍川花火大会の説明を中心としているので、今回のブログでは私もそうしようと思います。

ただ、とりあえず①②③各時代に花火大会があったこと自体について疑問に思う方もいらっしゃると思うので、各時代の花火大会を紹介する代表的な文献だけ紹介しておきます(どれも私自身過去のブログで紹介したものです)。

 

①江戸時代の安倍川花火大会⇒『駿国雑誌』第15巻(「7月26日」の項)

②大正時代の安倍川花火大会⇒静岡新報(大正13年9月2日朝刊2面「九月一日は再び去りぬ」)、静岡民友新聞(大正14年9月1日朝刊3面「今晩は安倍川に施餓鬼」)

③占領下時代の安倍川花火大会⇒『一生懸命 杉山伊三雄小伝』、産経新聞(平成27年7月22日静岡地方面「安倍川花火とともに歩んだ復興」)

 

さて、本題の、昭和28年(第1回)以降の安倍川花火大会についてですが、正直、どこから手を付けたらいいのか……。

ウィキは安倍川花火大会の「歴史」を説明する上で、第1回以来の花火大会の理念として「静岡大空襲犠牲者の慰霊」を紹介しているように思えますが、その点が間違っているのではないかということについては前回のブログで少し書いたので、

今回は「主な開催記録」について批判したいと思います。

まぁ、言ってしまえば基本的な事実認識に対する批判ですね。

 

まずはウィキ(大会本部)の言い分を私なりにまとめたものを紹介したいと思います。

下の写真がそれですけれど、実はコレ、私が去年、大会本部と静岡新聞社に持って行った報告書から取りました。

 

それに対して、私は初期の安倍川花火大会をどのように認識をしているのか。

同じく、私が去年、大会本部と静岡新聞社に持って行った報告書から紹介します。

 

まぁ、全然違いますよね(笑)

第1回が(昭和28年までは一致しているけれど)7月なのか、8月なのかという点でも違うし、第2回や第3回が「木工祭花火大会」だったのかどうかという点でも違うし。それに、「休止」となった年が昭和31年なのか、32年なのかという点でも異なります。

 

大会本部の言い分と私の言い分のどちらが正しいのかは、それぞれの判断に委ねたいと思います。

ただ、その判断の前提として必要となると思うので、以下では私が上記の認識を持つに至る根拠となった文献を列記して紹介したいと思います。ちなみにこの辺の詳細も、すでに過去のブログで書いてあります。

ご興味のある方は是非そちらを読んでみてください。

 

「第1回」について⇒静岡新聞(昭和28年7月14日夕刊3面「安倍川原で精霊祭」)

「木工祭」について⇒読売新聞(昭和28年8月21日静岡地方面)、静岡新聞(昭和28年8月21日夕刊2面)

「第2回」について⇒静岡新聞(昭和29年8月25日夕刊3面「今夜 安倍川大花火」)

「第3回」について⇒静岡新聞(昭和30年8月20日朝刊4面「安倍川花火大会 今夜七時半から」)

「休止」について⇒静岡新聞(昭和32年8月8日夕刊3面)、静岡新聞(昭和30年8月23日朝刊3面)、静岡新聞(昭和30年8月21日朝刊3面「ゆうべ、猛雷雨到る」)

「第5回」について⇒静岡新聞(昭和33年7月21日朝刊5面「豪華版 雨でおじゃん」)

 

さて、どちらの言い分が(大筋において)正しいのでしょうね。

私としては、自らの見解にある程度の自信を持っており、したがって大会本部自身が説明を改める必要があると思っていますけれど、それまでは毎年一回くらいの頻度で批判を続けていきたいと思います。