ふと聞こえてきた1匹だけ鳴いているセミの声に感情移入してしまう皆さま、

ご機嫌いかがですか。

 

どうか良いご縁(カップルを見つけて)を…!

夏の残り香と共に祈るような気持ちでいたあの頃を思い出します。

 

早いところではもう事前面接が始まりますね。

 

 

 

ここは中受校。正直言って第一志望ではないけれど、受けるからには合格したい。

そのために面接練習は過去問を見てできる限りやってきたと思っている。

 

 

「本校は中学校受験を全員がします。その点はご理解頂いていますか」

 

 

面接過去問に毎年ある。想定内の質問だ。

 

 

よし!

 

 

 

「・・・ッおう・・・・」

 

 

 

己の口からまさかの声が。

部活終わりに好きな子から突然ハンドタオルを投げ渡された野球部員のような返事をしてしまった。

 

照れているわけでも、何かを隠しているわけでもない。

ただ言葉が出ないのだ。

 

 

実は私は、私立中学校受験の全落ち記録保持者だ。

はっきり言って中学受験に対してはいい思い出は無い。

けれど子どもには絶対に中受を回避してほしいとも思っていない。

いつだって子どもが自分で決めたのなら、その道を尊重してサポートしたいと思っている。

 

それが中学校受験なら、伴走する覚悟はある…はずだ。

 

 

しかしこの質問でまさかの自分は中受を絶対にさせたいと思っているわけではないということが分かった。

同時に、思ってもいないことはスラスラと口から出てくるタイプの人間ではないこともこんな場面でわかってしまった。

なぜ今、ここで。

 

 

「中学受験を通して何を得たと思いますか」

 

 

さらに質問は続く。

 

 

「毎日コツコツと地道な努力を積み重ねる大切さです」

 

 

夫は推定90点は下らないであろう優等生な回答をしている。

 

 

来るな…このまま来るな…!

必死で試験官から目をそらす。

チャゲアスで言ったら、もう自分のパートはやってこないためにフンフンとリズムをとり、カメラ目線を外して遠くを見るチャゲのそれだ。

 

もうASKA(夫)に全て持っていってもらって、それでフィナーレとしようじゃないか。

 

 

「お母さんはどう思われますか?」

 

フーンフンフンフ・・・チャゲが止まる。母のパートが来てしまった。

 

 

何も出てこない。いやむしろ、息も吸えていない。

 

 

「・・・・・受験に合格することだけが全てではない。

その先の人生まで自分で考えることが大切だと学びました」

 

 

最後に哲学色の濃い発言をかましてフィナーレである。

 

改めて今思っても、何を言っているのかと問い正したくなる。

微分積分、サインコサインタンジェントより、だから何なのだと聞きたい。

 

あっけにとられている夫をよそに、面接はそこで終わった。

 

 

どうしていつも自分はそうなんだろう。嘘でもいいからその場をやり過ごしたい。

とりあえずの言葉で繕いたいのに、出来ない。

 

子どもの足を引っ張ってしまった。

その思いに押し潰され、これ以上ないほど落ち込みながら帰りのバスを待つ。

 

 

「すぐだね。あと10分でバスが来る」と夫が言ったが、30分かけてバスがきた。

 

子どもの手を握ってバスに乗る。

何も話さない母をのぞき込み、バスの揺れに合わせてくるくると精一杯の変顔をしてくれる子ども

言葉は発していないけれど、その顔、しぐさから母を全身で心配してくれているのが分かる。

 

 

バスの揺れ方で 人生の意味が分かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから強く手を握るよ

ここにいるのは優しいだけじゃなく 偉大な獣

 

 

 

子どもの手を強く握り返した。

 

お教室の先生には、小学校の近くでは手をつないではいけないと言われた。

手を繋ぐ姿は幼くて、自立していないように見えるからと。

 

そんなことない。

子どもは母よりもずっと周りのことが見えていて、ずっとずっと優しいおとなだ、ううん、おとなとかこどもとかそういう分類ができる存在ではないのかもしれない。

 

いつの間にか私は子どもに超えられてしまっている。支えられているのだ。

 

 

そんなことが分かった帰り道のバスだった。

 

 

 

冷静に考えたら、この中受に対する質問への回答は以下のあたりなのだろうか。

 

中学校受験を通じて、

 

・諦めないことの大切を知った

・計画をたてて遂行することの大切さを知った

・伴走してくれる親と共に頑張ることで、ひとりよりもチームで戦う強さを知った

・同じ受験仲間と切磋琢磨する経験ができた

 

はたまた毎晩夜食を作ってくれた親に対する感謝をラストに述べてもいいのかもしれない。

 

しかし大切なことは、今度は親としてどのように伴走していく所存なのかを述べることなのかもしれない。

 

自分の経験論を話すだけなら誰だってできる。

いい歳したおじさんおばさんの成功体験だけを聞いているほど学校は暇ではない。

ましてやおじさんとおばさんの中受の経験有無のリサーチだけをしているわけではない。

 

「親」としてそこに出席している以上、これから親としてどうしていくかという考え、

つまりは教育方針に繋がるということなのかもしれない。

 

 

残念ながら私は自分の中受を通じてそこまで達観は出来なかったから

その場では流暢に出てこなかった。

 

 

面接での自分の失敗はその場に倒れこみたくなるくらいの絶望に襲われる。

本当のことを言うと、叫びたいくらいだ。

なんとか持ち直そう、持ち直そう、何度も自分に言い聞かせた。

 

 

 

走る遥か この地球の果てまで

恥ずかしくても まるでダメでも かっこつけて行く

アイニージュー いつか つまづいた時には

横にいるから ぐらつきながら 二人で見つけよう

 

 

本当は父も横にいるから三人なんだけどネ、なんて思えた私は

少しだけ笑顔を子どもに見せられるようになってきた。

 

まだまだ倒れるものか。まるでダメでも、かっこつけて行こうじゃないか。